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13.よろしくね

 柴崎泰広は、人気のない路地の突き当たりに追い詰められていた。

 肩を上下させ、異様に浅く速い呼吸を繰り返しながら、柴崎泰広は眼前にじりじりと迫ってくる西ちゃんの顔を凝視している。その顔は紙のように真っ白で、額にはびっしり汗が噴き出している。


「なんで俺が、三日しか登校してきてねえおまえのことを覚えてたか、分かる?」


 そんな柴崎泰広の反応に頓着する様子もなく、あたしのついたウエストポーチを右肩にひっかけた西ちゃんは、口元に残酷な笑みをたたえている。

 西ちゃんの肩越しに、追い詰められている柴崎泰広の顔が見えた。

 瓶底眼鏡の厚いレンズ越しの目元が、針の先ほどの光を放っているのがわかる。


――涙目じゃん、柴崎泰広。


 電車にすら乗れないこの男にとっては、想像を絶する恐怖なのだろう。感情排斥と効率重視と自己責任がモットーのあたしですら、精神崩壊の危機すらあり得るこの状況を看過することは難しい。

 西ちゃんはそんな柴崎泰広をたぎるような目で見つめながら、興奮しきった口調で言葉を継いだ。

  

「おまえって、絶対に俺好みの顔してると思うんだ。なあ、お願い。ちょっとでいいからその分厚い眼鏡、外して見せてくんない?」


 西ちゃんはそう言いながら、柴崎泰広にゆっくりと右手を差し伸べてくる。

 よけるか逃げるかすればいいだけの話なのに、蛇に睨まれた蛙さながら、柴崎泰広は動くことはおろか声を出すことすらできない様子で凍り付いている。

 全く、しょうがないなあ。


【ねえ、聞こえる? 柴崎泰広】


 柴崎泰広はハッと目を見開くと、西ちゃんの肩にぶら下がるあたしをすがるように見た。


「あ……彩南、さん」


 ああああもうわかったって。泣くな。

   

【逃げるよ】


「……え」


【キツイんでしょ、この状況】


 柴崎泰広は脂汗を流しながら、目だけでうなずき返してくる。


【じゃあ逃げるしかないじゃん】


「で、でも、どうやって……ポーチはこいつが持ってるのに」


【返してもらうしかないよね。したらさ、今からあたしが指示することを、西ちゃんにきっぱり伝えてくれる?】


「きっぱりって……」


「なに一人でブツブツ言ってんの? 柴崎」


 柴崎泰広は言いかけた言葉を呑み込んだ。

 見ると、獲物を追い詰めた西ちゃんの手は、あとわずかで柴崎泰広の眼鏡に届くところまできていた。


【まずはその手を払って!】


 柴崎泰広は息を詰めると、必死の形相で西ちゃんの手を払いのける。


【したら、あたしの指示通りに話して。まずは、やめろってできるだけ強く言って!】


 柴崎泰広は汗だくの顔をゆがませながら、かすれた声を絞り出した。


「や、……やめてください」


 は? なんで敬語? 

 でもまあ取りあえず意思は伝わったらしい。西ちゃんはキョトンとした顔をすると、眼鏡に伸ばしていた手の動きを止めた。


【次は、いきなり眼鏡とるとか強引すぎて不愉快だ、こっちの気持ちも考えろ、みたいな感じで強く非難して!】


「い、いきなり、眼鏡、とるとか……ご、強引、すぎです。少しは、こっちの気持ちも、考えて、……ください」 


 柴崎泰広は目線を忙しく左右にさまよわせながら、なんともたどたどしく言葉を連ねる。をいをい。きっぱりって言っただろ。

 西ちゃんは、どこか楽し気な表情で首をかしげた。


「なにそれ。思いやりが足りねーって意味?」


【そうだよって意味でうなずいて。で、裸足の足を見せて、むやみに追っかけたことを反省させて、おわびに靴をとってきてとか、気に入ってるならそのくらい当然だとか、そんな感じに話を持って行って。あんな弱腰じゃなくて、できるだけ強い調子できっぱりとね!】


 柴崎泰広はあたしに向けてなのか西ちゃんに向けてなのかよくわからない感じでうなずくと、必死に言葉を継いだ。


「た、例えば……僕、今、裸足なんで……く、く、靴を、とってきてやろうとか、思ってもらえたら、助かるかなって……」


 いやいやいや、きっぱりって言ってるのに、なんでそんなに下手に出る? いっぱいいっぱいになった時のあの勢いはどこに行った?

 幸い、西ちゃんは「あ、マジで?」とかなんとか言いながら目を丸くして裸足の足を見やっている。とりあえずよかった。


【靴をとってきてくれると超マジ感謝感激、みたいな感じで頼んで。荷物は自分で持つって言えば、たぶん返してもらえるはずだから】


「あ、あの、も、もしよかったら、靴を、とってきていただけると、ものすごく助かるんですけど……に、荷物は、自分で、持つので」


 ぐああああああ。イライラするなあもう。

 西ちゃんはニヤニヤしながら柴崎泰広の顔を覗き込むと、あたしがぶら下がったポーチを肩から外した。


「おっけい。いいよ、わかった。持ってきてやる。その代わり、靴を持ってきたら眼鏡とって見せてくれるって、約束な☆」


【了承して】


「わ、分かりました」


 西ちゃんがポーチを手渡して古着屋方向に歩き出した途端、柴崎泰広は極度の緊張が一気に解けたらしく、ブロック塀に背中を擦りつけながら地べたにズルズルと崩れ落ちた。


【いやいやいや、脱力してる場合じゃないよ。立って! 逃げるよ】


「……え、逃げるって」


【逃げんの! あっちの路地に走って、思いっ切り!】


「でも、裸足……」


【しょうがないからあの靴は捨てる。どうせボロボロだったからいいでしょ。早くして! あいつが戻って来ちゃうから!】


 柴崎泰広は弾かれたようにポーチを引っつかむと、西ちゃんが消えたのとは反対側の路地に向かって全速力で走り出した。


 

☆☆☆



 柴崎泰広がようやく足を止めたのは、繁華街から少し外れたところにある、遊歩道沿いの小さな公園だった。

 

「もう、……大丈夫、ですか」


【ここまで来れば、さすがに大丈夫だと思うけど】


 久しぶりのランニングだったらしく、柴崎泰広はヒューヒューと頼りない音で気管を鳴らしながら、力尽きたように路肩に腰を下ろした。荷物を放り出し、後ろに手を突くと、放心したように中空に目を向ける。

 投げ出されたウエストポーチの下になってしまったあたしは、必死でそこからはい出すと、憤然とそんな柴崎泰広を見上げた。


【ちょっとさあ、柴崎泰広】


「え、……あ、はい」


【なんであんた、あんな弱弱レスしか返せなかった訳? きっぱり言えって言ったはずだよね。なんとかうまくいったからよかったけど、相手によっては、弱腰の相手には居丈高になってひどいことしてくるとか、いくらでもあるんだよ?】


「弱弱……そうでしたか。いや、もう、何言ってんだか自分でもよく分かんなくて……」


 柴崎泰広は頭を両手でグシャグシャ掻きむしると、そのまましばらくは動きを止めていたが、ふいにぽつりと言葉を漏らした。


「僕、男の人、ダメなんです」


【え?】


「電車で吐く原因、分からないって言いましたよね。あれ、半分ホントで、半分ウソです。確かに原因はわからないんですけど、引き金がなにかはわかってるんです」


 言葉を止めると、絞り出すようなため息をつく。


「大人の男性が自分の半径一メートル以内に近づいただけで、吐き気はするし頭痛はするし脈は上がるし汗は出るし、ものは考えられなくなるし気は遠くなるし……だから電車とか、トイレとか、店とか、狭い空間がダメなんです。中に男性がいた場合、どうしても距離が近くなるから……。学校も、小学校まではよかったんです。でも、友だちが声変わりをして、どんどん大人の体形に近づいていくにつれて、だんだんダメになってきて……」


 柴崎泰広はボサボサの髪から手を離すと、途方に暮れたような視線を草むらに投げた。


「汚い格好をしていれば、みんなキモいとか言って寄ってこないんで、なるべく人から避けられるように嫌われるようにしながら、高二までは何とかがんばったんですけど……限界でした」


 そうだったのか。

 だから一般的外見になった自分におののいてたんだ、こいつは。


【……ねえ、柴崎泰広】


「はい」


【そんな風になった原因、ほんとうにわからないの?】


 柴崎泰広は頷くと、そのまま膝を抱えた腕に頭を埋めた。


【いつごろからそうだったの?】


「……分かりません。物心ついたときにはそうでしたね。一番古い記憶は保育園のばら組だったとき、実習で園に来ていた男子学生に抱っこされてひきつけを起こした時なんで、その時くらいにはもう」


 呟くようにそう言うと、腕に埋めていた顔を少しだけ上げ、口の端に引きつったような笑いを浮かべてみせる。


「僕みたいな人間、生きててもどうしようもないって思いません? こんな人間に、存在価値なんてあるわけがない。だから死のうと思ったのに、僕には死ぬことすら許されていない。だったらもうどうでもいい。ゲロ噴いて気を失いながら、あの男の慰み者にでも何でもなってますよ、もう」


 再び腕に顔を埋め、震えるようなため息をつく。

 その音を聞いていたら、なんか、唐突に腑に落ちた。

 そうか。そういうことだったんだ。


【……やっと分かったよ、柴崎泰広】


 ひとりで頷いているあたしに、柴崎泰広は腕の隙間からいぶかしげな視線を投げた。


「分かったって……なにがですか」


【あたしが生きることになった理由】


 柴崎泰広は顔を上げると、眉をひそめてあたしを見つめた。


【あたしはさ、あんたを救うために遣わされた勇者さまなんだよ】


「……は?」


【いや、実は生きてる時もずっと考えてたんだよね。なんであたしなんか存在したのかなって。親に見捨てられて、いじめられて、自由も金もなくて、くだらない制約と偏見とうざったい憐れみでがんじがらめにされて、一時はあんたと同じように死のうと思ったこともあったけど、それでもさ、生きてやろうと思ったんだよ。身勝手で理不尽で不公平な神様を見返してやろうって、がんばったんだよ、あたしなりにさ。将来を見通して、あたし程度の能力でも就ける職業を考えて、そのために手に入れておくべき学歴を考えて、塾に行く金は自分で稼いで、とりあえずうまくいってたんだよ、あの瞬間まではさ】


 言葉を切った。

 次の言葉が言いにくかった訳じゃない。ただ単に、息継ぎのため。


【でも、あたしは死んじゃった】


 柴崎泰広は何も言わなかった。まじろぎもせず、あたしを見つめている。


【何でだよって思ったよ。あんなにがんばってたのに、がんばりの結果が出る前に死んじゃったなんてさ、あたしの人生どんだけだよって思った。生きたかったよ。生きて、せめて血の出る思いでがんばってきたことの結果が見たかった】


「彩南さん……」


 余計なことは言ってもらいたくないから、深刻な表情で口を開きかけた柴崎泰広の言葉をさえぎるように先を続ける。


【でもさ、結構疲れるんだよね、肩肘張ってがんばるのもさ。だから、水谷彩南に戻りたいって気持ちはすぐに消えたよ。今はあんたの体で十分満足。このまま、生きられるとこまで生きればそれでいい。ただ、あんたの体で生きることになったのには、一体どんな意味があるんだろうって考えてたんだ。身勝手で理不尽で不公平な神様が、今度はあたしに何をさせようとしてるのかなって】


 こわばった顔であたしを見ている柴崎泰広に、明るくにっこり笑いかけてやる。表情筋のないクマるんだけど、気持ち的に。


【それが、どん底に沈みかけてるあんたを引っ張りあげることだってのが、やっと分かった】


「そんな……」


【いいよ、やってやろうじゃないの。悪いけど、あたしは容赦しないよ。あんたが無事に社会復帰して、命の砂が尽きるまでの間、安心安全最大限の幸福追求ができるように、誠心誠意サポートしてあげるからさ】


「やめてください!」


 およ。

 見上げた柴崎泰広は、両の拳を震えるほど堅く握りしめ、地面を怖いくらいの目で睨み付けていた。


「そんなの、全然彩南さんの人生じゃないです。ていうか、そんなひどい話ってないですよ。それじゃあ、彩南さんの人生って、いったい何だったんですか!」


 吐き捨てると、目を伏せて頬を震わせている。

 何をそんなに怒ってるんだろ。別に、柴崎泰広に対して暴言を吐いたつもりもないんだけど。

 ……え? もしかして、あたしのために怒ってくれてるわけ?

 まったく、お人よしの甘ちゃんだねえ。


【しょうがないよ、そういう役回りだったんだから。あのねえ柴崎泰広、基本的に神様ってのは身勝手で理不尽で不公平なの。誰に対しても。その点では公平なの。だからあたし達は、与えられた立場と能力で、降りかかる幾多の困難に立ち向かわなけりゃなんないの。そのへんのゲームやマンガなんかより、はるかにタチが悪いんだよ、ホントに。あんたは、凶悪にして強大な史上最大の敵と戦うプレーヤーってわけ。でも今、負ける寸前でさ。そこに黄泉の国から遣わされたのが、……】


「彩南さんって訳ですか」


 柴崎泰広はそう言うと、困ったような笑みを浮かべた。


「ゲームのし過ぎですよ、それ」


【したことないよ、金ないから】


「僕もないです」


 顔を見合わせて、思わず笑い合う。あたしの表情は変わらないけど、柴崎泰広は多分、あたしが笑ったこと分かってくれてる。気がする。


【にしても、今回の敵はかなり手ごわいね】


「負けるかもしれませんよ」


【そうかもね。それは否定しない】


 その返しが意外だったらしい。柴崎泰広は目を円くして口をつぐんだ。

  

【人生ってゲームは、そんなに生易しくないもん。当然その可能性はあるし、あんたの話を聞いてると、それはかなり高いパーセンテージかもしれないって思う。ただ、あたしは一応、その辺の甘ったれたヤツらよりは修羅場くぐってきてるから、それなりに精神は鍛えてるつもりだし、基本的な技も一応身に付けてる。まあ、今後も鍛錬を続ける必要はあるけどね。だから、大船に乗った気で、とまではいかないけど、少なくとも、一人の時よりはマシだからさ】


 あたしは言葉を切って柴崎泰広を見上げた。柴崎泰広もあたしを見ている。瓶底眼鏡の奥の目が、あたしを真っすぐに捉えているのが分かる。

 あたしは無言で、楕円の右腕を差し出した。柴崎泰広の目に、微かな戸惑いがよぎる。だいじょうぶ。そんなことを思いながら、ゆっくりと頷いてみせる。柴崎泰広の表情が少しだけ柔らかさをとり戻し、やがてどこか遠慮がちに、柴崎泰広の右手があたしの方に差し出される。

 意外なほどきれいな人差し指と親指が、あたしの楕円の腕をそっと握った。


【よろしくね】


「よろしくお願いします」


 この瞬間あたしたちは、身勝手で理不尽で不公平な神様の仕組んだ人生という名のゲームを共同でプレイする同士になった。

 勝敗の行方は、未だ全く見えないけれど。

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