23.あの時の子だ
受付嬢に渡された住所は、河崎から北部線に三〇分ほど乗り、小多急線に乗り換えてさらに三駅、つまり、われわれの住む境堂からそう遠くない所だった。
「そっか。そういえば、一定地域の死者が集まってるとか言ってたもんね」
【でも、出張先で亡くなったとか言ってましたよ、確か】
「あそっか。てことは、出張先が一定地域に入ってたってことか……まあいいや、んなことはどうだって。それよりクマるん、次の交差点はどっちに行くの?」
【あれを右に行くとその住所の区域内に入りますから、あとは住所表示を見ながら探しましょう】
「了解」
ポーチにぶら下がるクマ型ナビに頷き返し、四つ辻を右に曲がる。
そこは豪奢な家が立ち並ぶ閑静な住宅街だった。いわゆる富裕層の方々が集うセレブな町なのだろう、広い庭、白い壁、車庫に停まる車は大型の高級車が多く、すれ違うご近所の奥さまはブランド服をさり気なく着こなし、手入れの行き届いた大型犬を伴ってさっそうと歩いている。
通り過ぎるラブラドールレトリバーを見送りながら、クマるんはどこかぶぜんとした送信をよこした。
【やっぱりって感じですね】
「へ? 何が?」
【あのおじさん、幸せだったんだろうとは思ってましたけど、やっぱり幸せそのものの生活をしてる人だったんですね】
「んー……」
首を巡らせ、ひとわたり町を見渡してみる。
「そだねえ……ま、お金持ってるイコール幸せって、断定できるかは微妙だけど」
【でも少なくとも、僕よりは幸せですよ】
「それはそうかもしれないけど」
喋りながら、電柱に貼られた住所表示を見る。メモの住所と、下一桁が違うだけになった。近い。
「この住所は一軒家だから……」
一軒の邸宅の前で足を止めた。
黄色がかった壁に、カントリー調の白木のアクセントが映える大きな家。アプローチに配された桂の木の円い葉が、五月の爽やかな風にさわさわと揺れている。
門に掲げられた木彫りの表札には、ローマ字で「SATO」の文字。
「……ここだ」
想像以上に立派な邸宅を見上げながら、思わずゴクリと喉が鳴る。
「じゃ、いこうか」
【……って、彩南さん】
「何?」
【なんて言って入る気ですか】
「決まってんじゃん、さっき会社で言ったことと同じだよ」
【……】
無言になるクマるん。まだ吹っ切れてないのかおのれは。
「あのさクマるん、あそこで言ったことと内容を変えたら整合性がとれなくなるし、あの理由は騙りとしてはかなり優秀なんだよ。確認の取りようがないし、半分本当だし、使わない手はないんだって。どうせ見ず知らずで今日限り関係が切れる相手なんだしさ。てか、あんまいつまでもぐちぐち言ってると、怒るよ」
【……分かりましたよ】
渋々といった様子でうなずくクマるんを担ぎ直し、呼吸を整え、インタホンを押す。
よくある電子音チャイムが響く。
返ってきたのは、……無音。
インタホンの向こう側は、しんと静まりかえってこととも言わない。
【留守、でしょうかね】
クマるんの送信は心なしか嬉しそうだった。
「うっそ、マジで? もう電車賃とか時間かけてこんなとこまで来んのやだよ」
もう一回押してみる。やはり返事はない。
【留守ですって】
「しかし、なんであんた微妙に嬉しそうな訳? ムカつくんだけど」
ムカつきついでにインタホン乱打。【ちょ、やめときましょうよ彩南さん】とか何とか焦ったような送信が届いたけど、知らんがな。留守なんだから別にいいだろ。
その時。
インタホンの向こうから、カチャリと小さな音がした。
――え?
顔から音を立てて血の気が引いた。
ヤバい。
今の超印象悪くした。
開けてもらえないかもしれない。
冷たい汗が流れ落ちていく感触にゾワゾワしながら応答を待つ。
『……はい』
不機嫌モード全開の、若い女性の声。うううヤバい。
こうなったら貴公子パワーで押し切るしかない。沈痛な表情を浮かべ、なるべく落ち着いた声音を心がける。
「あ、あの……お休みのところ、お騒がせしてしまってたいへん失礼いたしました。実は僕、先日、ある件で、佐藤重則さんにたいへんお世話になった者なんですが……、その件で今日、お礼を申し上げようと会社の方に伺ったところ、お亡くなりになったと聞きまして……それで、もしよろしければ、お焼香だけでもさせていただければと思って、ご自宅にお伺いした次第なのですが」
『……お父さんの?』
声の感じはかなり若い。
娘さんか。
インタホンの向こうが再び静まりかえった。
【開けてくれますかね】
クマるんも、心配そうにドアの向こうを見つめている。
「どうかな……かなり印象悪くしちゃったし、不審者感は高いからね。あえて論点をぼかして伝えたから、興味を持ってくれれば扉くらいは開けてくれる可能性はあるけど、中に入るのは難しいかな。とりあえず、ご家族の皆さんが元気にやってるかを確かめればいいだけだけなんで、玄関の扉越しに話ができればそれで」
小声で応えていると、カチャリと鍵の開けられる音がした。
やった。まずは第一段階クリア。
チェーンはかけられたまま、ドアが細めに開けられる。
警戒心たっぷりの目が、ドアの隙間から垣間見えた。
「突然お伺いして申し訳ありません。僕、柴崎泰広という者です」
自己紹介して頭を下げるも、女性は無言のまま、相変わらずうろん気にこちらを見ているだけだ。
固い空気を和らげなければ。よし、こんな時こそあの話題だ。
「実は僕、先日、電車内で痴漢に遭いまして」
「え?」
ドアの隙間から響いてきた声はワントーン高くなり、いくぶん裏返っていた。よしよし。やはりこの話題は食いつきがいいな。
「男専門の痴漢だったんですけど」
「はあ……」
引き気味な反応。そっか、この子はあの受付嬢よりは若いから、この手の話には引くかな。慌てて言葉を継ぐ。
「その時、佐藤さんが僕を助けてくださったんです。お礼を言おうとしたら、急ぐからと名刺を渡して去って行かれて」
女性は何も言わず、眉根を寄せてあたしを見ている。
「僕、どうしてもお礼が言いたくて、名刺に書かれていた携番に電話してみたんですけど、使用されてなくて……それで今日、会社の方を訪ねてみたんです。そうしたら、お亡くなりになったって言われて、すごく驚いて……それで、突然でたいへん申し訳なかったんですが、どうしてもお焼香をさせていただきたくて、伺わせていただいた次第です」
できるだけ丁寧に事情を述べ、深々と頭を下げてみる。取りあえず、これで興味を持ってもらえて、少しだけでも話ができれば。
だが、女性は無言のまま、じっとあたしを見つめているだけだ。
やはりインタホン連打の悪印象が響いたか。調子に乗ってアホなことをしなければよかったと腰を折り曲げた姿勢で猛省していたあたしの耳に、チェーンが外されるカチャリという音が響いた。
――え?
チェーンを外すためにいったん閉じられたドアが、再びゆっくりと開かれる。
「……どうぞ」
――入れてくれんの? マジで?
あわてて体を起こし、居住まいを正して正面を向いてから、視界に映りこんだその姿に一瞬、呼吸が止まりそうになった。
そこに立っていたのは、あたしたちとちょうど同年代くらいの女子だった。
肩くらいの茶色っぽいミディアムヘアと耳のピアス、ゆったりしたスウェットパンツにゆるめのTシャツをさらっと着た、どこにでもいそうな、ごく普通の雰囲気の女の子。制服とかを着せて遠目から見たら、大多数にうまく埋没しているタイプかもしれない。
でも、あたしは覚えてる。
【……彩南さん?】
黙り込んだあたしを、クマるんが不審そうに見上げた。
「……なに?」
女の子が鬱陶しそうに眉根を寄せ、顔にかかる髪をかき上げる。
でも、あたしは動けない。
『泣いてたってしょうがないしね。いなくなった人間のことなんて、さっさと思い出に風化させるのが精神衛生上一番いいんだよ』
――この子、あの時の子だ。