18.涙が出るかと思った
死の直前には、自分の人生が走馬燈のごとく頭によみがえると聞く。
あたしが死んだあの時は本当に一瞬で、自分でも何が何だか分かってなかったから走馬灯どころじゃなかったけど、この時、駅階段を下りるおばさんの肉厚な肩で揺れるあたしの頭には、走馬燈というか早送りのビデオ画面のように、これから起こりうる事態が次々と浮かんでいた。
柴崎泰広は、電車に乗れない。
ゆえに、おばさんが電車に乗ってしまったら最後、あたしはおばさんに運命を預ける以外にない。
駅ホームの天井付近にぶら下げられている時計を見ると、十一時十分。
あたしが柴崎泰広と離れて存在していられる時間は、あと二十二時間弱だ。
時間的には十分にある。ただ、おばさんが住んでいる場所によっては、ここまで戻ってくるのにある程度時間がかかる。途中で何が起こるのかも分からない。さまざまなマイナス要因が積み重なった結果、もし戻ってくるまでに二十二時間以上かかってしまったとしたら。
『肉体から離れて魂が存在できる期間は二十四時間で、それを超えてしまった場合、肉体に入っていなかった魂は輪廻転生の可能性を失い完全に消滅する』
渡し守の抑揚のない声が頭によみがえり、思わず身震いしてしまってから、慌てておばさんの様子を盗み見る。
駅ホーム、前寄り二両目の乗車口付近に立っているおばさんは、相変わらず手元の旅行パンフレットに目線を落としたまま、フンフンと小声で鼻歌なんか歌いつつ右足を細かく揺すっている。
――もしもし、おばさん、ウエストポーチ間違えてますよ。
すんでの所で送信しそうになりながら、必死で意識を押し留める。
『他者にその事実を知られたり、悪用したりする場合はもちろん、三途の川の存在を明かしただけでも、即刻共用者の魂は三途の川へ引き戻される』
ああああああ! 如何ともしがたい!
耳の奥で響く渡し守の無感情な声と、突き上げてくるじだんだ踏みたくなるような衝動。
とはいえ、手も足も出ないこの状況にどんなに身もだえしようとも、結局の所あたしは、柴崎泰広が助けに来てくれるのを待つしかないのだ。
ただ、それは期待薄のような気がする。
さっきのあいつ。
駅の階段は軽々駆け上がれたくせに、窓口に行くとなった途端の、あの怖じ気づきよう。
要するに、一度クリアしたことに関してはある程度できるようになるけれど、初めて経験することに関しては、どんなに状況が切羽詰まっていようがダメ、ということなんだと思う。
しかも、電車賃や入場券を買うには金がいるが、金はこのポーチの中なのだ。手元に現金のない状況で、あの柴崎泰広が機転を利かせて改札を通り抜けてくるとは考えにくい。
その上、この路線は日中でも乗降客が多く、特に前寄りの車両は結構な込み具合で、ホームにも相当数の人間が電車の到着を待っている。そこには当然のことながら、柴崎泰広の苦手な「大人の男」の姿が多数見受けられる。こんな状況下、あのヘタレがそうしたマイナス要因を押し切ってこの場にやって来る可能性は、ゼロに近い。
「間もなく、三番線に急行電車が参ります。黄色い線の内側に下がって、お待ちください」
列車の到着を知らせる機械的なアナウンスが、気の抜けたような音楽とともにホームに流れた。
あとはこのおばさんに、全ての運命を預けるしかない。
取りあえず、まだ時間は十分にある。悲観的に考えるのはやめよう。
ポーチを取り違えたことがわかれば、おばさんがまず思い浮かべるのはこの駅だろう。柴崎泰広がせめて駅窓口のおねーちゃんに事の次第を話しておいてくれれば、案外すんなり解決するのかもしれない。
そうなることを祈るしかない。不安は不安だけど、あたしにできるのはそのくらいしかないから。
諦めきってストラップに体を預け、入線してくる電車のリズミカルな振動を感じながら、何気なく意識を階段上に向けた、その時。
視界の端に映り込む、見覚えのあるカーゴパンツとローテクスニーカー。
意識を研ぎ澄ませたあたしの視界に、犬の編みぐるみがくくりつけられた黒いポーチを左手につかみ、髪を振り乱して階段を駆け下りてくる柴崎泰広の姿が映った。
――マジ?
思わず目を擦りたくなるも、意味がないので必死でガマン。
【柴崎泰広!】
送信が届いたのだろう、ハッと息をのむと、柴崎泰広は慌てた様子で周囲を見渡した。乗車口にたたずむおばさんの姿をとらえたのか、階段を一段とばしで下り始める。
駅ホームに停車した急行電車の扉が、低い音をたてて開いた。
おばさんは太った体を揺すりながら、足首がどこにあるかわからない右足を電車に乗せる。
【止めて、柴崎泰広!】
柴崎泰広が大きく息を吸い、口を開きかけた、刹那。
柴崎泰広の左足が、階段を滑るように踏み外した。
階段数段分を転落し、もんどり打ってホームに突っ込む。瓶底眼鏡が空を飛び、柴崎泰広の数メートル先に軽い音を立てて転がった。
発車を知らせる気の抜けた音楽が、ホームにチャラチャラと鳴り響く。
【柴崎泰広!】
眼鏡なしではほとんど見えないのだろう、落ちている眼鏡とは一メートルほどずれた辺りをはいつくばって手探りしていた柴崎泰広は、あたしの送信にはっとしたように顔を上げた。
「扉が閉まります、ご注意ください」
無慈悲に響き渡る、平板なアナウンス。
間に合わない!
もうダメかと諦めかけた、次の瞬間。
弾かれたように立ち上がった柴崎泰広が、驚きの反応速度で閉まりかけた扉に頭から突っ込んだ。
☆☆☆
気の抜けた音とともに扉が閉まり、電車はゆっくりと走り出した。
ストラップを通して伝わってくるリズムが軽快さを増してきた頃、あたしは怖ず怖ずと閉じていた意識を開いた。
相変わらず熱心にパンフレットを読み込んでいるおばさんの向こうに、勢いよく流れ去るの町並みが見えた。どうやらおばさんは、扉のすぐ脇に立っているらしい。そうっとポーチを足で押して体に回転をかけると、ゆっくり移動する視界に、この扉のちょうど反対側にある扉の前に座りこんでいる、若い男の背中が映り込んだ。
手にしているポーチの一部が扉に挟まれてしまったようで、本体を両手でつかみ、まるで綱引きでもしているかのように勢いをつけて引っ張っている。髪を振り乱しながら奮闘する男に、車内にいる大勢の乗客達がちらちらと冷たい目線を投げかける。
男がさらに体重をかけて勢いよくポーチを引っ張った瞬間、突然あっけないほど簡単に隙間から持ち手が抜けた。
男は反動でひっくり返り、後ろに立っていたリーマンオヤジのすねに後頭部を打ち付けて転がった。よろよろと起き上がり、顔をしかめて足を引くオヤジとは微妙にずれた方向に向かってペコペコ頭を下げ、それから慌てた様子で周囲を見回す。
その男……柴崎泰広を見ながら、あたしは、もしも心臓が存在していたら、爆速で脈打っているだろうことを確信していた。
柴崎泰広の顔に、いつものあの瓶底眼鏡はない。
乱れた前髪を切れ長の涼しい目もとに散らしながら、形のよい眉を少しだけ寄せて、真剣そのものの表情で何かを探している。
――何を?
柴崎泰広が、半分息を切らしながら、物言いたげに口を動かした。
唇の隙間から呟くように紡ぎ出される、誰かの名前。
――誰の?
「彩南さん……」
涙が出るかと思った。涙腺ないのに。
【柴崎泰広!】
あたしの上ずった送信に、柴崎泰広ははっと目を見開き、グルグルと忙しく首を巡らせてあたりを見回し始めた……って、あの、二メートルも離れてないところにいるんですけど。
「彩南さん、どこですか?」
その声に、パンフレットを読んでいたおばさんもさすがに気づいたのだろう、訝しげに顔を上げて柴崎泰広を見た。
【バカ! 目の前にいるっての。大きな声出さなくても分かるから!】
「え、目の前?」
柴崎泰広は首をかしげつつ、あたしらから斜め四十五度ほどずれたあたりに向き直る。
その場所で新聞を読んでいたおじさんは、見知らぬ男にじっと見つめられ薄気味悪く思ったのだろう、不快そうに口の端を引きつらせた。
――そうか。こいつ、眼鏡ないと何も見えないんだった。
【違う違う、そこから時計回りに四十五度回転したあたり!】
「時計回りに四十五度……?」
指示どおりに体を巡らせた柴崎泰広は、眉をひそめて柴崎泰広を見つめているおばさんのちょうど真っ正面に相対した。
【OK! その人に、ポーチを差し出して】
「あ、はい。あの、これ……」
怖ず怖ずと差し出されたポーチを、おばさんは首をかしげて見つめていたが、たるんだ瞼を大きく見開くと、肩に担いでいるあたし付きのポーチを見、もう一度差し出されているポーチを見て、それから、ゆるゆると目線を上げて柴崎泰広を見た。
「……は? あんた、これ、あたしのポーチじゃない。なんであんたがあたしのポーチを持ってんのさ」
「おばさん、僕のポーチを自分のと間違えて持っていかれたんです」
おばさんは肩からポーチをはずすと、ぶら下がっているあたしをまじまじと見てから、驚いたように目を丸くした。
「あらやだ、ほんとだ。これ、あたしのじゃないわ」
それから、怪しい者でも見るような目つきで、じいっと柴崎泰広を睨む。
「あんたまさか、あたしのポーチから金出したりしていないでしょうねえ」
「し、してません! 窓口の人に事情を話して、タダで入れてもらったんです」
「ならいいけどさ」
おばさんはあたしの付いたポーチを柴崎泰広に突き返し、差し出されていた自分のポーチをふんだくるように受け取った。どういう人だ。
柴崎泰広はそんなおばさんの対応には目もくれず、受け取ったポーチにぶら下がっているあたしを見た。あたしも、黒いビーズの目玉で柴崎泰広を見上げる。
すっかりスタイリングが崩れ、乱雑に目元を覆っている前髪。額にはびっしりと汗が浮かび、いまだに呼吸も荒い。それでも柴崎泰広は、涼しげな目元を細め、ほっとしたような、少しだけ泣き出しそうな、何とも言えない優しい表情を浮かべた。
わずかに引き上げられた唇の間から、白い歯がチラリとのぞく。
うわあああああああ、ちょっと待て。
感動のご対面的シチュエーションに加え、眼鏡なし状態でその表情はヤバイでしょ。
「よかった……」
荒い息の間から、感極まったように呟く。
ダメだもうこれ以上直視できない。
「……お金が戻ってきて」
は?
「銀行に預ける予定のお金、ここに入れてたから、焦りましたよ……」
へ?
「貴重な十万円が、危うくパーになるところだった」
柴崎泰広は呟きながら、愛おしそうに黒いポーチの腹を撫でさする。
……ああ、そうですか。そういうことなんですかなるほどね。
【あんたさあ、何やってたわけ? マジで来んの遅いんですけど】
「え」
【改札のところで、おばさんに待ってくれって声かければすむ話だったのに、こんなめんどくさいことになっちゃってさ。この電車、急行だから下北山まで止まらないし、マジで草】
柴崎泰広はムッとしたように形のよい眉を寄せた。
「しょーがないじゃないですか、いっぱいいっぱいだったんですから。窓口の人に事情を説明して、タダで入れてもらうのにも時間かかったし、階段でこけて眼鏡落としたし……」
【見てた見てた。ヤバすぎ。引きこもってる間に運動神経まで退化しちゃったのかと思った。恥ずかしすぎでマジウケるw】
柴崎泰広は鼻白んだ様子で口をつぐむと、目線をそらして俯いた。
……あ、言い過ぎた。
【……まあ、でも、がんばったとは思うし、感謝もしてる。それにさ、大丈夫だったじゃん】
「え?」
【電車】
刹那。
柴崎泰広は動きを止め、瞬ぎもせずあたしを見た。
【こんなに人がたくさんいるのに、吐かないでちゃんと乗れててさ。そこだけはマジでえらいと思うよ。褒めてつかわすw】
「吐かな……」
ぼうぜんと繰り返した柴崎泰広の顔から、音を立てて血の気が引く。
【でもまあ、やる気になればできるってことだよね。これからも、この調子でさ……】
「……うぐ!」
頬を思い切り膨らませ、両手で口を押さえてうずくまる柴崎泰広の様子に、一瞬何が起きたのか分からなかった。
【……え? 何、ちょっと、どうしたってのいきなり?】
「ううううううううう」
頭上に、なにかでパンパンに膨らんだ柴崎泰広の頬が迫ってくる。
【は? いや、ちょっと待って、ダメダメダメダメダメ、ガマンしてガマン! そのままそこで出されたら、あたしにもろにひっかかるって!】
柴崎泰広の様子に、さすがのおばさんも驚いたらしく、目を円くしてあとじさった。
「え? 何? あんた、いったいどうしたってのさ。気持ち悪いのかい?」
「☆※□▲◎×……」
意味不明な音声を発するだけで答えを返せないその様子に、人生経験の長いおばさんは危機的状況を察したのだろう。先ほど取り換えたウエストポーチを開け、慌てた様子で中を引っかき回し始める。
「ちょっと待って、もしかしたらここに、レジ袋とか……ああダメだ、入ってない。ねえあんた、次の下北山で下りよう。あたしもそこで下りるからさ、それまでの間は、とにかくなんとしてでも耐えるんだよ!」
【おばちゃんの言うとおりだよ! 今はとにかく出すな、気合で飲み込め、柴崎泰広!】
「◇⊿●×※☆……」
「次は、下北山、下北山~。井ノ原線は、お乗り換えです」
その車内放送に、おばさんの顔がパッと輝いた。
「あ、ほら、もうすぐ着くよ!」
【そうだよあんた、このまま噴出してゲロのシャワーを浴びせかけるようなマネしたら、即刻禁忌犯して三途の川に帰るからね!】
「…………」
いっぱいいっぱいなのだろう、柴崎泰広の口からはもはや何の音声も聞こえてこない。何でいっぱいなのかは考えたくもないが。
とにかく、頭上から降りそそいでくるやもしれぬ酸っぱい雨に怯えつつ過ごしたこの数分間が、これまでの人生の中で最も長く濃厚な時間となったことは言うまでもない。