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110/112

110.大好きだったよ

 気がつくと、白いもやの立ち込める静かな川岸に一人、立ちつくしていた。

 水の匂いを帯びた湿り気のある空気が、優しく肌をなでてていく。

 見覚えのあるその風景をぼんやり眺めやっていると、ふと、頬に冷たい感触を覚えた。こすり取ると、なめれば恐らく塩辛い味がする水分が手のひらを湿らせた。


「三か月弱、か……思ったより早かったねえ」


 唐突に、背後から聞き覚えのあるしわがれ声が響いてきた。

 ゆるゆると振り返ると、もやで白く霞んだ船着き場につながれた小舟が一(そう)、波にゆったりと揺られているのが見えた。舳先へさきには、見覚えのある老婆が一人、腰をかけている。彼女は巻物に筆で何か書きつけていたけれど、視線を感じたのか、黄色味を帯びた三白眼でチラリとあたしを見た。


「ここは……」


「引き戻した」


 ぶっきらぼうに言い捨ててから、不満げなあたしの様子に気づいたのか、面倒くさそうに言葉を継ぐ。


「他者に存在を知られたら、即刻三途の川に引き戻すと言ったろ? 特例は終了だ。今度こそ大人しく船に乗ってもらうよ」


『ただし、他者にその事実を知られたり、悪用したりする場合はもちろん、三途の川の存在を明かしただけでも即刻共用者の魂は三途の川へ引き戻され、輪廻転生の可能性を失って消滅する』


 その言葉を反すうして、ようやく何が起きたのか理解できた。そうか、自分はあの川岸に引き戻されたんだ。自分の姿を、西ちゃんという他人の目にさらしたから。そしてもうすぐ、この世から完全に消滅するんだ。

 一瞬ものさびしい気分に襲われたけれど、玄関に放置されている柴崎泰広のことが思い出された瞬間、そんなことはどうでもよくなった。今、あたしにとって重要なのは、彼の安否だけなんだ。

 あの時。

 西ちゃんに気づいてほしいと強く願った、瞬間。突然目の前が揺らいで、気が付いたらあたしは駅のホームに立っていた……と思う。正直言って、あの時は夢の中にいるような感覚しか抱けなくて、電車の戸口に立っていた西ちゃんがあたしの存在に気づいたかどうかさえよくわからない。

 いや、こちら側に引き戻されたんだから、彼はあたしの存在に気づいたんだと思う。ただ、その瞬間、すぐにこちらに意識が引き戻されてしまったから、果たして彼に、柴崎泰広を助けてほしいというあたしの意思が伝わったかどうかは分からない。


「柴崎泰広は……」


 渡し守の返答を期待したわけではなかったけれど、知りたいと願う思いが高じて思わず彼の名が口からこぼれる。慌てて語尾をのみこんだあたしを横目でチラリと見ると、渡し守は肩をすくめたようだった。


「さあね。今ここに来てないってことは、まだ死んでないってことだろうけど、それ以上はわからないね。今ここにいなくとも、十分後に来るかもしれないし、あと数年来ないのかもしれない。それはあの男の、命の砂の量次第だ」


 予想どおりの冷たい返答を聞き流しながら、あたりをぐるりと見回してみる。誰かが、数メートル先の草原にしゃがみ込んでいるのが見えた。ドキッとしたけど、白髪頭とまがった背中を見るに、柴崎泰広ではなさそうだ。ホッと胸をなでおろしつつ、再び首を巡らせる。老人と反対側の川岸近くに、背広姿の中年男性がぼうぜんと立っているのが見えた。夏波の父親を彷彿ほうふつとさせるその姿に、胸を締め付けられるような感覚を抱きつつ、今度は背後に目を向けてみる。

 落ち着きなくあたりを見回し続けるあたしを見て、渡し守はあきれたようにため息をついた。


「生きてるヤツのことは潔く諦めて、生きてるヤツに任せな。やつらのことは、やつらがなんとかするしかない。死人にできることは、ただ信じて任せることだけだ。だからこそ、伝えたいことは生きてる間にできる限り伝えとくもんなんだよ」


 渡し守は言葉を切ると、黄ばんだ白目の上端にある小さな黒目で、まるで睨むようにあたしを見据えながら、やけに厳かな声音で問う。


「あんたが伝えたかったことは、あらかた伝えられたんだろう?」


 あたしが伝えたかったこと。

 身の回りの始末の仕方も、最低限の生活技術も、一人で電車に乗ることも、学校に行くことも、他人とのかかわり方も、仕事の取り組み方も、あいつが一人で生きていくために最低限必要なことは、あらかた伝えられた……と思う。最低限の基礎だけだけど、あいつの能力があれば、それをベースにして新たな状況にもきっと柔軟に対応していける。助けてくれる人もゼロじゃない。西ちゃんや夏波はもちろん、高校の先生達も、いざとなったら笹本さんだって、きっと彼の助けになってくれる。彼自身が生きることを諦めずに、求めていきさえすれば。


『わかってる。僕は、生きる……約束する。だから、彩南さんも、……消え、ないで……』


 あの時彼は確かに、生きると約束してくれた。もちろん、あたしを安心させるための口からでまかせかもしれないけれど、それでも、あたしはもう、その言葉を信じて彼に全てを託すしかないんだ。


「……伝えた、と、思う」


 小さくうなずいて見せると、渡し守は表情を緩めて顎をしゃくった。


「そんなら何の問題もない。あとは運を天に任せて、あんたはさっさと船に乗るんだね」


「……え?」


 違和感を覚えて、思わず首をかしげた。


「あたしも、……乗るの?」


「決まってんだろ? あんたは死んだって、何度言ったらわかるんだい」


「でも、あたしは……」


 渡し守は眉間に深い皺を二本作ると、ため息まじりに説明する。


「魂がその存在を完全に抹消されるのは、三途の川から現世にやって来た事実を生きてるヤツに知られたり、ものに乗り移る特性を悪用したりした場合だ。あんた、そういうことをやらかしたのかい?」


 三途の川のことは誰にも言っていないはずだ。慌てて首を横に振る。


「そんなら何の問題もない。他人に姿をさらした時、すぐさまこちらに逆送するのは、その最終段階を未然に防ぐためだ。魂の無駄遣いは、こっちもしたくないからね」


 てっきり存在を消されると思って覚悟を決めていただけに、説明がすぐには飲み込めなかった。腑抜けのようにポカンと口を開けているあたしを見て肩をすくめると、渡し守はひとりごとのように言葉を継いだ。


「……ま、あんたは今回、利他の精神を多少なりとも身につけられたからね。あの時は利己心の塊で間違いなく修羅か畜生行きだったから、よかったんじゃないか? ただ、それを得るのに、あんたはあの男に相当な借りを作ってるんで、人界以上は望めんがね。借りを返さにゃならんから」


「借りを……返す?」


 あたし風情に真意が理解できるはずもなく、とりあえず引っかかった言葉を繰り返してみると、渡し守はしまったとでも言いたげに口を閉じ、傍らに立てかけてあったを握りなおした。


「……いけないいけない。ただでさえ血の池送りの憂き目に遭ってるってのに、余計なこと言うと、もっとろくでもない部署に左遷されちまう」


「血の池送り?」


 渡し守は忌々しげに吐き捨てた。


「左遷されちまったんだよ。この仕事は楽で気に入ってたんだけどねえ……この年でまた血の池勤務だなんて、まったくついてないったら」


 深いため息をつくと、血走った目であたしを睨みつける。


「それもこれも、全部あんたらのせいなんだからね。これ以上ゴチャゴチャぬかしてあたしの仕事を増やしたら、本当に地獄送りか永久抹消してやるから、覚悟しておきなよ」


 なんであたしたちのせいなのか問いただしたかったけど、ゆがんだ口の端から鋭い牙がのぞいたので、慌てて船に飛び乗った。船にはすでに五人ほどの人が乗り込んでいたけれど、彼らは勢いよく飛び乗ったあたしの重みで大きく揺れる船を気にかける様子もなく、ただ悄然しょうぜんとうつむいて船底を見つめている。

 あたしが腰を下ろしたのを確認すると、渡し守はの先で船着き場を突いて船を漕ぎ出した。

 ゆったりとした流れに乗って、渡し守は黙って船を漕ぐ。規則的に繰り返すその音を聞き流すうち、ふと、気になっていた疑問が口をついた。


「あたしっていう存在が自分の中にいたこととか、柴崎泰広の記憶には残るの? 三途の川の記憶とかも混じってると思うけど……」


 渡し守は行く先に目線を向けたままで、首を横に振った。


「基本的に、あんたに関係するあいつの記憶は全部消えるよ。あいつが自分の努力で身につけたことについては残るだろうけどね。ただ、あいつ以外の人間にも、あんたは相当に関わっちまってるから、つじつまが合わないこともいろいろ出てくる。あんたを送り届けたら、あたしも一度人間界に行って調整しなきゃならん。まったく、面倒くさいったらありゃしない」


「そっか……」


 要するに、あたしがあいつと過ごした日々は全部リセットされて、なかったことになるわけだ。覚悟はしていたものの、改めて言われると結構こたえた。

 喉の奥がこわばって、目頭が熱くなりかけたけど、よく考えればあたしの人生はあの事故の時点で終わってたわけで、プラスアルファで楽しい思いができたんだからラッキーだったと、慌てて気持ちを立て直した。あいつに伝えたかったことだって、ちゃんと全部伝えられたわけだし、もう思い残すことなんか、何も……。

 その瞬間。あることに思い至ってしまって、心臓が思い切り跳ねた。


「……あたし、一番大事なことを、結局、一度も伝えてなかった……」


 ぼうぜんと呟いたあたしを、渡し守は舟をこぎながら、横目でチラリと見たようだった。

 息苦しいような、居たたまれないような思いがあふれ、胸が張り裂けそうになる。もちろん、こんなことを知ったところであいつの人生にはクソの役にも立たないし、そもそも、あたしに関わる彼の記憶はすべて消えてしまうわけだから、言ったところでどうなる話でもないんだけれど。

 でも、あたしにとっては、ものすごく大事なことだったんだ。

 喉のこわばりがどうしようもなく膨れ上がってきて、慌ててこぼれ落ちないように顎をそらしたけれど、閉じた目もとからも水分があとからあとからあふれて止まらない。喉の奥からは、勝手に嗚咽まで漏れてくる。

 そんなあたしを見かねたのか、渡し守は舟をこぎながら、おもむろに口を開いた。


「ま、どっちにせよあんたは、今生の借りを返しに行かなきゃならんから。心残りは、その時にでも片づけるんだね」


「……どういう意味?」


 渡し守は答えなかった。そうしている間にどんどん周囲が明るくなり、神々しい輝きが満ちあふれ、目を開けているのもつらくなってきた。

 たまらず閉じたまぶたの裏に、あいつの、あのはにかんだような笑顔が浮かんでくる。

 もし、これがあたしの最期だっていうなら、せめて、あたしの記憶の中のあいつにだけでも、あたしの気持ちを伝えたい。柔らかくあたしを見つめる懐かしいその顔に、言えなかったあの大事な一言を、そっと小声でささやきかける。


――本当に、大好きだったよ。


 あいつが優しく笑いかけてくれた気がして、そうしたらあたしの心も少しだけ軽くなって、緊張して強張っていた全身の力が抜けて、ふっと体が軽くなったような気がして。

 そこであたしの意識は、途切れた。

 あたしが「あたし」であったときの、記憶も、思いも、全てがきれいに消し去られ、文字どおり、「あたし」は「無」へと回帰して――。



 その後、水谷彩南の魂がどうなったかは、誰も知らない。

 ……いや、神のみぞ知る。

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