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15.苦しいよ

 五月一日火曜日。

 今日も世間は五月晴れだ。


「……で、月々の出費は平均すると、」


 あたしと柴崎泰広は求人情報を手に入れるため、駅に向かっている。駅のコンコースの片隅に、求人情報の載ったフリーペーパーが置いてあるはずなのだ。

 買ったばかりの携帯で求人サイトにアクセスするという手もあるにはあるが、最低限の契約のため、ダラダラとネットを漁って情報を探せるほどの余裕がない。便利は金で買うもの、金のない人間はその分を足で稼ぐしかないのだ。 

 ゆっくりとした足取りで進む、人通りの少ない閑静な住宅街の道。アスファルトの路面が、透き通った日差しを反射してやけに白っぽく光って見える。

  

「電気ガス水道あわせて二万で足りるとして、携帯は……」


 柴崎泰広は、月々の必要経費を算出せよと言うあたしの指令を受け、さっきから人差し指の第二関節辺りを口元にあててブツブツ言いながら考え続けている。

 着替えの際に交代したばかりのため、シバサキヤスヒロの中身は柴崎泰広本体。外出したがらないこいつを無理やり外に連れ出すのはマジでたいへんだった。これからは、外出のタイミングと交代のタイミングをうまく合わせるようにしないとだな。

 それにしても。

 肩に引っかけられたポーチにぶら下がって左右に揺れながら、柴崎泰広を見上げる。

 今日の柴崎泰広は、昨日買ったグレーの七部袖Tシャツに白い半袖Tシャツを重ね、カーゴパンツに定番ローテクスニーカーというごくごく一般的な出で立ちだ。こうして普通の格好をさせてみると、相変わらず俯き加減で姿勢は悪いけど、頭は小さいし手足もそこそこ長いし、日差しをうけて金色に透けるサラサラの茶色い髪も眩しい。

 それと、口元に当てられた手。

 いつも思うけど、こいつの手って妙にきれいなんだよな。指先がすっとしてて、爪の形が整ってて。あたしが水谷彩南だった時も、こんなにきれいな手はしていなかった気がする。


「彩南さん、彩南さんてば」


【……え、あ、はい?】


 しまった。見とれてた。

 慌てて視点を合わせると、柴崎泰広がいささかうろん気な目でそんなあたしを見下ろしている。


「何ぼうっとしてんですか」


【べ、……別に。何だっていいじゃん。それより何?】


「携帯って月々いくらくらいみとけばいいんですか」


【そーだな……基本料金は二千八百八十円で、あたしは同等の契約で月々三千円以内で抑えてた人なんだけど、あんたの場合、仕事で必要になる場合も出てくるだろうから、もう少し色付けとこうか。四千円くらい?】


「分かりました」


 柴崎泰広はうなずくと、進行方向に目線を移して再び考え始めた。

 サラサラの前髪が風にあおられて、俯き加減の顔にはらりとかかる。柴崎泰広はそれを無造作に、あのきれいな指先でかき上げる。

 そんでもって、あらわになるのは……瓶底眼鏡。


 あああああああ、イライラする!

 何でこいつ、こんな眼鏡かけてるわけ?

 しつこく眼鏡を取ろうとした西ちゃんの気持ちが少しわかる気がする。


【ねえねえねえねえ柴崎泰広】


 柴崎泰広は思考を中断されたのが不愉快だったのか、眉根を寄せてあたしを見た。


「何ですか?」


【やっぱさあ、眼鏡買おうよ眼鏡】


「は? レンズ代込みで五万くらいかかると思いますよ。携帯に大枚はたいたばかりなのに、そんな余裕ないでしょう」


【いや、まあ、それはそうかもなんだけどさ、そのくらい、死ぬ気でバイトがんばれば……】


「ダメですよ無駄づかいは」


 ぴしゃりと断じると、瓶底眼鏡の縁を光らせながら人差し指で鼻根を押し上げる。


「月々必要な生活費は七万弱。この額をバイトで稼ぎ出すのはかなり厳しいんですから」


【な、……ななまん?!】


 送信が素っ頓狂に裏返ってしまった。


【いったい何に使えば七万もかかるわけ?】


「え? えっと……母親と暮らしていた頃は、たぶんそのくらいかかっていたと」


【食費はいくら?】


「一日千円として、三万……」


【高い!】


 あたしの勢いに、柴崎泰広は目を丸くして震えあがった。


【どんなぜいたくすりゃそんなにかかるわけ? どう考えても二人分の金額だよ、それ。あのねえ柴崎泰広、一人分の食費なんて工夫すりゃ一日五百円で何とかなるの。半額にして半額。一万五千円】


「わ……分かりました」


【で、光熱費は?】


「電気ガス水道あわせて、に、二万……」


【ひょえー、高い! 節約しまくれば一万で抑えられるって】


「は、はあ……」


【そんで携帯が四千円でしょ、その他雑費に一万計上して、……で、いくら?】


「えっと……さ、三万九千円、です」


【約四万か。まあ、そのくらいなら許容範囲かな】


 楕円の腕を組んで頷いているあたしを、柴崎泰広は驚愕と畏怖が入り交じった表情を浮かべて見つめている。


【それなら何とか稼ぎ出せる範囲だね。でもまあ、助かるのは家賃がなくてすむところかな。でなきゃ何をどうしたって学校に行きながら一人暮らしなんて不可能だもん。学校辞めて働くか、死ぬ気で施設に行けって言うしかなかった。その点に関してはあんたの親御さんに感謝だし、そのアドバンテージはフル活用しないとね】


 親、という言葉が耳に届いた途端、柴崎泰広は目線を落として表情を曇らせた。おっと、NGワードNGワード。


【……ま、とにかく、四万稼ぎ出せる仕事見つけよ。大丈夫大丈夫、月四万くらいなら、まともな仕事で何とかなる範囲だよ。主にあたしが働くんだし、心配ないって】


 おずおずと目線をあたしに向けた柴崎泰広に、満面の笑顔でにっこり笑いかけてやる。まあもちろん、気持ち的にだけど。


【じゃ、行くよ】


 楕円の腕を差し上げて示した先に、柴崎泰広はゆるゆると首を巡らせて視点を合わせた。

 そこにどどーんとそびえ立つのは、駅改札に向かう上り階段。

 柴崎泰広ののど仏が、ゴクリと音を立てて上下する。


「あ……彩南、さん」


【何よ柴崎泰広】


 あえて不機嫌満開の送信で応えると、柴崎泰広は視線を落ち着きなくさまよわせながら、かすれた声を絞り出した。


「あの、やっぱり、僕、その……」


【大丈夫だって! 駅のコンコースなんて全然密室じゃないから。入口出口は開けてるし、改札はあるし、人はみんな自分の目的で歩いてるだけだし、誰もあんたのことなんか見てやしないって】


 階段の端っこでごちょごちょやっているあたし達に、通り過ぎるネクタイ姿のリーマンオヤジがちらりといぶかしげな目線を投げてくる。


「で、でも、人がたくさん……」


【いたって大丈夫! 窓口の脇に置いてあるフリーペーパーのラックから求人誌もらってくるだけなんだから。ほら、行くよ!】


 このくらいのことには慣れてもらわないと困るのだ。

 でないとこの先、何でもかんでもあたしがやることになってしまう。それはいくらなんでもオーバーワークだ。簡単なことから少しずつ、できることを増やしてもらわないと。

 かなり強い送信でたきつけると、柴崎泰広はようやく覚悟を決めたのか、口の端を引きつらせながら顔を上げ、階段上に目を向けた。

 震える足で一段、階段を踏みしめて上る。さらに、もう一段……

 と思ったら、その足を引っ込めて三歩あとじさってしまった。あらら。


【なにやってんの? 三六五歩のマーチの逆バージョンやれって誰が言ったよ】


「で、でも彩南さん、もし吐いたら迷惑だから、うちからレジ袋をもってきて……」


【いいよそんなの。駅でゲロ噴くオヤジなんてしょっちゅう見るし、お互いさまお互いさま。四の五の言ってないで行くよ。もし吐きたくなったら、端っこに行って出したいだけ出せばいいんだよもう】


 自分でもむちゃくちゃ言ってるとは思ったけど、とにかく何かしら理由をつけて逃げようとしているこいつのケツをたたくのに、くだらない逃げ口上を聞いてやって隙を与えてはならないのだ。


【ほれ、ゲロくらいでは死なない! 前進あるのみ!】


 進軍ラッパでも吹き鳴らしたい気分で送信しつつ、柴崎泰広の背中をけっ飛ばす。

 編みぐるみの蹴りでもあたしの意志だけは伝わったらしい。再び、柴崎泰広は震える足を階段上に置いた。


【足元だけ見てればいいよ、柴崎泰広。あたしが前方は見てやるからさ】


「は……はい、分かりました」


【ほい、一歩出して】


「はい」


【ほれ、もう一歩】


「はい」


【そうそう、その調子でもう一歩】


「はい……」


 もし、あたしの声が普通の人と同じ音声で、周囲にそれが聞こえていたとしたら、かなり異様な光景に違いない。

 でも実際、柴崎泰広はこうして声をかけてやらないと、次の一歩が出ないのだ。

 相当な恐怖心だ。

 そして、その恐怖心が騙りではないと分かるのは、柴崎泰広の額に浮かんだ滝のような汗。

 俯き加減の頬を滑り降り、あごの先から次々に滴り落ちていく。

 呼吸は浅く、早く、ポーチをつかむ左手がはっきり分かるほど震えている。

 ゆっくりと、一歩一歩踏みしめながら階段を上る柴崎泰広を、分厚い脂肪を身にまとったおばさんが、冷たい視線を浴びせかけつつ追い越してゆく。


 苦しい。

 苦しいよ、柴崎泰広。

 どうしてあんたは、こんな目に遭わなければならないの。

 こんな当たり前のことに、どうしてこんなに苦しまなければならないの。

 

【……がんばれ】


「はい」


【がんばれ、柴崎泰広】


「はい……」


【もう少しだよ、あと三段】


「はい」


【あと二段】


「はい……」


【あと一段!】


 柴崎泰広は答えなかった。

 足元に目線を落としたまま、段上にゆっくりと右足を載せ、そこに体重をかけ、左足をその隣に載せる。


 ……完全制覇!


【やったあ、柴崎泰広!】


 感極まったあたしが、エベレスト登頂に成功したアルピニストさながらに歓喜の送信を送った、次の瞬間。

 弾かれたように壁際に走り寄った柴崎泰広の口から、滝のようなゲロがほとばしった。


 ……ああ。

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