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20.あああああいいわこれ。マジでいい

 コメを炊きみそ汁を温めシャケを焼いてほうれん草を茹でカボチャを煮つつも、気がつくと吸い寄せられるように足が洗面所に向かってしまう。

 昨日からもう何回目だろうか。くすんだ鏡面に映る自分……シバサキヤスヒロの顔をうっとりと眺めやり、感嘆のため息。


「あああああいいわこれ。マジでいい」


【ちょっとちょっと彩南さん、カボチャ吹きこぼれてますよ!】


 台所方面からクマるんの上ずった送信が響いてきた。うるさい。


「何? ガス栓くらいひねってよもう、うるさいなあ」


【無茶言わないでくださいよ! 楕円の手じゃひねりようがないし、第一背が届かないんですから】


「わかったよもう、今行くって」


 鏡の中の貴公子に後ろ髪を引かれつつもいやいや台所に戻ると、節穴だらけの床の上でクマるんが楕円の腕を組み、憤然とあたしを見上げていた。


【全く、何がそんなに面白いんだか。昨日から、鏡の前にばっかり行って】


「何がってあんた、驚愕じゃない? この変貌ぶり。あんたって眼鏡変えただけで、マジで頭のいい貴公子って感じだよ。自分で思わない?」


 あの店は小さいとはいえそれなりに垢抜けた雑貨屋だ。採用されたからには、ある程度格好に気をつかわなければまずい。当然のことながら瓶底眼鏡など論外だ。ということであのあと、下北山の眼鏡屋に繰り出して、新しい眼鏡を誂えたのだ。


「それにしても、思ったより安く作れてよかったよね。こんなことならもっと早く作っとけばよかった」


 眼鏡屋で計測した柴崎泰広の視力は、左右ともに〇.〇三。相当値が張るだろうと覚悟を決め、ポーチの中に入っていた十万を握りしめていたら、会計で言い渡された値段はなんと一万六千八百円だった。最近の眼鏡って安く作れるんだなあと妙に感心。しかし、目のいいあたしが知らなかったのは仕方がないとして、どうして目の悪い柴崎泰広がそのあたりの事情を知らなかったんだろう。引きこもっていて外に出ないから、情報が入らなかったということなんだろうか。

 なにはともあれ、思ったよりお金が余ったので、仕事用の洋服もさらに少し買い足した。Tシャツやジャケットや靴ならあたしのままでも試着できるし、結構着こなしの幅も広がった気がする。全部で三万円弱の出費だったが、先行投資なのでやむを得ない。

 それにしてもシバサキヤスヒロ、こいつ素材は悪くないと思ってはいたけど、まさかこれほどとは思わなかった。涼しい目もとと形のよい眉がバランスよく配された顔だちにシンプルなフレームが映え、通った鼻筋がそこはかとない上品さすら感じさせる。フレームに軽くかかるサラサラの前髪もたまらない。眠剤を大量摂取して自殺未遂までやらかした不登校の引きこもりとはとても思えない仕上がりだ。

 しかし。肝心の柴崎泰広本体であるクマるんは、自分の肉体の変貌ぶりに全く頓着しない様子で、あきれ返ったように首を振った。


【何がそんなにいいんだかさっぱり分かんないですよ】


「えええええええ? 何それあんたマジで言ってる?」


【ええ。僕はこの眼鏡の方が好きですね】


 言いながら、テーブルに置かれている瓶底眼鏡を愛おしそうに眺めやるので、思わずため息が漏れた。


「あんたの趣味って意味わかんない。大体、新しい眼鏡を買ったんだからそんなの持って帰る必要はなかったのに、駅に聞いてくれ聞いてくれってうるさいったら」


【僕はこの眼鏡の方が落ち着くんです。駅で保管してくれていてほんとうに助かりましたよ。悪いですけど、僕が僕である間はこっちの眼鏡にさせてもらいますからね】


「えええええ、うそぉ。やめなよ、そんなキモオタ眼鏡」


【ほっといてください。何を言われようと僕はこれが好きなんです】


 クマるんは憤然と送信すると、煮上がった大量のカボチャにけげんそうな視線を投げた。


【それにしても、そんなにたくさんカボチャを煮てどうするんですか。一人じゃとても食べきれませんよ】


「は? 何言ってんの、普通に食べきれるって。小分けにして冷凍するから」


 キョトンとして黙り込んだクマるんを横目に、小さなタッパーにカボチャを少量ずつ放り込む。


「朝食と弁当に使う分はとっといて、あとは冷凍しておけば好きな時に好きな分だけ食べられる。弁当に凍らせた状態で入れれば、暑い時期なら腐敗防止にも役立つし」


 みそ汁も昨夜の残り。一人分はその都度作っていたら、ガス代も手間もかかってしまう。別に二食同じもの食ったって死にゃしない。毎食違うものを食べたいとかぜいたくを言うなら、ちょっとした具を混ぜ込んだだけでもまた雰囲気は変わるし、節約生活に贅沢は言っていられないのだ。


「シャケも多めに焼いて、半分はおにぎりの具にするね。いちいち買い弁してたら、お金なんかいくらあったって足りゃしないんだから」


 冷蔵庫の麦茶を小さな水筒に注ぎながら、ちらりと足元のクマるんに目線を流す。


「……で、あれだよね。あんたは、今日も高校に行く気はないんだよね」


 クマるんはギクリとしたように動きを止めた。


「いいいい、分かってるって。連休はざまのこんな日に一日ばっか登校してもしかたがないし、おばさんのとこの仕事は明日からだし、今日は懸案事項を片付けよう」


【懸案事項?】


「これね」


 食器戸棚の引き出しから紙片を取りだし、クマるんに向かってかざしてみせる。


「いいかげん、おじさんとの約束を果たしてあげなきゃ、寝覚めが悪いじゃん?」


 クマるんは黙って、人差し指と中指に挟まれてひらひら揺れる名刺を見上げている。

 複雑な感情を読み取った気がしたので、少々意地悪くこんな質問をしてみたり。


「何? あんた、あのおじさんの頼み事なんか聞いてあげたくないって感じ?」


 クマるんは、あたしの視線から逃れるように斜め下を向いた。


【……いや、そんなことはないです】


「ならいいんだけど」


 名刺をポケットにしまいつつ、貴公子のほほ笑みでにっこり笑いかけてみせる。

 うーん……鏡見たい。



☆☆☆



【何でわざわざ会社にまで行くんですか】


 爽やかな初夏の朝風に目を細めつつ、駅へ続く緩い坂道をくだるあたしに、歩みに合わせて揺れながら、クマるんはどこか不服そうな送信をよこした。


【名刺に書かれていた携番につながらなかったからって、会社の電話番号は載ってたんですから、会社に電話をかければすむ話じゃないんですか?】


「それじゃ何もわかんないんだって」


 肩で揺れるクマるんにチラリと目を向け、意地悪くこんな質問。


「なに? 電車に乗るのがいやな訳?」


 クマるんは一瞬言葉に詰まってから、一段トーンの低い送信を返してきた。


【……ホントに、その眼鏡で行くんですか】


「当然。何であたしがわざわざあんなキモオタ眼鏡なんかかけなきゃなんない訳?」


【知りませんよ、何があっても】


 いったい何があるっていうんだこのクマは。

 肩をすくめつつ、ポケットから名刺を取りだし眺めやる。


「株式会社東洋製紙……とにかく、この会社に行って、佐藤さんっておじさんのことを聞いてみよう。うまくすれば、家がどこだかも教えてもらえるかもしれない」

 

【河崎でしたっけ】


「そ。結構遠いね」


 歩きながらふと前方を見ると、坂を上ってくる制服姿の女子二人連れがキラキラした目であたしを見ていることに気がついた。目線をあわせると、「きゃ」とか何とかいいつつ嬉しそうに首を縮めてみせる。

 おもしろいので、笑いかけながら小さく手とか振ってみたり。


「きゃー」


 女の子たちは真っ赤になって目を×印にしながら早足で行き過ぎた。


「いやー、おもしろい! おもしろいねえ柴崎泰広」


 嬉しくなって小声でささやきかけると、クマるんは揺れながら不服そうな送信をよこした。


【どこがですか。やめてくださいよ人の体で遊ぶのは】

 

「いいじゃんあたしの体でもあるんだから遊んだって」


【おもしろがってられるのも今のうちですよ】


 クマるんは謎の言葉を吐き捨てるように送信したきり、黙り込んだ。

 いったい何のこっちゃ。

 この時のあたしは、クマるんが何のことを言っているのか、まるっきり見当がつかなかった。

 そしてあたしはこのあと、クマるんのこの言葉の意味を、いやと言うほど思い知ることになるのだ。

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