108.違うなら、生きてよ!
【は? ダメって……なにそれ。意味わかんない】
顔の引きつりを抑えながら問いただしてみるも、返答はない。冗談かとも思ったけど、あたしを見上げる柴崎泰広の目があまりに真剣で、こんな限界状態で冗談もクソもないよなと思い直し、呼吸を整えて向き直る。
【助けを呼ばないとヤバいなんてのは、あんた自身が一番よくわかってるはずだよね? 理由は何? あるなら、ちゃんと説明……】
ふいにとんでもない推論がひらめいて、思わず息をのんだ。
【……っと待って。まさかってあんた、この期に及んで、まだ死にたいとか言うつもりじゃないよね?】
柴崎泰広は黙っていた。あたしの視線を避けるように、わずかに目線もそらす。その肯定感まる出しの反応に、一瞬、相手が瀕死の重傷を負ってるという事実が、頭から飛んでしまった。
【はあ? そんな気持ち、とっくの昔に乗り越えたんじゃなかった? 死にたくなくなったって、あんた、何度も言ってたじゃん。あれ、全部ウソだったってわけ?】
柴崎泰広は目を丸くすると、慌てたように否定してみせる。
「いや、ウソじゃ……」
【結果的にウソじゃん! 助けを呼ぶなってそういうことだよね?】
黙り込んだ柴崎泰広にブチ切れて、思わず不安の核心をぶつけてしまった。
【つまり、あたしが必死でやってたことなんて、あんたにとっては、何の意味もなかったってことなんだよね?】
柴崎泰広は表情を凍らせた。
「そんなこと、……」
【意味ねえじゃん! 何も変えられてないし、何の役にも立ってないんだから。全部あたしの勝手な自己満足だったってことだよ!】
「違う」
【違くない!】
ゆがんだ口元が勝手に震えて、目から水分があふれてくる。ああもう、感情のコントロールができない。
【何が腹立つって、その自己満足で役に立たない行動を、あたしはずっと、あんたの命を食べる言い訳にしてたってことなんだよ。最低じゃん。害悪すぎる……】
まるで堰を切ったかのように何かが突き上げてきて、あとからあとから言葉があふれて止まらない。
【あたし、あんたと生きて初めて、生きるのが楽しいって思えて、実は結構、あんたに感謝もしてたんだ。だから、何か、ひとつでもあんたの役に立って、恩返しできればって、そう思って……】
ぼやけてかすんだ視界の柴崎泰広は、大きくその目を見開いたようだった。
【それであんたが少しでも生きやすくなって、生きたいって思えるようになってくれたら、無価値なあたしの人生にも、多少は意味が生まれるのかもって、そんな気がして……あたし的には、結構がんばったつもりだったのに……】
うつむいた拍子に、目元にたまっていた水分がパラパラと足もとに落ちる。けど、この世のものではないあたしの涙は、床に跡を残すこともなく消えた。まるで、この世に生きた意味を残せない、あたしの存在みたいに。
【マジで意味なかった。何の役にも立てなかった。あたしみたいな無価値な存在に、なにができるわけもなかった……】
ケガをしているにもかかわらず、柴崎泰広は必死の形相で首を横に振ってみせる。
「違う……」
【違うなら、生きてよ! 死にたいなんて言うな!】
叫ぶようなあたしの送信に、柴崎泰広は語尾を飲み込んで固まった。
【あたしは自己中だから、あんたが死にたかろうが何だろうが、そんなの正直どうでもいい。あたしはあんたに生きてほしいの! 生きて、あたしの命の価値を証明してほしいの!】
そう。こんなのは、自己中なあたしの願望。あんたのためでも何でもない、あたし個人の勝手な押し付け。
【生きて、いろんな経験して、いい思い出を作って、じいさんになって、「生きるのもそんなに悪くなかった」くらいのことを言えるようになってほしいの! そうしたらあたしの命にも、少しは意味があったって証明になるから……こんな薄暗い玄関で、あたし一人にみとられて、こんな理不尽な死に方で一生を終えるとか、そんなの、あたしは絶対に許せない!】
送信を送りまくったせいか頭が痛い。呼吸を整えてから、玄関の方に目を向ける。
【……てことで、やっぱあたしは、自分の勝手な願望をかなえるために助けを呼んでくる。あんたが死にたかろうが何だろうが、そんなの正直どうでもいい。これは百パーセント、あたし自身の勝手な自己満足のためだから】
言い捨ててきびすを返したあたしの背中に、泡を食ったような柴崎泰広の叫びが追いすがる。
「絶対にダメだって! 彩南さんの気持ちはわかったけど、それだけは、絶対にダメ!」
【知るか、止めたってムダ……】
送信しながら横目で後ろを見やって、息をのんだ。柴崎泰広が、首から血だらけの手を離し、その手を床について立ち上がろうとしていたからだ。
【……は? ちょちょちょちょっとあんた、なに考えてんの? その傷で立ち上がるとか、マジでやめて! 冗談じゃなく死ぬから!】
慌ててきびすを返して駆け寄ると、柴崎泰広はホッとしたように表情を緩め、動きを止めた。
【ちょっと、早く傷口抑えて、ここに寄りかかって座って……って、なんでここまでむちゃすんの? そうまでして死にたいってこと?】
焦りまくったあたしの問いかけに、柴崎泰広は再び傷口を押さえながら、小さく首を振った。
【じゃあなんでこんなマネすんの? 助けを呼ぶなんてある意味当然のことで、そこまで必死になって止める必要ないよね? 何がそんなにいけないの? マジで意味わかんないんだけど】
柴崎泰広はゲタ箱に寄りかかり、疲れ切ったように息をつくと、ささやくように答えを返した。
「……彩南さんを、他人の目に、さらしたくない」
【? そりゃ、助けを呼ぶためには、他人に声かけなきゃダメだけど……それの何がいけないっての?】
柴崎泰広は薄く目を開くと、横目であたしを見上げた。
「……消滅する」
【は?】
「他人に存在を知られたら、消滅するって……確か、三途の川で、言われたよね……」
――三途の川。
その途端、あの三途の川で渡し守のばあさんに言われたあの言葉が、鮮明によみがえった。
『ただし、他者にその事実を知られたり、悪用したりする場合はもちろん、三途の川の存在を明かしただけでも即刻共用者の魂は三途の川へ引き戻され、輪廻転生の可能性を失って消滅する』
【……そういえば、言われたっけねそんなこと。たださ、あたしもうすでに、鬼畜野郎に送信攻撃しちゃってるんだよね。それでもまだ消滅してないってことは、案外、基準が緩いんじゃん?】
いくぶん明るい見通しを提示してみるも、柴崎泰広は厳しい表情で小さく首を振った。
「あの男は、あれが『彩南さん』の送信だとはわかっていなかった。でも、相手に姿を晒したら、確実に存在が知れる。どう考えても危険だ。輪廻転生の可能性を失うって、完全にこの世から存在が消えるって事なのに……」
【輪廻転生とか、そんなマンガみたいな話……】
「彩南さんがここにこうしていること自体、マンガみたいな話だし」
二の句が継げなくなったあたしを後目に、柴崎泰広は言葉を切ると、肩を揺らして呼吸を整えた。
「僕だってそんなこと、信じたくはない。でも、もし万が一、渡し守の言うことが本当だったら……助けを呼ぶ行為は、あの禁止事項そのままだ。絶対に、やっちゃダメだ」
【いや、でもさ……、目的が目的なわけだし、仕方ないっていうか……】
しどろもどろに言い返しかけた時、ふいに、柴崎泰広が鬼畜野郎にハサミで刺された、あの瞬間が頭をよぎった。
あの時、柴崎泰広は確かに、鬼畜野郎の背に飛びつこうとしたあたしを見ていた。そして突然、鬼畜野郎を押し返していた手の力を抜いたんだ。
……あれは、もしかして。
【……っと待って。まさか、あの時あんたがハサミで刺されたのって、もしかして、あたしが鬼畜野郎に飛びついて、自分の存在を知らせようとしたから……?】
柴崎泰広はその問いかけには答えず、斜め下に目線をそらして言葉を続けた。
「仕方ないとか、軽く考えないでほしい。存在の消滅って、完全にこの世から消え去るってことだから。そんなことになったら、この先、何度輪廻転生を繰り返そうが、彩南さんに会える可能性が完全になくなる。そんなのは、僕は、絶対に嫌だ」
――え?
言葉を飲み込んだあたしの様子に気づくこともなく、柴崎泰広は自問自答モードでブツブツつぶやき続けている。
「僕の命の砂なんか、残ってる可能性の方が少ない。そんなわずかな可能性に賭けたせいで、彩南さんの存在が、この世から完全に消えるとか……そんなの、本末転倒すぎる」
柴崎泰広は唇を震わせると、突然、耐え切れなくなったように、ため込んでいた思いをぶちまけた。
「たとえ今死んだとしても、いつかどこかの、生まれ変わった先で、僕は絶対にもう一度、彩南さんに会いたい!」
その言葉が耳に届いた、刹那。
周りのもの全てが、一瞬、消えてしまったような錯覚にとらわれた。
薄暗い古家も、床も、天井も、音すら消えて、あたたかな光で満たされた何もない空間に、二人きりで向かい合って浮遊しているような、そんな感覚。
爆速で脈打ち始める心臓をなだめ、必死で呼吸を整えて、ぼやけはじめる視界を高速の瞬きで修正する。
感情の堤防が決壊したのか、柴崎泰広はあたしの変化に気づく様子もなく、独り言のように言葉を続けた。
「本当はこのまま、彩南さんと生きていきたい。でも、それが無理なら……もし本当に、輪廻転生があるんだとしたら、僕は、生まれ変わってもう一度、いつかどこかで彩南さんに会える可能性に、賭けたい。限りなく低い確率でも、ゼロじゃない限り、希望はあるから……でも、存在ごと消えてしまったら、その希望すら無くなってしまう。そんなのは、絶対に、嫌だ」
柴崎泰広はそこまで言うと、息を切らしながらあたしを見上げて、心なしか悲しげな笑みをうかべた。
「もし、いつか本当に生まれ変わって、また彩南さんに出会えたら……その時は、お互いにちゃんと体があって、クマるんになんか入らなくても普通に話せて、普通に触れられる状態で……そうしたら、その時こそ、僕は……」
柴崎泰広は突然声を詰まらせると、苦し気に体を揺らして咳き込み始めた。体調を無視して長くしゃべり過ぎたせいだろう。血しぶきが飛び散り、語尾が立ち消え、最後の方はなんて言ったのかわからなかった。
咳き込む柴崎泰広を見下ろしながら、あたしの頭の中では、柴崎泰広が発した言葉が、何度も、何度も、よみがえっては消えてを繰り返していた。
半ばぼうぜんとしながら、引き寄せられるように柴崎泰広の傍らに膝をついて座る。波打つ背をさすろうと、そっと右手を添える。でも、カゲロウのように質量のないあたしの手は、柴崎泰広の背に触れた途端、霧のように溶けて消えてしまった。
瞬間。頭に冷水を浴びせかけらた気がして正気に戻った。
そうだ。どんなに一緒に生きていたくても、コイツがどれだけあたしを大切に思ってくれたとしても、今のあたにしは、苦しんでいるコイツの背をさすることすらできないんだ。
気配を感じたのか、柴崎泰広は咳を収めると、息を切らしながらあたしを見上げた。思いのほか近い位置に顔があったせいか、驚いたように目を丸くする。その顔を見た途端、なんだか胸がいっぱいになって、無意識に体が動いた。両腕を伸ばし、覆いかぶさるような格好で、血だらけの体を両手で抱きすくめる。
息を飲むような気配がしたけれど、反応に構わず目を閉じる。あたしの頼りない両腕は、柴崎泰広の肩に触れた瞬間、溶けるようにその存在を失ったけど、頬のあたりに感じる彼の呼吸が心地よくて、そのままの格好でしばらく動きを止めていた。
柴崎泰広も動かなかった。あまりにも思いがけない行動だったらしく、体を離しても、ぼうぜんと口を半開きにしてあたしを見ている。
その頓狂なツラを網膜に焼き付けながら、万感の思いを短い言葉に込めた。
【……ありがと、柴崎泰広】
反応はない。というか、完全に固まって微動だにしない。
大丈夫、わかってるよ。何を言えばいいかわからないんだよね。全く、恋愛未経験者はしょうがないな。ここは上級者のあたしが、にっこりほほ笑みかけてあげる。ほら、これでもう、余計な言葉はいらなくなった。代わりに、必要なことは、あたしが全部言ってあげるよ。
【あんたの気持ち、よくわかった。消えてほしくないって思ってくれたことも、もう一度会いたいって思ってくれたことも……そのくらい、あたしの存在を必要としてくれたってことだよね。なんか、もうそれだけで十分っていうか、あたしがこの世に存在してた意味、あったのかもしんないって思える】
本音を言えばこれから先も、あたしを必要としてくれてるあんたと、ずっと一緒に生きていたい。助け合って、いっぱい話をして、いろんな経験をして、怒ったり、泣いたり、ケンカもするかもだけど、二人で、ずっと一緒に、最期まで。
けど、現実問題、あたしはあんたの背中をさする程度のこともできない存在。これから先、あたしがあんたにしてあげられることなんて、実際のところ、ほとんどないに等しいんだよ。
だったらあたしは、今、恐らくあんたの人生最大のこの難局で、こんなあたしでもできる限界ギリギリの最大最高を、あんたにあげたい。
【でもさ、あんたはわずかな可能性って言うけど、そんなの、やってみないとわかんないよね?】
「……え?」
不穏な気配を感じたのか、柴崎泰広は眉をひそめてあたしを見た。
その猜疑的な視線をはね返すべく、再度にっこりほほ笑みかける。
【あんたの命の砂がどれだけあるかなんて、そんなの誰にもわかんないってこと。ひょっとしたら、まだたくさん残ってるかもしれないよ? てか、命の砂の量は決まってるって言うけど、あたしは違うと思う。運命は、自分でつかみ取りに行くもんだと思う。つまり、その人の行動次第で、砂の量だってきっと変わる。だから、あたしは最後まで諦めたくない。限界まであがいてつかみ取りたい。それでもだめだったらあきらめるけど、何もやらずに最初っから勝負を投げるなんて、そんなの、あたしの信条に反する】
送信を切り、一呼吸おいてから、ぼうぜんとして動けずにいる柴崎泰広をまっすぐに見つめる。
【でないと、あたしはきっと来世でも永遠に、あんたの命を無駄に食べて早死にさせたって後悔すると思う。そんな後悔まみれの来世を生きるくらいなら、どんなに可能性が低くても、今あたしが一番やりたいことを、悔いのないように精いっぱいやっておきたい】
だってあたしは、あんたに生きてほしいから。
その望みだけは、何があろうが絶対に譲れない。
微動だにできずにいる柴崎泰広ににっこりほほ笑みかけてから、立ち上がる。
【……てことで、悪いけど、行かせてもらうよ。てか、早くしないとあんたの顔、真っ白だし、マジでヤバいと思う。大丈夫、心配しないで、そこで待ってて】
軽く手を上げてきびすを返し、玄関扉に向かうあたしの背に、柴崎泰広の悲痛な叫びが追いすがる。
「行かないで! 行っちゃダメだ!」
ゴメン。言うべきことは全部言ったし、悪いけど、もう立ち止まらないよ。
すべるように廊下を抜け、たたきに下りて扉に手を伸ばしたあたしに、柴崎泰広の必死の言葉が、くさびのように突き刺さった。
「僕の運命を変えるなら、彩南さんがやっちゃダメなんだ!」
【……は? あたし以外、他に誰が……】
虚を突かれて思わず振り返ったとたん、呼吸が止まった。
柴崎泰広は、再び首を抑えていた手を外し、ゲタ箱にすがりつきながら立ち上がろうとしていた。出血が音を立てて板の間に滴り落ち、足元には、大きな血だまりができている。
あまりにも凄惨な絵面を見せつけられたショックで、体が凍り付いてしまった。
【ちょっと、……何やってんの!?】
柴崎泰広は汗だくになりながら、前髪の隙間からあたしを見た。
「僕の、運命を、変えるって、いうなら……それをやるべきは、彩南さんじゃなくて、僕だ」
言いながら、ゲタ箱にすがってよろよろと立ち上がり、周囲を見回しはじめる。
【何言ってんの、そんな状態で……】
「自分がやらない限り、運命が変わるとは、思えない」
言いながら、柴崎泰広は玄関わきに固めて置かれている荷物の山に目を向ける。その途端、意識が遠のいたらしく、がくりと体が崩れ落ちた。
【! もうやめてったら、マジで死んじゃうよ!】
全身に寒気が走り、叫ぶような送信をたたき付けながら、たまらず柴崎泰広の傍らに走り寄る。柴崎泰広は目を閉じていたけれど、あたしがそばに来たのを知ると、薄目をあけてあたしを見た。
「……手伝って、もらえる?」
【え? 手伝いって……何をすればいいの?】
「携帯の、電池……探して、ほしい」
その言葉で、柴崎泰広が何をしようとしていたかわかった。携帯を使って、自分で外部に連絡を取るつもりなんだ。
【……わかった。探すから、あんたはそこにじっとしてて】
実体のないあたしでも、在りかを探すことくらいはできる。大慌てで玄関中を駆け回り、荷物の間を探して見ると、ほどなく、柴崎泰広から離れた荷物の山の間に、電池が入り込んでいるのが見つかった。
【あった、あったよ!】
電池は、柴崎泰広が座り込んでいる場所のちょうど反対側の荷物の山にある。柴崎泰広は体を起こすと、四つんばいで廊下を移動し、あたしが見つけた電池を荷物の隙間から掘り出した。血だらけの手でそれを握りしめると、今度は玄関のたたきに転がっている携帯の方に、四つんばいで進み始める。柴崎泰広のはったあとには、こすれたような血の跡が、ナメクジのはった跡のように残っていった。
その悲痛な光景を眺めながら、あたしは何もできなかった。つらくて、苦しくて、蛇の生殺しに遭ってるみたいな感じだったけど、それでもできることは何もなかった。こんな罰ゲームを受けるくらいなら、輪廻転生の可能性を失おうが何だろうが、今すぐ外に出て、自分の姿を他人にさらして助けを呼んでしまった方が百万倍マシだと思ったけど、でも、確かに、柴崎泰広の言うとおり、自分でやらなきゃ砂は増えないかもしれない。何より、自力で運命を変えようとしている柴崎泰広の思いを踏みにじりたくない。
結局、死んだ人間のあたしには、根本的に事態を変えられる力はないっていうか、そもそも、変えちゃいけないんだ。見守ることしかできない。あのとき、あの公園で、結月自身の決断を見守ったときのように。
あたしとコイツとの間に厳然と横たわる断絶の深さを思い知らされた気がして、涙があとからあとから、勝手にあふれ出てきて止まらない。
柴崎泰広は上がり框にたどり着くと体を起こし、そこにやっとのことで腰かけた。それから、たたきの真ん中に落ちている携帯に手を伸ばす。が、玄関の端に落ちている携帯には到底届かない。柴崎泰広は小さく息をつくと、上がり框に腰かけていた尻をたたきに落とし、冷たいたたきに座り込んだ。震える手をいっぱいに伸ばして携帯を拾い上げ、裏蓋の外れた携帯に電池をはめ込み、親指で電源を押す。画面が明るく光り、暗く冷たいたたきの上で、血で薄汚れた柴崎泰広の顔が一部分だけ明るく照らし出された。
「彩南、さん……」
起動画面が切り替わり、通話できる状態になると、柴崎泰広がかすれた声であたしを呼んだ。
【……え、何? なんかやること、ある?】
慌ててたたきに飛び降りて顔をのぞき込むと、柴崎泰広は、荒い息の間から、かすれた声で途切れ途切れに言葉を返した。
「目が、霞んで……、画面が、よく、見え、ないから……」
【わかった。ボタンを押す場所、教えるね。音声通話? それとも……】
「しゃべれ、ないから……メールで。可能そうなら、通話も……」
無理をしたせいか、先ほどより明らかに状態が悪くなっている。押し寄せる不安感を必死ではねのけながら、押すべき場所を指で示すと、柴崎泰広は震える指でなんとかそれを押した。メール画面にし、西ちゃんのアドレスを呼び出し、文字を入れる。長い文章を書ける状態とは思えなかったから、端的に危機的状況が伝わる一言を入力させて、送信ボタンを押すと、送信完了を知らせる能天気な音が、薄暗い玄関先に鳴り響いた。
【できた……】
柴崎泰広は大きく息をつくと、意識が途切れたのか、力尽きたように携帯をとり落とした。ゾッとして、慌てて顔をのぞき込む。
【ちょっと……柴崎泰広、しっかりして! まだ終わってないよ? 救急車、呼ばなきゃだから! 目を開けて!】
辛うじて意識は戻ったらしい。柴崎泰広は薄く目を開いた。
【しっかりして。押す場所、教えるから。119って押して、かけるだけでもいいから……】
柴崎泰広は、目だけを動かして携帯を探す。だが、取り落とした拍子に、携帯は玄関の端に転がっていってしまっていた。やっとのことで右手を伸ばすも、腰を浮かせて大きく体を動かさない限り、とても届きそうにない。柴崎泰広の表情に、落胆の色がにじんだ。
「無理、かも。ゴメン……」
絶望を振り払うべく必死で首を横に振り、できるだけ明るい表情を作って言葉を返す。
【……なに謝ってんの? 大丈夫だって、西ちゃんに連絡出来たんだから。あんたは自分でやれたんだよ。あたしは何にもしてない。あんたは一人で、ちゃんと自分の力で生きようとしたんだよ! 偉いって!】
勝手ににじんでくる涙と鼻水をぬぐいながら、あたしがコイツに直接与えられる唯一のもの、「言葉」で気持ちを保たせようと試みる。ダメかもしれない、間に合わないという暗い予感を打ち消したくて、とにかく前向きな言葉を探して並べ立てる。
【大丈夫、ここまでがんばったんだから、絶対に運命は変わるよ! 命の砂だって、めちゃくちゃ増えたはずだよ! あんたはこれからも、ずっと生きる。じいさんになるまで、絶対に生きるから、安心して。あたしが保証する!】
柴崎泰広は、閉じていた目を薄く開いた。それから、あたしの顔をみて、心なしか悲しげな笑顔を浮かべた。
「わかってる。僕は、生きる……約束する。だから、彩南さんも、……消え、ないで……」
こんな状態になってまでそんなことを頼んでくる彼が切なくて、でも何を言えばいいかもわからなくて、ただもう必死でうなずいて見せることしかできないあたしを、柴崎泰広はしばらくは優しい目でじっと見つめていたけれど、やがて、静かにその目を閉じた。
【……柴崎泰広?】
答えはない。
思わず体をゆすぶろうと手を伸ばすも、あたしにそんなマネは不可能だ。
【しっかりして、柴崎泰広。目を開けて、お願い!】
顔をのぞき込みながら、きつい送信をたたき付けてみる。でも柴崎泰広は、ぐったりとうつむいた姿勢のままで動かない。
頭のてっぺんから足の先まで、一気に戦慄が走り抜けた。矢も盾もたまらず、誰か助けを呼んで来ようと立ち上がりかけた時、ふと、たたきの端に転がる携帯の画面が目に入った。そこには、先程の送信が完了したことを知らせるメッセージが表示されている。
触れることはできないけれど、何かにすがり付きたくて、思わず、その携帯を両手で包みこんだ。
――西ちゃん、お願い、気づいて!
あたしはすでに死んでいて、本当はこの世にいない存在だけど、何も多くは望まないけど、今、この瞬間だけ、コイツを助けられる奇跡みたいな力をください。命の砂を作った神様がもし本当にいるなら、この状況が見えているなら、ほんの少しでいいから、あたしに力を貸してください!
これまでの人生で、宗教とか、神様とかは一切信じたことがなかったけれど、あたしはこの時、確かに祈っていたんだと思う。