111.Merci de vous avoir patienté
「Merci beaucoup.」
白いコックコートに身を包んだ黒髪の男はにこやかに最後の客を送り出すと、扉に錠をおろして振り返った。
「Merci de vous avoir patienté. ゴメンな、なかなか手が空かなくて」
窓際の席に座っていたカジュアルなジャケット姿の男は、口に運びかけたエスプレッソのカップを置いて小さく頭を振った。
「いや、こちらこそ突然訪ねてきて……でも、いいの? 店閉めちゃって」
「いいのいいの、遠路はるばる懐かしい客が来たんだから、今日は臨時休業」
「それにしても、ずいぶん繁盛してるみたいだね」
「場所が場所だからな。ここに店を構えられた幸運に感謝だね」
「場所だけじゃないよ。ミルフィーユ、すごくおいしかった」
男はそう言うと席を立ち、歩み寄って来たコックコートの男に向き直った。
コックコートの男もそれに応えるように居住まいを正すと、満面の笑顔で右手を差し出す。
「久しぶり、柴崎」
「久しぶり、西崎さん」
笑顔で握手を交わしてから、自分と向かい合う男……柴崎泰広の顔をしげしげと眺めて、西崎は感極まったような溜息をついた。
「つかマジで久しぶりだよな。俺が日本を出たのが十八の年だから、……十五年、か? 時々スカイプで連絡は取ってたけど、こうして生で見ると感慨深いモンがあるな。いつコンタクトに変えたんだっけ。ますます男っぷりが上がったんじゃねえの?」
泰広は気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「半年くらい前から、かな。娘が眼鏡嫌がるもんで」
「ああ、あーちゃんの意向ね。いんじゃね? おまえ、眼鏡ない方がいけてるもん。俺も惚れ直しちゃいそうw」
西崎がニヤニヤしながら顎を持ち上げようと手を伸ばしてくるので、泰広はすかさずその手を払いのけ、一歩あとじさる。
「……か、彼氏に見られたらまずいって」
「だいじょぶだいじょぶ、Glennは心が広いから俺の愛を疑ったりしないの。第一、今仕事に行ってるし」
にじり寄る西崎に押されるように壁際に追い詰められ青くなっている泰広の様子に、西崎はぷっと吹き出すと大笑いしだした。
「うそうそ冗談だよ、あーマジでおまえ変わってねえなあ。なんか日本に戻ったみてえ。日本語で話すのも久しぶりだし」
「……西崎さんもホント相変わらずみたいで」
恨みがましく呟きながら泰広が椅子に座ると、西崎もその隣に腰を下ろした。
「つか、あーちゃんと夏波は?」
「今トイレに行ってる。オムツがはずれたばっかりなんで、時間かかるんだ」
「そっかそっかー。あーちゃんもうすぐ三歳だっけ。そういう時期だよな」
西崎はひとしきりうんうん頷いていたが、何に思いあたったのかくすくす笑い出した。
「しっかし、おまえらが結婚したって聞いたときはマジでびっくりしたよなあ。高校の時も、あの事件以来、おまえはバイトと受験勉強で遊ぶどころじゃなかったし、それぞれ別の大学に行って特に交流があった様子もなかったし、第一、おまえはそのあとアメリカに行っちゃったわけだろ。接点なんかまるっきりなかったのに」
泰広も、つられたように小さな笑みを漏らした。
「僕も、まさかこんなことになるとは思っていなかった。ボストンの空港で、夏波にばったり会った時は驚いたよ。海外で日本の知り合いに会うってあんまりあることじゃないから、つい懐かしくて何度も会ってるうちに、気づいたら、……ね」
「ま、もしかしたら夏波は狙ってあそこに就職したのかもしんないけどな。あいつ、高校ン時からおまえのことが好きだったから」
泰広は目を丸くすると、カップを口に運ぶ動きを止めた。
「……ホントに?」
「マジマジ。知らなかったのおまえくらいなもんだって」
西崎がニヤニヤしながらうなずくと、泰広は手にしていたカップを置いて困ったように笑った。
「いや、さすがにそれはないって……あの頃の自分は、引きこもりでヘタレでどうしようもない上に、解離性同一性障害まで患ってたらしいし……普通に考えて、恋愛の対象になるわけがない」
「んなことねえって。特に事件後のおまえ、マジで生まれ変わったみたいだったもん。毎日遅くまでバイトしながら受験勉強も手抜きねえし、ホントいつ寝てるのかって感じで、夏波もかげながらすげー心配してたから……ていうか俺も、おまえがここまでアグレッシブな人生を歩むとは思わなかった。家の売却益だって借金返済に充てられて大してもらえなかったのに、働きながら高校に通って、あの大学に現役合格して、その上海外留学して、さらに大学院まで行って、そのまま海外就職だもんな……正直驚いたよ」
思いがけない誉め言葉だったらしく、泰広は照れたように笑うと頭を振った。
「まわりに助けられてたってのもすごく大きいし、運もよかったんだと思う。留学は教授の強い推薦がなければ実現しなかったし、大学院では奨学金ももらえたから……」
そこまで言ってから、泰広はふと、考えこむような目つきで遠くを見た。
「でも、確かに不思議なんだよね。ああいう大きな選択を迫られた時、ヘタレな自分が尻込みしそうになると、叱咤激励して背中を押してくれる誰かが常にいるような気がずっとしてて……その声に押されて無我夢中でやってるうちに、気が付いたらこうなってたっていうか……あれは誰なんだろうって、時々考えるよ」
その言葉を聞くなり、西崎は即答した。
「それ、アヤカだって」
その余りにも確信に満ちたもの言いに、泰広は苦笑まじりの笑みを浮かべた。
「同じことを夏波にも言われた。確か……」
「そう。解離性同一性障害の時、おまえの中に同居していたもう一人のおまえ。アグレッシブでシビアで現実的で、生きる力にあふれてて、基本人格のおまえのことをいっつも心配してたヤツ。そうかあ、おまえ自身は覚えてなくても、深層意識に残ってんだなきっと。てか、おまえ、いまだにアヤカのこと、まるっきり思い出せねえんだよな」
「全く覚えてない……でも、いいヤツだったみたいでよかった。夏波もすごく気に入ってたみたいで、時々その時の話をされるよ」
西崎は切なげな表情を浮かべると、遠くを見るような目つきをした。
「あの時、昏睡から覚めたおまえがアヤカのことをまるっきり覚えてなかったのには驚いたけど……トラウマの原因と直接対峙したことで、きっと何かが吹っ切れたんだろうな。解離性同一性障害の克服は、おまえにとって必要なことには違いなかったわけだし……」
独り言のように呟いていたが、何に思い当たったのかはっとしたように言葉を切ると、真剣な表情で泰広を見やる。
「あれから、あの男はおまえの前に現れたりしてねえよな」
泰広は目線を落として「大丈夫」と短く答える。西崎はホッとしたように表情を緩めると、「そっか」と返した。
「もしあったらすぐに言えよ。しっかし、おまえも寛大だよな。おまえの証言次第では、あの男をブタ箱に放り込んで、しばらく出てこられなくすることだって可能だったのに。わざわざ自分が不利になるような証言なんか、してやらなくてもよかったんじゃねえの?」
「その方が、かえって僕の前には現れにくくなるだろうから。ヘタに恨みを残して、またあれこれちょっかいを出されたら、こっちもたまらない」
「それはそうなんだけどな……」
西崎は語尾を飲み込むと表情を改め、空気を変えようと思ったのか、いくぶん大げさに首をかしげてみせた。
「てかさー、二歳児連れの渡航、たいへんだったんじゃね? なんでいきなり遠路はるばる俺んとこなんか訪ねてきたわけ?」
「いや、自分のお店を出したって聞いてから、いつか来たいとはと思ってたんだ。今回、ノルウェーに行くことになったから、そのついでに寄れると思って」
「ノルウェーって、おまえの所属してる建築事務所の総本山があるとこだろ。仕事?」
「うん。今回はちょっと長くなるんで、夏波も下見がてら、ついてくることになったんだ」
「下見がてら?」
泰広はカップを置くと、ほほ笑んだ。
「実は、ノルウェーに住みたいと思っていろいろ準備してるところなんだ。夏波の転職先を探したり、ノル語勉強したり……ビザが下りるだけでも相当時間がかかるんで、まだまだ先の話だけどね」
「へええええ。ニューヨークから移りたいって話は前から聞いてたけど、日本じゃなくてノルウェーなのか」
西崎は感心したように何度も頷いてから、複雑な表情を浮かべた。
「残念がるんじゃね? オヤジもおふくろも。俺はともかく、おまえは戻ってくると思ってるらしいから」
泰広も心もち目線を落とした。
「彼らは自分たちの望みで相手を縛るようなマネは絶対にしないけど……もしかしたら、そうかもしれないね」
西崎は小さく頷いてから、何を思い出したのか、ふいにいたずらっぽい表情を浮かべた。
「知ってっか? 今だから言うけどさ、オヤジ、おまえが柴崎弁護士の息子だって知って、おまえに自分のあとを継がせようと思ってた時期があったんだぜ。あの大学の建築学科に現役合格したから諦めたけど、そうじゃなかったら、絶対に法科大学院のある大学を勧められてたな」
その言葉に、泰広もいくぶん困ったような笑顔を見せた。
「西崎さんのお父さんと僕の父親が顔見知りだったって、初めて知った時は本当に驚いたけど、よく考えたら検察官と弁護士だから、十分にあり得るよね」
「すげー切れる人だったらしいぜ。亡くなった時は、同業者ばかりか検察官の中にも惜しがる人がいたくらいだったって……」
泰広がわずかに目線を落としたのを見て、西崎は慌てたように話題を変えた。
「ていうか、あの人、おまえのバイト先のおばちゃん。なんて言ったっけ……あの人も残念がるんじゃね? ええと……」
「ああ、笹本さん。大丈夫、あの人自身も若いころに海外を放浪してた経験があるらしいから、こっちに来る時もサバサバしたもんだったよ。ていうか、笹本さんにも本当にお世話になった……笹本さんがアパートの空室に無料で住まわせてくれたから、何とかギリギリ生きられたけど、そうじゃなかったらどうしようもなかった」
「んなことねえって。そうなったら、あのまま俺んちにずっと居候してればよかったんだからさ」
「そういうわけにはいかないよ……でも、あの頃はいろいろな人の世話になって、本当に生かされてるって感じだった」
「いんじゃね? その分はちゃんと今返してるわけだから。笹本さんとこだって、無料で新進気鋭の若手建築家にリフォームしてもらったんだから、文句ねえと思うぜ。うちへの仕送りもまだ続けてんだろ」
「うん、あと十五年かな。西崎さんのお父さんにも、本当に頭が上がらない。身寄りのない僕の身柄を保証してくれたことも、あの事件を僕が影響を受けない形で丸く収めてくれたことも、無利子で多額の融資をしてくれたことも、……本当に、感謝の言葉もない」
神妙な面持ちでうつむく泰広の頭を、西崎は手のひらでポンポンたたいた。
「いいんだって、きっちり返済してんだから。つか、俺の方こそ、店を出す関係でここ一年くらい返済をストップさせたままだったから、そろそろ再開しねえとヤバいかも。お互い、借金持ちはキツイよな」
その明るいもの言いにつられるように、泰広が西崎に笑顔を返した時だった。
「ダメよ、まだお手手洗ってないでしょ」
あきれたような女性の声が静かな店内に響きわたると同時に、店の奥から一直線に突進してきた何かが、泰広の足もとに勢いよく飛びついて来た。




