16.ばっかみたい
【時給九百円、交通費支給……でも、三宮橋かあ。南沢って泉玉川だったよね。あんまり遠いところだと学校帰りに寄るのがきついしなあ。遅刻して怒られたら意味ないし。やっぱ、通えるギリギリは正城とか下北山かなあ、ねえ、柴崎泰広】
ここ数日地道に続けている掃除のおかげでようやく見えてきた畳の上に求人情報誌を広げ、その上に寝っ転がるような格好になってのぞき込んでいるあたしを、腰に手を当ててペットボトル入りイオン飲料をラッパ飲みしていた柴崎泰広は、不機嫌そうに見下ろした。
【なに? 柴崎泰広。冴えないツラしてんじゃん】
「そりゃ冴えろって方が無理ですよ。脱水症状で死ぬかと思った」
【いやいやいや、ゲロくらいで死にゃしないって。おかげであんた、駅から求人情報誌をとってくるという快挙を成し遂げたんだし】
「死にゃしないけど睨まれまくりでしたよ。駅中ゲロだらけにして」
【いいのいいの。客の世話をするのだって駅員の仕事だし、その分利用してやればいいんだから】
不服そうな柴崎泰広は放って置いて、さっさと目線を求人情報誌に戻し、いい情報がないかチェック再開。
しかし、われわれの労働条件はかなり厳しい。基本あたしが働くとはいえ、勤務中に柴崎泰広と交代する可能性がゼロとは言えない。とすると、男性と接触する可能性が高い職種はアウトだ。従業員も客も、女性か子どもがメインの職場を探さなければならない。
しかもわれわれの場合、高校に通いながら仕事を続ける関係上、フルタイムでは働けない。土日のみの勤務か、募集の段階で短時間勤務が約束されている仕事じゃないとダメなのだが、そんな条件に当てはまる仕事はめったにないのが現状だ。
「何かありそうですか」
【うちらは条件がかなり厳しいからねえ……この不況下、そんな都合のいいバイトはなかなか】
ため息まじりに送信していると、ふいに、眺めている情報誌に影が差した。
頭のあたりに、一定間隔で空気が行き来する感覚。何となく気になり目線を斜め後ろに流して、……ドキッとした。心臓もないのに。
柴崎泰広が、四つん這いのあたしの上に覆い被さるようにして、情報誌を覗き込んでいた。
きれいな指先をきちんとそろえてあたしの両脇につき、字が小さくてよく見えないのか、呼気がカエルの帽子にかかるほど顔を近くに寄せている。
いやいやいやいやいやいやいや、この体勢ヤバイって。
清純なもと女子高生に、そんな接近戦仕掛けてこないでよ。
「ホントにないですねえ、いい仕事」
柴崎泰広はあたしの内心など知る由もなく、難しい顔をしてつぶやく。
あたしなんか、心臓バクバク血圧上昇で何が何だか分からないのに……って、まあ、血なんか流れちゃいないんだけど。そんな気がしてるだけで。
そこまで思って、はたと気づいた。
あたしは今、編みぐるみなんだ。
心だけは水谷彩南を引きずっていまだに人間つもりだけれど、現実のあたしは年齢性別もちろん不詳の古ぼけた編みぐるみ。柴崎泰広が平気で接近してくるのだって、何の不思議もない訳で。
だって柴崎泰広は、あたしが人間だった頃の顔すら知らない。
こんなあたしを意識しろって方がどうかしてる。
【……ばっかみたい】
「え、何か言いました?」
【何でもない。ほんと、バカみたいにろくな仕事がないね。政府もいい加減労働者目線の政策のひとつやふたつ立案してほしいもんだけど】
「そういえば、働くのはいいとして、納税の義務が発生しませんか?」
【ああ、それは大丈夫。年間所得が百万超えなきゃどこの自治体もとらないよ。月々……そうだな、九万円以下の収入に抑えれば問題ない。未成年だから住民税も払わなくていいだろうし】
送信をきり、斜め上にある柴崎泰広の顔をチラリと見上げる。
【あんたって、マジで生活に関する知識ゼロなんだね】
柴崎泰広は鼻白んだように目を見開いた。
「し……仕方がないです。外に出られなかったし、生活に関することは全て母親が握ってたんですから」
【それってつまり、今までママにおんぶに抱っこで生きてたってことじゃん。もしかしたら男作って出てったのも、そういう生活に疲れたからなんじゃないの?】
柴崎泰広は唇を引き結ぶと、ゆっくりと体を起こし、正座のような格好で座り込んだ。
落ち込んだな。
でも、ほんとのことだもん。
少しは現実直視して大人になれ。
うなだれている姿を見続けているのが何となくきつかったから、求人情報誌に目を落とすと、印刷されている文字の羅列を無意味に目で追う。
「……確かに、僕は母のお荷物でした」
ふいに、柴崎泰広がポツリと口を開いた。
「家に男を連れて来られないからと言って、家を出る直前の数カ月はほとんど家に帰って来なかった。僕は見捨てられたんだと、ずっとそう思っていたけど……確かに、あの人にとって僕は荷物でしかなかった。それでも、預金を引き出されてしまうまではとりあえず税金も学費も支払ってくれていたし、生活費も毎月振り込まれていたから飢えるようなこともなかった」
そっと顔を上げ、柴崎泰広の表情を盗み見る。
硬い表情で、じっと畳を見つめている。
膝の上に置かれた手がかすかに震えている気がして、あわてて情報誌に目線を移した途端、視界に飛び込んできた情報に思わず息をのんだ。いや、呼吸はしていないんだけど。
【ねえねえ、柴崎泰広! これどお?】
気分を切り替えて思いっきり明るい調子で送信すると、うなだれていた柴崎泰広はゆるゆると顔を上げた。
【スイミングコーチ補助、時給千円交通費支給、おまけに新大田だって!】
とたんに、柴崎泰広の眉根には深い皺が刻まれ、頬が左右非対称に引きつった。
「……僕、カナヅチなんですけど」
【大丈夫大丈夫、二時間くらいなら交代の必要はないから。あたし、ブレ(平泳ぎ)なら県大会に行ったことがあるし、スイミングコーチって女性率高めだし、教えるのは子どもだし。三時から五時の週五日勤務、月四万稼げてバッチリじゃん! その日は朝からパンツ代わりに水着履いてればいいし、水から上がったあとの着替えだけはあんたに任せなきゃだけど、トイレにでもこもれば更衣室問題も回避できるって】
柴崎泰広は顔を引きつらせながら、半分書き上げてちゃぶ台に置きっぱなしの履歴書に目を向ける。
「で、でも、履歴書には、僕の経歴や資格を書くわけですから……」
【平気平気、泳いで見せますっつってあたしが泳いでみせてもいいし。ダメもとで話聞くだけでもいいから行ってみようよ、これおいしいって】
言いながらちゃぶ台によじ登り、置かれていた履歴書を折りたたんで封筒に入れ、ウエストポーチに突っ込んでから柴崎泰広に差し出す。
【まだ募集してるかどうかだけでも聞いてみて、お願い!】
柴崎泰広はふうとため息をつくと、うなずいた。
「……分かりましたよ」
気乗りしない感満載でのろのろと立ち上がり、あたしの手からウエストポーチを受け取って携帯を探し始める。
と、面倒くさそうに眉根を寄せていた柴崎泰広の表情が一変した。
眉が思い切り上がり、目はコンパスで描いたようにまん丸く見開かれ、口元がもの言いたげにワクワクと震え始める。
明らかに動揺しきっているのがまるわかりなその様子に、なんだか胸がザワザワした。
【な、何? いったいどうしたって……】
「あ……彩南、さん」
柴崎泰広はぎこちなく首を巡らせてあたしを見下ろすと、わななく唇の隙間から、途切れ途切れに衝撃の事実を紡いだ。
「携帯が……入って、ない」