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22.あんたは何にも悪くない

 決死の覚悟で意識を開き、怪しいオヤジに目を光らせてくれたクマるんの功績もあり、残り三駅を何とか無事にやり過ごしたあたし達は、河崎駅に到着した。

 ようやく安心したのだろう、意識を閉じて脱力したクマるんとともに人波に押し流されながらコンコースを抜け、ゴチャゴチャしたバスターミナルの向こうに巨大なビルがそびえ立つ駅前広場に出ると、歩道脇に設置された案内板に目を凝らす。


「えっと、住所は河崎区汐浜……」


 名刺に書かれていた住所を頼りに地図を眺めると、どうやらずいぶん海岸寄りまで歩かなければならないことだけは分かった。が、いかんせんあたしは地図というものの見方がいまだによく分からない。目の前に整然と示された図と、現実の風景がどうにも一致しないのだ。右に行けばいいのか左に行けばいいのか、いくら眺めてもさっぱり分からない。

 立ち尽くしているあたしにしびれを切らしたのか、意識を開いたクマるんが急かすような送信をよこしてきた。


【どうしたんですか。場所が分かったら早く行きましょう】


「え? ……いや、でもさ、地図的には分かったんだけど、これを現実に置き換えたらさ、要するに……どっちに行ったらいいの? なんて」


【は?】


 クマるんは黙り込んだ。

 バスターミナルを行き交う車のエンジン音が、わだかまる沈黙をかき消すように響き渡る。


【……どっちって、見たとおりですよ】


「見たとおり? じゃ、こっちに行けばいいってこと?」


 地図に表示されている汐浜は画面左上。その方向に足を一歩踏み出したあたしの動きを、クマるんの慌てたような送信がさえぎる。


【逆ですよ逆、そっちに行ったらまるっきり反対じゃないですか】


「だってあんた、見たとおりって言ったんじゃん!」


 ぶちキレて大声で怒鳴り返してから、顔を引きつらせる通行人の皆様の視線に気づいて思わず首を縮める。ヤバい。この姿で今の喋り方はヤバ過ぎる。

 

「……そうよ。どうせあたしは方向音痴よ。行った先から帰ろうと思っても、体が反転した途端どっちに行けばいいのか分からなくなるし、地図の見方も全然わかんないし」


 半泣きでささやくあたしを見上げながら、クマるんはため息でもつきそうな雰囲気で少しだけ肩をすくめた。


【彩南さん、僕を表示板の前にかざして】


「え?」


【僕がナビりますから、地図を見せてください】


「……あ、分かった」


 慌てて周囲に不審がられない程度にクマるんを持ち上げて地図の前にかざす。


【OKです】


「え?」


 三〇秒もたってないよ。


「もういいの?」


【もういいです。右に見える横断歩道を渡ってください】


 クマるんの返答が、やけにきっぱり頼もしく感じられる。


「わ、わかった」


 半信半疑で頷きながら、何だか恥ずかしいような、情けないような、それでいて妙に心強いような、複雑な気分で足を踏み出した。



☆☆☆



 その後、クマるんとあたしは一度も道を間違えることなく、おそらく最短距離で、目指す「株式会社東洋製紙」に到着した。

 会社の名前が書かれたガラス張りの大きな白いビルの前に立ち、思わず両手を挙げて大きく伸びをする。


「いやー、今回ばかりは助けられちゃったね。ありがと、クマるん」


 クマるんはそんなあたしを、横目でじとっと見ている雰囲気だった。


【僕、ときどき彩南さんが心配になります。今回のことといい、電車内の対応といい、この間の足し算にしても……】


「うるさいなあもう、誰だって得意不得意はあるってもんよ。んなこと言ったら、あたしだってあんたにはしょっちゅうハラハラさせられてるんだからね!」


 一人でブツブツ喋っているとでも思われたのだろう、ビルから出てきたネクタイ姿のオヤジに訝しげな目線を投げられた。っと、ヤバイヤバイ。


「じゃ、いきますか」


 海風に吹き散らされた髪を整えつつ、大きなガラスの自動扉をくぐってビルに入り、艶やかな大理石が目に眩しいエントランスを抜け、きれいなお姉ちゃんが座る受付に向かう。


【それにしても彩南さん、何て言って聞くつもりですか】


「え? 何って……そうだなあ、佐藤さんいますかって」


【いないって言われておしまいじゃないですか、それじゃ】


 歩きながら、肩口で揺れるクマるんに目を向ける。


【昨今は、どこも個人情報の保持に神経質ですから、住所や電話番号なんて普通に聞いてもそうそう簡単には教えてもらえないような気が……】


「それはさ、顔が見えない時の場合でしょ」


【え】


「あたしがなんでこんな所までわざわざ出かけてきたか分かる? 電話じゃ一蹴されるようなことでも、お互いの顔が見えてりゃ、案外、人は信用してくれるもんなの。第一、あたし達は何も悪いことをしようとしてる訳じゃないんだから、堂々といきゃいいのよ、堂々と」

 

【堂々って……】


「何とかなるもんだって。ダメだったら、またその時考えればいいし」


 歩みに合わせて肩口で揺れながら、クマるんはなぜだか苦笑めいた送信をよこした。


【何ていうか……彩南さんって、ほんとおもしろいですよね】


「そお? あたし的には、あんたのがよっぽどおもしろいけど」


 呟きつつ受付嬢の前に立ち、居住まいを正す。訝しげに目線を上げた睫毛の異様に長い受付嬢に、深々と一礼。


「こんにちは。僕、柴崎泰広といいます」


「あ、はい。こんにちは……」


 受付嬢は面食らったようにあいさつを返すと、長い睫毛を二,三回パチパチとしばたたかせた。


「実は先日、僕、電車の中で痴漢に遭いまして」


 よほど思いがけないフレーズだったのだろう、受付嬢が目をまるくして固まった。

 肩で揺れるクマるんも、受付嬢同様、冷えすぎたアイスキャンディーさながらに凍りついている。


「ち、……痴漢、ですか」


「ええ。男専門の」


 睫毛な受付嬢は、シバサキヤスヒロであるあたしを好奇心満開の視線で上から下まで舐めるように眺め回した。隣に座っているまとめ髪がキュートな受付嬢も、半分身を乗り出してこちらの話に全神経を集中させている。

 つかみはOKだな。


「その時、僕を助けてくれた方が、この名刺を渡して風のように去って行かれたんです」


 差し出された名刺を、受付嬢は二人して覆いかぶさるように覗き込んだ。

 

「僕、この方にどうしてもお礼が言いたくて、名刺に書かれていた携番にかけてみたんですけどつながらなかったんです。それで、今日は学校が開校記念日だったので、こちらに来ればお会いできると思って……」


 受付嬢は名刺から顔を上げ、互いに目配せし合ったようだった。それから、睫毛な受付嬢が沈痛な面持ちで口を開く。


「……実は佐藤部長、お亡くなりになったんです」


「えっ?」


 大げさに目をまるくして息を呑むあたしに、睫毛な受付嬢は憐憫と好奇が入り交じった熱いまなざしを注ぐ。


「出張先で、心筋梗塞で倒れられて……」


「そんな……」


 唇を震わせて睫毛を伏せるあたしを見て、受付嬢の頬がほんのり赤く染まった。

 もう一押しかな。


「……僕、せめて、お焼香だけでもさせていただきたいです」


 絞り出すように呟き、少しだけ目線を上げて受付嬢を見やる。

 受付嬢は射すくめられたように息を呑み、瞬きも忘れてシバサキヤスヒロに見入っていたが、やがてチラリと隣の受付嬢と目配せし合い、互いに頷き合ってから、引き出しに入っていた職員名簿を取り出し、声を潜めた。


「住所と電話番号、教えてあげる。今メモするから、待ってて」


 完了。

 ほくそ笑むあたしを、肩にぶら下がるクマるんは複雑な表情を浮かべて見上げているようだった。



☆☆☆



【あり得ないですよ】


 突然、クマるんがポツリと送信してきた。


「何が?」


 海が近いのだろう、潮の香りをはらむベタッとした重い風に前髪を吹き散らされつつ駅への道を歩きながら、軽い調子で聞き返してみる。

 

【痴漢のこと、まるっきり知らない他人にばらすなんて……】


「ああ、そのこと?」


 あえてさらりと受け流し、不遜な笑みなんか浮かべてみたり。


「言っちゃまずかった?」


【当たり前じゃないですか! 見ず知らずの他人に、自分の恥部をさらすようなマネ……】


「恥部なの?」


 言葉を遮られたクマるんは、続けようとした言葉を呑み込んであたしを見た。


「どこか恥部なの?」


【どこがって……】


「あんたが何か悪いことでもしたの?」


 潮臭い海風に吹き散らされる前髪をかき上げ、都心に比べて横長な風景に目を細める。


「エロおやじに痴漢されたのってあんたのせいなの? あんたに隙があったから呼び込んだの? それとも、そういうことをしてほしくて待ってたの? オヤジの手でなぶられるのが実は好きなの?」


【冗談じゃないですよ! そんなことある訳が……】


「じゃあ恥部なんかじゃないじゃん」


 黙り込んだクマるんをチラリと見やり、海風を胸いっぱいに吸い込んでみる。


「あんたは何にも悪くない。だから、隠す必要なんかない。誰かが後ろ指指したとしたら、それは指したヤツの方がおかしい。あんたは自分に自信を持って、堂々としていればいい」


 吸い込んだ空気とともに一気に言葉を吐き出してから、黙り込んでぶら下がっているクマるんに、ちょっと笑いかけてみせる。


「だからあたしも、堂々としてるの」


【え?】


「あたしも、悪くないから」


 視界の端で、クマるんはあたしをじっと見上げている。

 十メートルほど先の横断歩道で、信号が点滅し始めた。

 業務用車両が地響きを立てて走り抜ける広い交差点は、巻き上がる砂ぼこりと排気ガスで空気が薄黒くけむっている。

 間断なく降りそそぐ騒音に紛れるように、あたしとクマるんはしばらくの間、黙って交差点にたたずんでいた。

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