2.逝きたいあんた
「ダメだ、船には乗せん!」
渡し守の怒声と、体が激しくぶつかり合う気配。
なんとか体を桟橋上に残して振り返ると、櫓を放り捨てた渡し守が、船に無理やり乗り込もうとしている何者かの襟首をつかみ、桟橋に引き戻そうとしているところだった。
その人物……どうやら、若い男らしい……は、渡し守の叫びなんかまるで耳に届いていないかのようだ。つかまれた汚らしいTシャツの首もとが裂ける勢いで、船に乗り込もうと踏ん張る足の力を緩めようとしない。
渡し守は「チッ」と小さく舌打ちしたようだった。
まるでそれが合図ででもあったかのように、渡し守の上半身がムクムクと膨らみ始めた。着ていたボロがメリメリと裂け、見る間に筋骨隆々たる体躯が姿を現す。
落ちくぼんだ眼窩の奥にある黄色く濁った目は瞬く間に鋭い眼光をたたえ、乾いた唇の間からのぞく隙間だらけの歯はグングン伸びてあっという間に立派な牙になった。しなびた手から生えた鋭い爪がつかんでいた男のTシャツを突き刺し、身の丈三メートルほどもあろうかという赤鬼に変貌した渡し守は、右手一本で軽々と男を持ち上げた。
男は中空で足をばたつかせながら、かすれて裏返った声を張り上げた。
「乗せてください……その人の代わりに乗せてください!」
「ダメと言ったらダメだ。命の砂が尽きていない生者を船に乗せることはできん」
鬼の声は、まるで地の底から響いてくるように深く、重く、あたり一帯をビリビリと震わせて反響する。
男は襟元をつまみ上げられたまま、泣かんばかりに喚き立てた。
「命の砂なんか要りません! 欲しい人にあげてください、その人でも誰でも……」
「いるとかいらないとか、おまえが決められることではない!」
言い捨てるや、鬼は水滴でもふるい落とすかのように指先を払った。
たったそれだけで、男の体は小石のごとく軽々と数十メートル飛んだ。川岸に立つ大樹の枝に引っかかってぐるりと大きく一回転し、無様にぼたりと地面に落ちる。
「全く……今日は訳の分からんヤツが多くて困るわい」
赤鬼の身の丈はたちまちのうちに縮まり、いつの間にか元の老婆に戻っていた。裂けたはずのボロも元どおり体に巻き付いているのが何とも不思議だ。
それにしても、鬼とは知らなかった。先ほどよりは下手に出ながら恐る恐る聞いてみる。
「あ……あの人は?」
まだ気が立っているのか、渡し守は血走った三白眼でギロリとあたしを睨み、忌々しげに吐き捨てた。
「あれは生者さ」
「生者?」
「死んでいないのさ」
思わず振り返って木の根元を見やる。頭でも打ったのだろう、男は木の根元に平べったくなって転がっている。
「自殺して死にきれなかったのさ。それなのに川を渡らせろ渡らせろとさっきからうるさくてしょうがない」
「そんなに死にたいんなら、渡らせてやればいいのに」
「……だと?」
渡し守が口をひん曲げて黄ばんだ歯を剥き出したので、慌てて作り笑いを浮かべてみせる。本当にそういう表情が現れているか定かではないけど、気持ち的に。
「え、だから、あたしと代わればいいかなって。あたしは生きたいし、あいつは逝きたいし、トレードすれば丸く収まるっていうか」
「そんな簡単なもんか、バカが」
バカ呼ばわりとは失礼な。一発殴ったろかと思ったが、相手は鬼。冷静に冷静に。
「砂時計はその命が宿る肉体に付随して存在している。切り離しは不可能だ」
「じゃ、じゃあ、あたしがあいつの体をもらって生きるとか」
渡し守がうんざりした表情を浮かべて何か言いかけた時だった。
「もらってください!」
突然背後で響き渡った大声にびっくりして振り返ると、いつの間にここまでやって来たのか、さっきの男が膝に手を突き、ゼイゼイ肩で息をしながら立っていた。
「この体ごとあなたにあげますから、代わりに船に乗せてください!」
男はボサボサに乱れた髪の間から、やけに真剣なまなざしをあたしに向ける。
思わず、上から下までその姿をまじまじと眺めてしまった。
首の伸びきったよれよれのTシャツに、膝の飛び出した安っぽいジーンズ。伸び放題の髪は汚らしく束になり、数ヶ月散髪どころか洗髪すらしていないように見える。背はそこまで低いわけではないのだろうが、姿勢が悪いので高くも見えない。かけている瓶底眼鏡は今時見ないデザインで、もはやアンティークの域に達しそうだ。
正直な印象。キモい。
多分おたくか引きこもり。こんなヤツの体に入るとか、正直かなり厳しい。
でもまあ一縷の望みには変わりないから、とりあえず質問タイム。
「あたし的には構わないんだけど、あんたさ、せっかく生きられるってのに、いいの?」
「はい!」
弱々キャラにしてはやけに力強い肯定だな。
「何でそんなに死にたいわけ?」
「生きていたくないんです」
「だから、その理由がさ……」
「甘ったれるな!」
突然ハスキーな怒声が響き渡って、男もあたしも目を丸くして振り返った。
見ると、船に乗っていたスーツ姿の中年男性が立ち上がり、震える拳を握りしめ、頬をピクピクさせながら、ものすごい形相で男を睨みつけている。
「生きていたくない、だと? 甘ったれたことをぬかしおって……どんな苦難が降りかかろうが、石にかじりついてでも生きるのが人間ってもんだろうが!」
まあ正論。というか、不本意に死んじゃった人たちを目の前にして、生きたくないとか普通は言えないよね。反論の余地なし。
「想像力ないですね、おじさん」
なぬ?
見ると、男は弱々キャラに似合わぬやけに挑戦的な目で、瓶底眼鏡の縁を光らせつつ男性を斜から睨んでいる。
「おじさんは幸せだったんですね。確かに、その年で死ななきゃならなかったのは不幸だったかもしれませんが、それを不幸と思えるのは、それまでが幸せだったからに他なりません。幸せな人間に、死にたい人間の気持ちなんて分かる訳がないです」
頷けるような頷けないような。
「幸不幸なんて、結局は個人個人の価値観に過ぎません。あなたにとっては不幸でも何でもないことも、僕にとっては不幸極まりないってこともありうる。人それぞれ物事に対する感じ方は違うんです。相手の気持ちになって考えるなんてきれい事をよく聞きますけど、結局はその立場に立った「自分」がどう感じるかを想像して推し量っているに過ぎない。共感なんて、実際問題不可能なんですよ」
だからあなたに僕の気持ちは分からない。そこまで一気にまくしたてると、男は瓶底眼鏡の鼻根をくいっと押し上げた。
「……その性格じゃ、孤立するのも頷けるな。相手の言葉を理解しようという気持ちがまるでない」
「さっきから言ってるでしょう。理解なんて不可能なんです。人間、最後に頼れるのは自分だけです。他人なんて、信用する方がバカなんですよ」
吐き捨てると、男は渡し守に向き直った。
「とにかく僕は、あんな世界に戻るつもりはさらさらないです。この船がダメでも、次の船で同じ事をします。無理ならその次で。渡れるまでずっとここで暮らします。他人がいない分、現実世界よりはマシですしね」
「帰れ!」
今度は、しわがれて裏返った声が響き渡った。
見ると、高齢の老人がつえを握りしめ、立ち上がろうと腰を上げかけている。ゆらめく船に足を取られてよろけたので、隣にいた中年男性があわてて老人を支えた。
何とか体勢を維持すると、老人は喘鳴の音を響かせながら男を血走った目で見据えた。
「おまえは、帰れ! 帰って、もう一度その性根を叩き直してこい!」
「大往生して幸せいっぱいの方にそんなこと言われる筋合いないんですけど」
その言葉に、老人の声はますます激高して裏返る。
「おまえは絶対に船には乗せん! このワシが意地でも止めてやる!」
「あなたにそんなことをされるいわれもないですし、第一無理だと思うんですけど」
「なんじゃと!」
叫んだ勢いで、老人は激しく咳き込み始めた。反対側にいた中年女性が慌ててその背をさする。
……にしても、最低だなこいつ。
この様子だと、絶対にろくな生き方をしてきていない。こんなやつの体なんかもらっても、かなり苦労しそうな気がする。思わずため息が漏れた。
「幸不幸は人それぞれの価値観だから、他人には分からない……確かあなた、そう言ったわね。そのくせ、他人のことは幸せだの大往生だの、分かったような口を利いて……矛盾してるでしょ」
腹に据えかねたのだろう、老人の背をさすりながら諭すように話す中年女性を、男はバカにしたような顔で見返した。
「揚げ足とっても仕方ないです。根本は何にも変わりません。とにかく僕は生きたくないし、元の世界に戻るつもりもありませんから」
反省のかけらもないその態度に、船に乗っている人々は皆あきれ果てたようだった。黙って目線を交わしあい、首を振ったり肩をすくめたりしている。
「やっぱりこいつは死ぬべきかもしれないな。こんなヤツが生きていたって、社会の害悪になるだけだ」
最初の中年男性が忌々しそうに吐き捨てると、老人も杖を握りしめてうつむいた。
「そうじゃな。バカは死んでも治らないというが……救いようのないヤツじゃ」
「あなたが生きた方がいいかもしれないわ、お嬢さん」
中年女性も悲しげに目を伏せて首を振る。
と、それまで黙って話を聞いていた渡し守が、はあっと大きなため息をついた。
「勝手に話を進めんでほしいね。こいつは生きるしかない。砂が尽きるその日までな」
「僕の砂が尽きるのは一体いつなんですか」
「そんなことワシにだって分かるもんか。一日も早く地獄に送ってその性根をたたき直してやりたいのは山々だが……」
渡し守は言いかけた言葉を飲み込むと、ゆっくりと首を巡らせた。あたしの顔で、その視線をピッタリと停止する。
「……そうか。早めることはできるな」
「え?」
その粘つく視線に、悪寒が背筋を駆け上がった。
「女、生きたいんだったな」
「え、あ、まあ……」
「特例だ」
渡し守はそう言うと、懐から先ほどの巻物を取りだし、しゅるりと開いた。右手にはいつの間にか、墨を含んだ筆が一本握られている
「地獄法第九十三条二項に基づく特例措置として、この女をおまえの肉体の共用者として認めよう。命の砂を消費する魂が倍になるから、おまえの寿命は倍の速度で費やされることとなり、自然、寿命は半分になる。この女の望みも、おまえの望みも、ある程度叶えられるという訳だ。ただし、他者にその事実を知られたり悪用したりした場合はもちろん、生者に三途の川の存在を明かしただけでも即刻おまえらの魂は三途の川へ引き戻され、輪廻転生の可能性を失って消滅する」
巻物にサラサラと書き込みながら立て板に水の勢いで話すので、何のことやらさっぱり分からない。顔の周りにはてなマークを散らしてフガフガしているあたしとは対照的に、隣に立っていた男は目を輝かせて意気込んだ。
「共用というのは、この人の魂と僕の魂が同時に体を使うってことですか」
「いや、実際に肉体を利用できる魂は一つだから、一つの魂が肉体に入っている間はもう一つの魂は別の何かに魂を移していることになる。肉体から離れて魂が存在できる期間は二十四時間で、それを超えてしまった場合も、肉体に入っていなかった方の魂は輪廻転生の可能性を失い完全に消滅する」
「魂の消滅は、一瞬でも体に戻れば防げるんですか」
「いや、三時間は留まらないとダメだ。だが、いい話だろ? おまえさんがあれほど嫌がっていた人生が半分になるんだ。いや、それ以下か」
「そうですね……」
男は腕を組んで何やら考えている様子だったが、突然くるりとあたしの方に向き直った。
「分かりました、譲歩します」
「は?」
「他人と暮らすのは抵抗がありますが、この際仕方がありません」
「へ?」
「よろしくお願いします」
「はあ?」
目を白黒させているあたしの手首を、男の手がむんずとつかむ。
「ちょ、ちょ、ちょっと……」
「じゃあ頼みます」
渡し守はうなずくと巻物を懐に戻し、何やら怪しげな呪文を唱えながら、両手を不思議な形に組み合わせ始めた。印を結ぶ、というやつだろうか、山のような形にしたり、指同士を絡めてひっくり返したりを繰り返している。
あっけにとられてそれを眺めていたあたしの袖を、誰かがくいっと引っ張った。
見ると、船に乗っていた中年男性が、必死の形相であたしに名刺を差し出している。
「お願いだ。生き返ったら、家族が無事に生活しているかどうか見てきてくれないか」
「え、あ、はい……」
訳が分からないまま名刺を受け取ると、中年男性はほっとしたような、それでいて悲しげな、何とも言えない表情を浮かべた。
なんだか胸を締め付けられるような気がして動けずにいるうちに、周囲がまばゆく輝き始めた。緊張しているのだろうか? 手首をつかんでいる男の手が汗ばみ、きゅっと力が入る。
周囲一帯に太陽を直接見ているかのような鋭い光が満ち、その鋭さに耐え切れずにあたしは目を閉じた。もちろん、本当に目があるかどうかはよくわからないので、そんな気がしているだけだったけど。