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109.……携帯?

「弐宮橋駅で起きた人身事故の影響で、現在、運転を見合わせております。お急ぎのところお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ちください……」


 車内に何度目かのアナウンスが流れると、沈黙に満たされた車内の空気が、そこかしこから漏れるため息でわずかに揺れる。開きっぱなしの戸口脇に立っていた西崎も、閉じていた目を開くと、腕時計に視線を走らせた。

 時計の針は七時三十分を回っていた。土曜の勤務時間は五時までだが、調理場で手伝ったり話を聞いたりしていると、帰宅はいつもこのくらいの時間になる。遅くなったところで文句を言われる心配もないので、電車が遅れたとて特に焦りは感じない。親に隠れてバイトをしていたとしたら、こんな精神的ゆとりは得られなかっただろうと、自由に好きなことができる幸せをかみしめる毎日だ。

 そんな理想的な日々を送りつつも、西崎の心には、あの日、アヤカに投げられたあの言葉が、小さなとげのように引っかかり続けていた。

 開いたままの戸口の外に見える駅名表示を、ぼんやりと見上げる。境堂。何の偶然か、彼らの家がある場所だ。今すぐ訪ねて行けと言わんばかりのシチュエーションに、西崎は思わず苦笑を漏らした。

 実は、この駅にしばらく停車せざるを得ないと分かった時、西崎は一度は席を立ち、ホームに足を下ろしかけた。彼はあの時、朝の通学路でアヤカが見せた、あの憔悴しょうすいしきった態度の原因を確かめたい思いをずっと抱えていた。だから、ここで足止めを食うとわかった瞬間、渡りに船のような感覚を抱いた。神や仏を信じてはいないが、人間を超越した何かに意図的にこの機会を与えられたような、そんな気がした。

 だが、ホームに降りようとしたものの、ふとこの言葉を思い出した瞬間、彼の足は動かなくなってしまったのだ。


『あんたたちに何がわかるっての? 幸せいっぱいのあんたたちに何がわかるっての? 柴崎泰広やあたしが見てきたような地獄なんか何一つ知らないくせに』


 恵まれた環境で育ってきたという自覚は、西崎自身にも確かにあった。

 というより、他人からそういう目で見られることに嫌悪感を抱き続けていたからこそ、彼は一日も早い自立を願ったし、そのための努力は惜しまなかった。親の威光と全く関係ない職業を目指したのも、そうした見方から解放されたい思いが強かったからだ。

 だが、努力したにもかかわらず、結局、西崎はそこから完全に逃れることはできなかった。

 今回、彼は進路に関して両親と率直に意見を交わした。そこで親から示されたのは、大学の受験をしない代わりに、フランスにある製菓学校に入学するという代案だった。海外留学には多額の費用がかかり、それは当然親が負担することになる。親からの完全な自立を目指していた西崎は当然難色を示したが、フランスでの修行に関しては心が動いた。その案を最初に提示したのが他ならぬ坂田シェフだったということも、彼の決断に大きな影響を与えた。結果、学費は「親から借金する」という形をとり、独立して収入が安定したら返済を開始するという条件で、最終的に彼はその提案を受け入れたのだ。

 自立した進路を選択したかった彼としては、いくら将来的に返済するとはいえ、かなりの部分で親の経済力や社会的地位に依存せざるを得ない結果になったのは不本意だった。とはいえ、本場フランスで修業できる、しかも他ならぬ坂田シェフの学んだ学校に通えるという、彼にとっては当初予想もしていなかった嬉しい結果に落ち着いたわけで、そのきっかけを与えてくれた柴崎には感謝していたし、何らかの形でこの恩に報いたいとも思っていた。

 だが、あの言葉を聞いてから、果たしてそんなことが自分のような人間に可能なのか、自信が持てなくなってしまったのだ。


『羨ましいよなおまえ。親なし住居つき生活できて』


 いつか、何の気なしに柴崎に投げた言葉が、西崎の脳裏に針のように突き刺さる。

 あの時、西崎は素直にそう思った。もちろん、完全に保護者のいない状況で生活費を稼ぎ、家事をこなしながらの通学はたいへんだろうとは思ったが、西崎自身も家事には自信があったし、仕事をしながらの通学だって、やろうと思えばできるだろうと軽く考えていた。その点についてはその通りだったかもしれない。だが、保護者という後ろ盾の必要性は、日常の生活とは全く違う場面で大きな意味を持ってくるのだ。

 例えば、柴崎が西崎のように海外留学の夢を抱いたとして、それが可能かといえば、現状では不可能だと言わざるを得ない。留学にはまとまった資金が必要になるからだ。借金をすることができたとしても、そこには多額の利子がつく。返済には期限もあるだろうし、社会的に成功できなかったとしても支払いの義務は消えない。同じ借金でも、親から借りるのとはわけが違うのだ。

 高校生一人の力で将来を切り開くには、経済的にも社会的信用においても、難しい部分が多すぎる。どんなに能力があろうが、保護者などの後ろ盾の力を借りなければ達成できないことはあまりにも多い。海外留学に際し、その事実を嫌というほど思い知らされた今、世の中をなめきった甘い言葉を、現実の厳しさに日々直面している相手に向って投げつけた自分の浅はかさが、西崎は情けなかった。今、柴崎がなんらかの窮地に追い込まれているとして、そんな情けない自分が彼の力になりうるだろうか。力になろうとしたところで、また的外れなことをして、彼を傷つけるような結果になりはしないか。次々に不安が膨らんで、楽天的な西崎にしては珍しく、次の一歩が踏み出せない膠着こうちゃく状態に陥っていた。

 足元に目線を落として小さく息をついた時、車内放送のスイッチが入るカチリという音が響いた。


『お待たせいたしました。間もなく発車できる見通しです。ご利用のお客様は、車内にてお待ちくださいますようお願い申し上げます』


 電車が動き出すとわかっても、西崎の足は動かなかった。重い気分に支配され、体を動かすことが億劫おっくうになっていた。ケツポケの携帯が着信を知らせて振動したが、それを見る気も起きなかった。きっと自分は、このまま漫然と自宅に帰るんだろう。そうして、あいつの窮地も忘れて、ぬるま湯のような日常に埋没していくんだろう……そこはかとない絶望感に苛まれながら、西崎がぼんやりと目線をホームに投げた、その時。


――え?


 なにかあり得ないものを見た気がして、いったん通過しかけた視線を、慌ててその場に引き戻す。

 ホームの向かい側にたたずむ誰かが、じっと自分を見ていることに気づいたのだ。

 年のころは西崎と同じくらいだろうか、どこかの高校の制服を着ている。赤いネクタイに紺ベースのチェックスカート、ベージュのベスト。背中まで届く真っすぐで長い髪が、夜風に緩やかになびいている。胸のあたりで両手を祈るような格好で組んでいて、何を訴えかけているのか、まっすぐに自分を見つめている。

 その顔に、西崎は確かに見覚えがあった。

 記憶の中にある彼女よりはずっと大人びていたけれど、あれは絶対に彼女だと、西崎はなぜだか確信できた。

 彼女は祈るように組んでいる両手を、西崎に向かって、まるで誇示するかのように差し出した。その手には、何かが握られている。食い入るように自分を見つめる大きな瞳から、耐え切れなくなったようにあふれた涙が、白い頬を転がり落ちる。 

 その時、完全に機能停止して凍り付いていた西崎の耳に、能天気な発車メロディが響いてきた


『二番ホーム、発車いたします。扉が閉まります、ご注意ください』


 無感情なアナウンスが響いた瞬間、気がつくと、西崎はホームに飛び降りていた。

 扉が閉まり、走り去る電車が巻き起こす風に前髪を散らされながら、彼女が立っていた場所に目を向ける。

 だが、そこには、誰もいなかった。

 慌てて周囲を見回すも、人影がまばらなホーム上のどこにも、彼女と思しき姿は見当たらない。

 ぼうぜんとホームの真ん中に立ち尽くしながら、西崎は、先程の彼女の様子を思い返していた。

 両手で何かを誇示するように差し出しながら、涙を流していた彼女。その手に握られていたのは、確か……。


――……携帯?


 彼女が交通事故で亡くなったのを知ったのは、五月の半ばごろだった。

 もう一度会いたいという思いを抱き続けていただけに、それを知った時、西崎はかなりのショックを受けた。何をする気力もうせて、翌日は学校も休んだ。落ち込みを周囲に気取られこそしなかったものの、その後も長くダメージを引きずり、アヤカに打ち明け話をしたあたりで、ようやく切り替えがついた感じだった。線香をあげに行こうかと考えたこともあったが、彼女が死んだ事実を直視したくない気持ちがあるのか、いまだに足を運べていない。

 その後悔の気持ちが、あんな幻を見せたのだろうか。だが、幻というには、あまりにも現実みがありすぎた。実年齢にふさわしく成長した姿で、しかも、いかにも何かを訴えかけるように、携帯までさし出して……。


――携帯で、何を訴えていたんだろう……? 


 おぼろげな記憶を手繰り寄せ、彼女の手に握られていた携帯の形状を思い返すうち、その大きさや色合いに見覚えがあることに気がついてハッとした。


――あれは、……柴崎の、ガラケー?


 ある予感にとらわれて、西崎はケツポケのスマホに手を伸ばした。ついさっき、着信の振動を感じた気がしたのだ。

 携帯を手に取ってスリープ状態を回復すると、確かにメールが一件着信している。表示されている差出人の名前にハッと息をのむと、急いで着信メールを開く。食い入るように画面に見入る西崎の目が、さらに大きく見開かれる。

 次の瞬間。西崎ははじかれたように、改札に向かって全速力で駆け出していた。右手に握りしめたスマホもそのままに階段を駆け下りていく彼の姿は、あっという間に階段下に消え、見えなくなった。

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