21.ふざけんな
本文中に性的な表現がある……かも。
R15に相当するかどうかは微妙ですが。
軽浜東北線は、ラッシュの時間帯を少し過ぎていたにもかかわらず、結構な混み具合だった。
戸口脇の手すりに寄りかかると、肩のクマるんにそっと声をかける。
「クマるん、ちゃんと意識閉じてる?」
【と、閉じてます】
「お、よしよし。気失ってないね」
二度目の体験にはある程度耐性がつくことが分かっていたので、あたしは乗車前、クマるんに、電車の中ではできるだけ意識を閉ざしておくように申し渡しておいた。昨日、混み合った電車内でもある程度柴崎泰広が耐えられたのは、もちろん必死にならざるを得ない状況だったこともあるけれど、眼鏡がなかったことが大きな要因だったと考えられるからだ。視界が閉ざされ周囲の状況が把握できなければ、柴崎泰広も恐怖を感じることはない。クマるんに憑依している間は、視覚的に状況を感じとる意識を閉じておきさえすれば、それと同じ状態が作れるはずなのだ。
あたしの予想は見事に当たったらしく、ネクタイオヤジや作業着オヤジや大学生風の若者に取り囲まれたこの状況下でも、クマるんは何とか気を失わずに意識を保つことができていた。
「この調子なら、連休明けは高校も通えそうじゃん」
【……え、いや、それはちょっと】
「なんでそう弱気なレスすんの? もっとこう、人生前向きにさあ」
【でも、高校にはあの男が】
……あの男?
途端に、不気味な笑みを浮かべつつ柴崎泰広に詰め寄ってきたあの男の顔が脳裏を過ぎり、背筋を一気に悪寒が駆け上がった。
「……うわ、ちょっと、やなこと思い出させないでよ。あいつって、同じクラスなんだっけ」
【ええ。僕が三日で登校を断念したのも、あの男がいたからです】
「うう……鬼門だわね。あいつ、名前は何ていうの?」
【いや、避けることばっかり必死になってたんで、名前まで覚えてないですけど……おとといは確か、西ちゃん、とか呼ばれてましたよね】
「そうだった。友だちとの関わり方は特段おかしくない感じだったけどね。西田、西野、西村……いった何者なんだろ。黙ってれば、あいつもそんなに悪くない見てくれだってのに、性格が最悪すぎ」
【……だからやめときましょ、高校行くの】
「まあたそう後ろ向きな発言する! あのくらいの障害がなんだっての。根性だよ、根性!」
あたしだってちょっといやだけどさ。人生に障害はつきもんなのよ。
ひそひそ話している間に電車が駅に着いたらしく、大勢の人が雪崩を打って乗り込んできた。さっきまでは人と人との間に辛うじて空間があったのに、たちまち空間は人で埋まり、体をきつく押しつけられて息もできないくらいになった。
あたしの後ろに立っていた三〇代くらいの派手な身なりの男も、人に押されるままに体をねじるでもなくびっちりとあたしの背中にくっついてきた。背は一七〇センチくらいなので、あたし……すなわちシバサキヤスヒロとそう変わらない位置に顔がある。電車でここまで臆面もなく男性が体を寄せてきたことなど、ついぞなかった。要するにあたしが女の時は、痴漢と間違われないよう男性諸氏も気をつけていたということなんだろうけど……見た目が男でありながら内面は女なので、正直かなりつらい。キモい。かといって、金のぶっといネックレスをぶら下げ、派手なやくざ風のジャージを着たいかにもなオラオラ系なので、邪険に突き返すのも怖い。
オラオラ野郎の呼気が耳をふうふうと撫でる。背筋がゾクゾクする。いやああもう最悪。
半泣きでくずおれそうなあたしの頭に、クマるんの切羽詰まった送信が届いたのは、その時だった。
【彩南さん、こいつヤバイ。逃げて!】
「え?」
ヤバイ? 逃げる?
言葉の意味を咀嚼する間もなく、尻の辺りに何かゴリッとした固い物があたる感触。
え? 何これ?
固い物はどうやらオラオラ野郎の股にくっついているものらしい。電車の振動に合わせ、グリグリと擦りつけるようにそれを押しつけてくる。
背筋をムカデの大群が一斉に這い登るような感覚に襲われ、呼吸も瞬きも忘れて凍りつく。
この感触は、多分アレだ。
いや待て、あたしは今、男の姿のはず。
そしてこのオラオラ野郎も、男。
つまりこれは俗に言ういわゆる一つの……
……マジ!?
あまりのことに思考が一気にヒートアップし、何が何だかわからなくなった。
ここまでヘビーな状況には、女の時分にだって遭遇したことはない。
逃げようにも、一分の隙なく押さえつけられている体はほとんど動かしようがない。
オラオラ野郎はそんなあたしの尻にグリグリと自分のナニを擦りつけつつ、腰に回した右手を股間に伸ばし、そこにあるものをゆっくりと撫でさすり始める。
頭の中が真っ白になった。
耳をかすめて流れ去る、いやに熱く生臭い息。
オラオラ野郎の首筋から漂ってくる、すえた汗の臭い。
体をまさぐる、ゴツゴツした大きな手。
動けない。
息ができない。
胸が苦しい。
ただひたすら、胎内で聞く心音のような電車の振動音だけが、うるさいくらい鼓膜を震わせ響き渡る。
斜め後ろから、オラオラ野郎の粘つく視線を感じた。
ゆるゆると目線を流すと、生臭い息を吐きかけつつ、汚らしいひげに覆われたの口の端をゆがめてニヤリと笑い、股を往復させていた指先にさらに力を込めてくる。
下半身が熱い。
引きつるような痛みに意識を戻すと、オラオラ野郎に擦られている自分のそれが、狭苦しいジーンズの中いっぱいに膨らんでいることに気がついた。
――なんで?
訳が分からなかった。
感じたことなんて、今までだって一度もない。
体は売ったとしても、心は絶対売らないから。
心を許さない限り、女は絶対に感じないから。
それなのに。
完全拒否してるはずなのに。
なんだってこんなヤツの手なんかに、思い切り反応しちゃってるんだよこいつは!!!
崩れ落ちるプライドと、下半身の甘美な疼き。
そのあまりの二律背反に思考は停止し、視界に映り込む吊り広告がぼんやりとにじみ、かすむ。
逃げようにも、四肢には全く力が入らない。
絶望し、抵抗を諦め、オラオラ野郎の腕に為す術もなく体重を預けかけたあたしの頭に、切羽詰まったような鋭い意識が響き渡ったのはその時だった。
【彩南さん!】
――え?
【しっかり、彩南さん!】
――クマるん?
【もうすぐ駅に着くから! 河崎じゃないけど、いったんそこで下りよう!】
――駅。
【それまで、なんとかもちこたえて!】
ガタリと電車が揺れた。
もう一度ゆるゆると首を巡らし、背後に立つそいつの顔に目線を流す。
オラオラ野郎は相変わらず汚らしい口の端に下卑た笑みをこぼしていた。その右手は相変わらず、股にあるその部分を、さも愛おしそうに撫でさすっている。
――ふざけんな。
腰が砕けそうな感覚に目眩を覚えつつも、高速の瞬きを二,三度繰り返して視界をクリアに修正し、精いっぱいの目力を込めてオラオラ野郎を見据える。
オラオラ野郎の向こうに垣間見える風景が、さっきよりもゆっくりした速さで流れていた。
電車が駅に滑り込んだのを確認してから、息を思い切り深く吸う。
「何しやがんだこの変態! 俺の体に触んじゃねえこのタコ!」
掠れて裏返るほど張り上げた声は、人で埋め尽くされた狭苦しい電車内いっぱいに響き渡り、大勢の乗客の目が一斉にこちらに向けられた。
肩にぶら下がるクマるんの、息を呑む気配。
あまりの事態に、さすがのオラオラ野郎も目をまるくして硬直した。
「大人しくしてりゃいい気になりやがって。ざけんじゃねえぞコラ! 訴えてやるからなこのクソ野郎!」
「新小安~、新小安~」
ガタリと揺れて電車が停止し、扉が開いた。
口を半開きにしているオラオラ野郎を残し、あぜんと見送る乗客達をかき分けてホームに降り立ってから、車内をもう一度睨み付ける。
人々の頭越しに、オラオラ野郎の後ろ向きの頭が見えたが、追ってくる気配はない。
低い音を立てて、電車の扉が閉まった。
走り出す電車を見送るうちに膝がガクガク震え始めて、慌てて側にあった柱に体をもたせかけた。
【危なすぎますよ、彩南さん……】
クマるんの、どこかぼうぜんとした送信が届く。
「クマるん、意識あったんだね。てっきり倒れてるかと思ったのに」
【気になって倒れてるどころじゃなかったですよ。よくあんなことをしましたね。追ってきたらどうするつもりだったんですか】
「ぶん殴ろうと思ってた」
【ぶん殴るって、……】
あきれたように言葉を失うクマるんに、少しだけ笑いかけてみせる。
「だって、せっかく男の体になったんだもん。やりたくてもできなかったこと、やってみようかなって」
【僕の体じゃ、大したことはできないですよ】
「それでもあたしの体よりはマシだよ。体力も腕力も全然違う。生活してて、それはすんごい感じるもん」
例えば、瓶の蓋を開ける時。
重い荷物を持ち上げる時。
長い距離を走る時。
やっぱり男だなあって、つくづく思い知らされる。
悔しいけど、それは事実なのだ。
【だからって、あんな危ないこと……】
「うん、あたしも今になって怖くなってきた。……ほら」
クマるんに、右手を差し出してみせる。
傍目にも、震えていることがはっきりと分かる。
「でも、悔しかったんだもん。この体、あんなヤツの手に思い切り反応してるし。マジであり得ない」
クマるんはドキッとしたように動きを止めた。
【そ……それは仕方がないんです。体のつくりがそうなっちゃってるんですから】
「まあね。中に入ってたのはあたしだし、気持ちの問題じゃないってことは分かってる。でも、あたし的には悔しかったの! 勝手に膨らみやがってこのタコ!」
【やめてください、それに罪はないんですって。悪いのはあの痴漢であって】
クマるんの必死な弁明はある種の自己弁護ではあるのだろうけれど、同時にあたし自身の被害性をちゃんと認識してもらえている気がして、聞いているうちにささくれ立った気分が少しだけ落ち着いてきた。
そうしたらふと、あのとき疑問に思ったことが頭によみがえってきた。
『彩南さん、こいつヤバイ。逃げて!』
「ねえ、クマるん。そういえばさ、どうしてあいつが危ないって分かったの?」
【え? ……いや、昔から僕、しょっちゅうああいう目に遭ってたんで、それ系のヤツはだいたい分かるんです】
「だからさ、見ればって、あんた意識閉じてたはずじゃん」
【……え】
クマるんは数刻黙りこんでいたが、やがて遠慮がちにこんな送信をよこした。
【いや、だって……彩南さん、危なっかしすぎて……様子を見ないではいられなかった】
ため息でもつくような雰囲気で、重そうな首を足元に向ける。
【中学に上がって電車通学を始めた途端に狙われまくったんです。コンタクトに変えたことが原因だと思ったんで、それまで使っていたあの瓶底眼鏡に戻したら、それである程度は落ち着いたんですけど……やっぱりその眼鏡でも狙われましたね。これからは、あの瓶底眼鏡にしてください】
そういうことだったのか。
だからこいつは、最近の眼鏡事情も知らなかったんだ。
「……分かった。電車移動の時はあのキモオタ眼鏡にしておくよ。たださ、あのおばさんのところでバイトをする時だけはこの眼鏡にしよ。あんなんでもいちおう客商売だからさ」
【ええ、それはそうですよね】
「今日のところはこの眼鏡でがんばるしかないから、とにかくヘンなオヤジが近づいてきたら早めに教えて。すぐに逃げるから」
【分かりました】
「ところでさあ……」
ポーチにぶら下がるクマるんを横目でじとっと見る。
クマるんは何かを感じたのか、少しだけ気圧されたようにあたしを見上げた。
【なんですか】
「あのさ、ちょっと聞きにくいんだけどさ……これ、いつ戻るの?」
【これ?】
あたしの指が指し示すこんもりした部分に目を向けて、クマるんはギクリとしたように固まった。
【そ……それは、ほっとけば数分でしぼみます】
「数分っていったって……このままじゃすんごい恥ずかしいし、しかもけっこう痛いんだけど」
【しょ、しょ、しょうがないですっ! ほっといてくださいっ】
「おまけに何か気分が高揚するというか、ムラムラするというか」
クマるんはもう人目も構わず楕円形の腕をちぎれんばかりにぶるんぶるん振り回してうろたえている。
【あああああああもう! じゃあ、トイレにでも行って出しますか?】
「え? トイレでなんとかなるの?」
【……あ、いや、それは、あの……とにかく、ほら、次の電車が来ましたよ。乗りましょう電車】
「乗れないってこのまんまじゃ! 滅茶苦茶みっともないし、結構つらいんだってこれ」
【ガマンしてくださいガマン!】
「ガマンとか無理! マジで恥ずかしいんだからこれ。じゃあしぼむまでここで待つよもう!」
結局そのあとあたし達は、ウエストポーチで盛り上がった部分を隠しながら、ホームのベンチで電車を二本やり過ごすはめになった。
全く、あのクソオヤジ!