19.決まったね
「ほら、これで拭きな」
水道に覆い被さるようにして口をゆすいでいた柴崎泰広は、小さく頭を下げると、おばさんが差し出しているミニタオルから三十センチメートルほど離れた位置に右手を差し出した。
おばさんはあきれたように肩を竦めると、差し出された右手にタオルを載せてやる。
「あんたほんとに目が悪いんだねえ。電車から降りるのですら一苦労だったし」
黙って小さく頭を下げた柴崎泰広が、おばさんの手から数十センチずれた位置に使用済みタオルを差し出す。おばさんは小さく息を吐いてそれを受け取ると、ポーチにしまった。
「じゃ、あたしは帰るけど、大丈夫かい?」
「……大丈夫です」
柴崎泰広は、顔を上げなかった。
肩にひっかけられているあたしの位置からは表情まではよく見えないけれど、髪の間からのぞいている頬には、全く色味が感じられない。
【ねえ、マジで大丈夫? このおばさんのせいでこんな目に遭ったんだし、体がきつければ、素直にそう言って助けてもらってもいいと思うよ】
肩で息をしながら、柴崎泰広は小さく頭を振った。
おばさんはそんな柴崎泰広をじっと見ていたが、小さく肩をすくめると、ため息まじりにこう言った。
「うちに来な」
柴崎泰広は目を丸くしておばさんの方に顔を向けた。
「え?」
「うちは駅からそう遠くないところにあるんだ。気分がよくなるまで休んでいきな。そんな状態で放置したら、あたしの方が心配だよ」
目をまん丸く見開き、慌てふためいた様子で首を振る。
「あ、いや、……い、いいです。僕、必ず境堂に戻るって約束で、タダで電車に乗ってきたんで……」
「そんなの大丈夫だろ。ここの駅員に境堂に連絡してもらえばいいんだから。電車賃はあたしが払ってやるよ」
「え、でも、その……」
柴崎泰広は言いよどんでうつむくと、首元まで赤くなった。
きっとこいつは不器用に振り払う意外、他人と関わる方法を知らないんだろうな。
【いいじゃん、柴崎泰広。お言葉に甘えよ】
「え……」
【時計見なよ。あたしとの交代が可能になるまで、あと三十分以上ある。あんたのままじゃどうせ電車なんか乗れないし、それまで駅のホームでボーッとしてるのも何でしょ。せっかくおばさんがここまで言ってくれてるんだしさ。相手が男じゃなきゃ、いっしょにいても大丈夫なんでしょ】
「え、……あ、でも、もし、家に旦那さんがいたりしたら……」
おばさんはその言葉が自分に向けられていると思ったらしい。小さな目をまん円く見開き、それからブッと吹き出して、大笑いし出した。
「なあんだ、そんなことを気にしてんのかい? こう見えてもあたしゃ花の独身だよ。だからって、あんたのことをとって食おうとも思ってないけどさ」
太った体を揺すりながら豪快に笑うその様を見て、柴崎泰広もようやく警戒心が解けたらしい。肩に入っていた力を抜くと、青白い頬に恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
☆☆☆
おばさんの家は、駅から三分ほど歩いたあたりの、小さいけれどおしゃれな店が軒を連ねる細い路地の一角にあった。
このあたりは商業地域にあたるため、普通の家屋はほとんど見あたらない。たいていは一階部分を何らかの商業施設に貸与し、二階以上を家屋として利用している。おばさんの家も例外ではなく、二階以上は古くさい木造家屋だったが、通りに面した一階部分が改築されていて、何かの店舗として利用されているようだった。シャッターが閉まっているのでよく分からないけれど、洋服のラックが小さなウインドウのガラス越しに見える。
店の前まで来ると、おばさんは入口部分のシャッターを両手で重そうに持ち上げた。ガラガラとにぎやかな音が路地に響き渡り、ガラス部分に凝った飾り格子が施されたアンティーク調の木製扉と、そこに貼られていた小さな張り紙が姿を現す。
おばさんが扉の鍵を開けている間中、あたしは何度も繰り返しその張り紙を読んでいた。体調の悪い柴崎泰広は立位を保っているのが精いっぱいといった風情で、そこに張り紙があることすら気づいていない様子だったけれど。
鍵を開けたおばさんが木製扉を押し開くと、どこか懐かしい感じの、柔らかい鈴の音が響いた。
「入んな」
足取りの覚束ない柴崎泰広とともに足を踏み入れた店内は、古い家屋に特有の、ほこりっぽくて甘ったるい匂いで満たされていた。
おばさんが点灯したアールデコ調の照明が、薄暗かった店内を温かく優しい光で照らし出す。
意識をとがらせ、店内をぐるりと見回してみる。
ぴかぴかに磨き上げられ年季の入ったフローリングに、アンティーク調の姿見。こぢんまりとした店内には、どこか懐かしい匂いのする洋服や小物が、所狭しと並べられている。店の片隅に置かれている、深緑色のベルベットが美しいソファの上には、シックな刺繍の施されたクッションがちょこんと置かれていて、店のしっとりした雰囲気とよくマッチしていた。
「そこに座ってな」
おばさんはぶっきらぼうにそのソファを顎で示すと、のしのしと店の奥に入って行った。
おばさんの姿が完全に見えなくなったことを確認してから、荷物の隙間から這い出して、ソファの背もたれに体を埋めてつらそうに目を閉じている柴崎泰広を見上げる。
【……ねえ、柴崎泰広。ここってさ、あのおばさんの店、かな】
「え? そう……なんでしょうね」
【意外にステキなお店だよね。あのおばさんのキャラからは想像できなかったなあ】
「そうですか。僕、今ちょっと、それどころじゃなくて……」
【なにそれ、会話が成り立たないなあ】
憤然と吐き捨てた時、麦茶の入ったコップを手にしたおばさんが奥の部屋から姿を現したので、慌てて脱力しストラップに体重を預けた。ねじれたストラップのせいで体が勢いよく回転する。気持ちが悪い。
「ほれ」
「あ、ありがとうございます」
つき出された年代物のガラスコップを慌てて受け取った拍子に、柴崎泰広の肩からポーチが滑り落ちてソファの上に転がり、下半身がポーチの下敷きになってしまった。動いて抜け出すわけにもいかず、仕方なくそのままの姿勢で様子を見る。
柴崎泰広に麦茶を渡したおばさんは、壁際に設えられたレジ奥のスペースに腰を下ろし、値札のようなものがぎっしり入った箱をとりだした。
「そうしてしばらく休んでれば、そのうち気分もよくなるだろ」
「は、はい」
柴崎泰広が緊張気味に答えたが、おばさんはぶっきらぼうにそう言い捨てたきり、何やら作業に没頭し始めた。
年代物の大きな振り子時計から響く、コチ、コチ、コチという軽い音が、静かな店の空気を規則的に震わせている。
おばさんが手元に目を向けているのを確認してから、そっとポーチの下から這い出した。
【ねえねえねえねえ柴崎泰広】
「……はい?」
【ここって、いわゆるアンティークショップ、って感じかなあ】
「え……いや、よくわかんないです。ほとんど見えないんで」
そうだった。
【ちょっとさ、おばさんに聞いてみてくんない?】
「何をですか」
【この店の客層について】
柴崎泰広は疑問符だらけと言った表情で首をかしげた。
【表の張り紙見た?】
「見てないです」
【まあ、そうだよね……】
「何か言ったかい」
「あ……い、いえ」
突然、レジ奥に座るおばさんが不機嫌そうな問いを発したので、あたしも柴崎泰広も、思わず息をのんで硬直した。
仕方ない。
店の奥に置かれている振り子時計の針を確認。十二時七分。OKだ。
【……わかった。説明してるのが面倒くさい。交代しよ、柴崎泰広】
「え? なんでいきなり……今交代すると、かなり気持ち悪い思いをしますよ」
【仕方ないよ。いいから代わって】
「僕は助かるんで、別にいいですけど……」
おばさんが手元に目を向けていることを確認し、楕円の腕を差し出して柴崎泰広に握らせる。
クマるん内にすべりこんできた柴崎泰広の意識に押し出されるような格好で、あたしは柴崎泰広の体に入った。
相当に気分が悪いのだろうと覚悟しつつ、恐る恐る目を開ける。
「あれ?」
視界はぼやけて何が何だか分からなくなったけど、気持ち悪くはない。頭もおなかもすっきりクリアな爽快感。
全然大丈夫じゃん。
覚悟していただけに、拍子抜けするような気分に襲われた。
もしかしたら、こういう類の不調には、多分に心理的なものが影響しているのかもしれない。だとしたら今後、こういう時は交代して気分を変えてやればいい。クマるんなら身体的影響が出ようもないし、クマるんに入ったというだけで柴崎泰広の気分も落ち着くだろう。
今後の指針が定まったことが嬉しくて一人でうなずいていると、その様子を見ていたのか、おばさんがけげんそうな声音で問いかけてきた。
「なんだい、さっきから」
その声に、あたしも慌てて居住まいを正す。
「あの、ちょっとお訊きしてもよろしいですか」
「なんだい。忙しいから手短に頼むよ」
「こちらのお店は、アンティークショップなんですか」
「え?」
質問の方向が意外だったらしく、おばさんは戸惑ったような雰囲気をにじませながら言葉を返した。
「……いや、あたしが好きなもんを趣味で集めてるだけだから、そういうわけじゃないよ。置いてある雑貨で、売り物は半分もない。主に売っているのは服だけど、これは別に、アンティークでもなんでもないしね」
さっき、クマるんだった時に見ておいた服は、女性モノばっかりだった。てことは、客は圧倒的に女性だ。条件クリア。
「表の張り紙、まだ募集はしていますか」
「アルバイト募集のかい。まだ決まってはいないよ」
「それでしたら」
おばさんは鋭い目で射すくめるようにあたしを見た。気がする。正面から目力をひしひしと感じる。
その目力を真っすぐ受け止めながら、息を吸う。
「僕を使っていただけませんか。仕事を探しているんです」
おばさんの答えはなかった。
振り子時計の規則的な音だけが、重苦しい店の空気をわずかに震わせている。
固唾を呑んで様子を見守っているクマるんの気配が、ひしひしと伝わってくる。
ややあっておばさんは、ため息とともに吐き捨てた。
「ダメだね」
クマるんの、息を呑む気配。
「どうしてですか」
「あんたの服装だよ」
自分の服に目を向ける。
カーキのカーゴに定番ローテクスニーカーを履き、グレーの七部袖TシャツにTシャツを重ねた、ごくごく一般的スタイル。
「まるっきり普通だね。工夫の欠片も感じられない。あんたは割に見てくれがいいからそれなりに見えるけど、そうじゃなきゃ誰も覚えてないような格好だ。うちに置いてあるのは知り合いのデザイナーさんが特別に回してくれるアウトレット品がだいたいでね。最新の服ばかり置いているアパレルさんとは訳が違う。あんたみたいなのに、うちの商品のコーディネートは無理だよ」
「このスタイルは、限られた予算でできるだけコーディネートの幅を広げるために考えたものなんです」
おばさんは言葉を飲み込んだ。
「父親は僕が小さい頃に死んで、母親も先日、貯金を全て持って家を出てしまったものですから、僕は今、財政的に非常に苦しい状況なんです。家財を売り払ってなんとかしのいできたんですが、どうしても仕事を見つけないと生きていけなかったので、先日、求職活動のために予算一万円で複数のコーディネートが可能な服を購入しました。予算は二百二十円オーバーしてしまいましたが、トップス三点にボトム二点とスニーカーを、きちんとした感じからくだけた感じまで、十通り以上のコーディネートが可能なように買いそろえました。確かに個性は感じられないかもしれませんが、制約のキツイ中ではがんばった方だと自分では思っています」
その上買える店まで限定されてたんだから。
一気にまくしたてる様子が今までの印象からして意外だったのだろう。おばさんは「ふん」と小さく呟いた。それから、あたしを値踏みするように、眺めまわしている気配がする。
その時だった。
カランカランと、軽やかな鈴の音が響いた。
あたしとおばさんがそろって入口の方に目を向けると、大きな買い物袋らしきものを右手に提げた人影が入って来た。
「こんにちは、笹本さんいる?」
「おや神谷さん、どうしたんだい珍しい」
「ちょっとね、買い物してきたら疲れちゃったから、ひと休みさせてもらおうかと思って」
神谷と呼ばれた、声からするとどうやらおばさんは足を引きずるような音を立てながら、指定席なのだろうか、真っすぐにソファの方へ歩み寄ってきたので、慌ててポーチをつかんで立ち上がった。
ソファの傍らまで来て、おばさんはようやくあたしの存在に気づいたのだろう、「あら」と呟くと、あたしを眺め回しているのか、首を上下に何度も動かしている。
「やだ笹本さん、お客様? ごめんなさいね」
「いや、違うよ。アルバイトの面接をしてたんだ」
「あらまああああ」
おばさんは半分裏返ったような声を上げた。
「あなた、高校生?」
「あ、はい」
「どちらの高校?」
「南沢です」
「んまあ南沢!」
おばちゃんの声がさらにワントーン上がる。さすがブランド高。
「へええステキ、こんな子がお店番をしてくれてるなら、あたし、毎日でも通っちゃうわ。笹本さん、よかったわねえ、いいバイトさんが見つかって」
「まだ決めた訳じゃないよ」
「あら、どうして? こんなステキな子、なかなかいないわよ」
「神谷さんはそう思う?」
「思う思う! 息子の友だちの中にもなかなかいないわよ。若いお客さんも増えるんじゃない? あなた、新しい客層を開拓したいっていつも話してたじゃない」
おばさん……笹本さんという名前らしい……は、ソファ脇に立つあたしに目を向けた。体の左側面から鋭い目力パワーをひしひしと感じる。その目力に射すくめられたような気がして、思わず居住まいを正した。この人は結構怖い。いろいろな意味で。
「あんた、神谷さんに服を選ぶとしたら、どんな服を選ぶ?」
「……え?」
唐突な質問だったので、思わず聞き返してしまった。
「うちの店は、神谷さんくらいの年齢のお客さんが結構多い。こういう相手に服を勧めるとしたら、あんたならどんな服を勧めるかね」
これって、もしかして。
……採用試験?
ヤバイ。
あたしの内心の焦りを感じとったように、クマるんの上ずった送信が届いた。
【彩南さん、これって……】
「うん、採用試験だね。でも、目が見えないから、あたし、神谷さんておばさんがどんな人だか全然分からない。ねえ、あんたの目って近視だよね。近づいたら見える訳?」
【え、ええ、一応……多分、十五センチくらいまで近づけば見えるはずですけど】
「マジ? 分かった。やってみる」
【え、彩南さん? やってみるって……】
クマるんの焦ったような送信をぶった切り、持っていたクマるんつきポーチをソファに置くと、神谷さん(とおぼしき人影)に正面から相対する。
「すみません神谷さん、僕、実はめちゃくちゃ目が悪いんです。アクシデントでメガネを落としちゃって、神谷さんのことがほとんど見えないんで、たいへん恐縮なんですけど、側に寄れば見えるはずなので、寄らせてもらっていいですか?」
「え? ええ……それは、別に構いませんけど」
何のことだか分からない様子ながら神谷さんが了承したのを確認すると、神谷さんとおぼしき人影の方に歩み寄る。
なんのためらいもなく歩み寄ってくるあたしの勢いに押されたのか、神谷さんは二、三歩後退ったようだった。でもあたしはそんなことに構っている暇はない。職を得られるかどうかの瀬戸際なのだ。
「失礼します」
壁際に追い詰められてそれ以上後退できなくなった神谷さんに、ずずいと顔を近寄せる。
驚きでひきつっている神谷さんの顔が、初めてはっきり見えた。
年の頃は四十代後半くらい、化粧は薄くナチュラルで、肌はそんなに疲れた感じはしない。毛量はあるが白髪が目立つ髪はごく一般的なミディアムヘアで、肩には柔らかな丸みを感じる。笹本さんほどではないが、どちらかと言えばふくよかな部類にはいるだろう。腰を落とし、全身に目線を移す。男物だろうか、大きめの白いTシャツからのぞく腕には、たっぷりとした脂肪が揺れている。この年齢にしては背が高く、骨格がしっかりしているので、案外洋服は似合うかもしれない。胸は腕の雰囲気からすれば小さめだが、Tシャツの裾は腹に押されて少し引き伸ばされている感があった。お尻はそんなに大きい方ではない。楽そうなスラックスに包まれた足は、右足がほんの少し湾曲していた。そういえば、さっき店に入ってくるとき、足音が不揃いだったような気がする。しゃがみ込んで靴を見る。履き心地優先のコンフォートシューズ。やっぱりな。
立ち上がると、神谷さんが頬を赤く染め、潤んだ瞳であたしを見つめているのに気がついたが、あえて無視して頭を下げる。
「ありがとうございました。だいたい分かりました」
それから、笹本さん(とおぼしき影)の方に向き直る。
笹本さんはあたしの言葉を待つように、じっとあたしを見ているようだ。
押し寄せる緊張感と圧迫感を打ち破るべく、息を大きく吸って吐いてから、おもむろに口を開く。
「基本的に、大人の方は極端に流行を追うよりも、ポイントやエッセンスで取り入れた方がしっくりきます。体の線があからさまに出ない方がリラックスできますし、ゆったりとしたデザインのトップスが主流ですから、このレースのチュニックなんかはおすすめですね。白やアイボリーは顔映えもいいです。膨張して見えるのが気になるようでしたら、ストールを首に巻くと視線が縦に流れますし、今年感も出ます」
傍らのラックに顔を近寄せ確認してから、レースをあしらったチュニックと麻のストールを示すと、神谷さんは弾んだ声で叫んだ。
「まあステキ! あたし、こういうの大好きなの」
「それからボトムですが、上下ともゆったりさせるシルエットなら、大人の方も安心して流行を取り入れられます。例えばこのリネンのワイドパンツを合わせれば、すとんとした落ち感があるので、流行のゆったり+ゆったりシルエットに加え、着やせ効果も抜群です。ウエストもゴムですから体も締め付けません。リゾート感のあるサンダルを合わせれば、一気に今年風になりますよ」
筋向かいのラックにかかっていたパンツと、棚に飾られていたフラットサンダルを示した途端、荷物を放り捨てた神谷さんが凄まじい勢いで突進してきた。
「笹本さん、あたしこれ、いただくわ!」
「あ、ちょっとお待ちください」
勢いに面食らいながらも、慌てて口を挟む。
「どんなものでも、必ず試着はされた方がいいですよ。目で見た時には大丈夫だと思っても、袖ぐりであるとか、着丈であるとか、自分の好みに微妙に合わない場合が必ずありますから」
神谷さんはチュニックとパンツを抱えると、あたしを見た。
その目が、キラキラと潤んでいる。ような気がする。
「……分かったわ。試着してみます。試着室はどこ?」
「右奥」
笹本さんが短く言うと、神谷さんはスキップでもしそうな足取りで試着室に向かっていった。
神谷さんが試着室に入るのを見届けてから、笹本さんがおもむろに歩み寄ってきた。
「最後に一つだけ聞くよ。あんたどうして、このフラットサンダルを勧めたんだい」
「神谷さん、コンフォートシューズを履いておられましたよね。それから、少し足を引きずっている。ヒールの高い靴は足に負担がかかりますから、フラットな靴の方がいいと思いました。本当は、もうちょっとソールがしっかりしている方がいいとは思うんですけど」
笹本さんは数回小さく頷いてから、静かに口を開いた。
「三日から来られるかい」
「え?」
「待遇と勤務は表に書いてあったとおり。うちは正直、そんなにはやってる店じゃないから、土日祝日だけ勤務してもらえれば十分なんだ。賃金も最低賃金ギリギリの時給八百円。それでいいかね」
「も……もちろんです!」
あたしが勢いよく頭を下げたのと、試着室のカーテンが勢いよく開いたのは同時だった。
「ちょっとちょっと笹本さん見てよこれ、いいわぁ。ねえ、さっきのサンダルも持ってきてくれない?」
神谷さんの裏返った声に苦笑しながら、笹本さんはサンダルを手にした。
「全く、あの人が試着する所なんて初めて見たよ。いつもは適当に体に合いそうなものを買っていくだけだったのに」
呟きつつ、試着室方面に向かう笹本さんを見送っていると、クマるんの遠慮がちな送信が届いた。
【……決まりましたね】
「決まったね」
【スイミングは却下ですか】
「そうだね。掛け持ちって手もあるけど、あんたはそこまで社会復帰できてる訳でもないし、着替えでうまく交代のタイミングを合わせられるとも限らないし。取りあえずこれで月五万は稼げるから、よしとしよう」
【それにしても凄かったですね、彩南さん】
「ありがと。あんたの目、マジでなんにも見えないからね。あんなに近づいても神谷さんが不愉快に思わなかったのが、一番ラッキーだったかも」
【ていうか、コーディネート自体】
「……そお? クマるんだった間に、ある程度店の品物をチェックしておいたからなんとかなったんだけど」
神谷さんの、明るく弾んだ声が響いてくる試着室方向に視線を流す。
「実はさ、こういうこと、好きだったんだ」
【え?】
「彩南だった頃」
何か送信しかけたようだったが、クマるんは口をつぐんで黙り込んだ。
神谷さんの嬌声に耳を傾けながら、あたしもそれ以上は何も言わなかった。