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107.目の前にいるってば

 何が起きたのかわからなかった。

 流れ落ちる玄関扉にビビり、とにかく慌てて視覚を閉ざし、音や触感だけを開いて、息を詰めた。


 じっと周囲の様子を探る。家が壊れたような気配はない。空気も動いていない。液体が足もとにたまっている感じもない。風もそよともふいていない。異常は何も感じない。

 つまり、今のはたぶん、あたし個人の感覚的な異常。思い詰めすぎて、自律神経とかがいかれたのかもしれない。神経ないけど。

 異常事態でないならよかったとホッとしつつ、取りあえず視覚を開こうとしたとき、自分の体の微妙な違和感に気づいた。

 クマるんの状態で視覚を閉ざす時はいつも、目を閉じる自分をイメージしている。ビーズの目玉は動かせないけど、イメージしないと視覚のみを閉ざすことができないから。だから視覚を開くときも、やっぱり目を開ける自分をイメージする。この時も、まぶたを開く様子をイメージしながら徐々に視覚をオープンにした。

 でもなぜだか今回は、やけにまぶたの重みや視界の上端に映る睫毛の存在をリアルに感じた。しかも、シバサキヤスヒロの肉体に間借りしていた時より、睫毛の密度が濃い気がする。

 違和感を覚えつつ視覚を開くと、目の前には先ほどと全く変わらない様子の玄関扉があった。溶け落ちた形跡もない。

 やっぱり単なる個人的な感覚異常だったとホッとしつつ、先ほどの作業を再開しようとした、その時。

 視界に、白くて細い指先と、シンプルだけどきれいに整えられた爪が入り込んできて、思わず動きを止めた。


――え?

 

 きれいな楕円形の長い爪と細い指先は、どう見ても柴崎泰広のものじゃない。慌ててあたりを見回そうとして、顔周りを撫でるサラサラした感触に心臓が跳ねた。同時に嗅覚をかすめる、懐かしい愛用のシャンプーの香り。

 あり得ない予測に、胸の中心で跳ね回る心臓の存在を感じながら、恐る恐る足元に視線を落とす。

 身に着けている、ベージュのセーターと紺ベースのチェック柄スカート。そこから伸びた細めの足と、紺色のソックス、こげ茶のローファー。あまりにも見覚えのあるその足に、心もとない予測が現実に変わる。


――でも、そんなこと、あるはずがない。だってあたしは、……。


 否定しようと試みたけれど、クマるんの時には見上げていたはずの真鍮のノブが目線よりはるかに下にあり、足元には、ついさっきまで抱えていたはずの携帯と、自分が入っていたはずのボロボロの編みぐるみが転がっていて、どう考えても否定のしようがなくなって、苦しいほど呼吸が浅く早くなって、その場にぼうぜんと立ち尽くしてしまった。


――なんで?


 何が起きたかなんて、もちろんわかるわけがない。

 わかるわけがないけど、でも今、あたしが強くそう願ったのは確かで、その願いがかなって何らかの奇跡が起きたんだとしたら、大事なのはそれが起きた理由なんかじゃなくて、今の自分ならもしかしたら、目の前に凶悪な絶対感でそびえたつこの玄関扉を開けることができるかもしれないってことの方で。

 このドアさえ開けることができれば、一気に事態は好転する。心拍の二次関数的上昇にくらくらしながら、ドアノブに手を伸ばす。真鍮の冷たい感触の記憶が手のひらによみがえり、倍速の拍動にめまいを覚えた、次の瞬間。

 あたしの白い指先は、吸い込まれるようにドアノブの中に消えた。


――は?


 慌てて左手を被せるようにして添えてみる。が、左手も右手同様、溶けるようにノブの中に吸い込まれ、突き抜ける。

 こんな光景を、ドラマか映画で見た気がする。

 幽霊は、姿は見えども実体はなくて、現実世界のものに触れたり変化を加えたりすることができないって話。

 そういえば確かに、白い指先の存在感は心もとなくて、角度によってはふっと向こう側が透けて見える時がある。

 落胆で、目の前が真っ暗になった。


――ダメじゃん。


 こんなんじゃ、元の自分になったって何の意味もない。一瞬でもワクワクした自分がバカすぎて、おもわず深いため息が漏れた。


「あの……」


 背後からかすれた声が聞こえた。

 ドアノブから手を離して振り向くと、頭を壁にもたせ掛け、戸惑ったような表情であたしの方を見ている柴崎泰広と目が合った。


「……誰?」


 慌てて言葉を返そうとしたけれど、喉からは何の音も出なかった。この世のものではない以上、たとえ視覚的に肉体が見えても、空気を振動させて音を発するなんて芸当はできないってことなんだろう。ドアノブをつかめなかったのと同じように。

 でも、この姿なら上がりかまちは難なく越えられる。履いているローファーは足に吸い付いたようになってて脱げなかったので、靴を履いたまま玄関先に上がりこみ、壁際の柴崎泰広に歩み寄った。

 目の前まで来て足を止め、覚悟を決めて、柴崎泰広を見下ろしてみる。

 首元を抑えていた薄いスカーフは完全に血に染まり、首元から左肩全体まで真っ赤に染まっていて、廊下にまで赤い雫が滴り落ちていた。血の臭いもきつく、相当に凄惨せいさんな絵面だ。気弱な女子なら卒倒してしまうかもしれない。さすがのあたしも衝撃的すぎて、数刻その場にぼうぜんと立ち尽くしてしまった。

 一方、メガネをかけていない柴崎泰広は、目の前に誰かが立っていることは辛うじてわかるものの、それが誰なのかは全くわからないらしい。戸惑いと警戒をにじませながら、かすれた声で問いを発した。


「あの……どちら様、……」


 答えを返そうと口をパクパクさせてから、音声が発せないことを思い出し、慌ててクマるんの時と同じように、送信での通話を試みる。


【いや、あたしだって】


「え?」


 突然の送信に柴崎泰広はポカンとした顔で固まってから、慌てた様子で目線を玄関の方に投げた。


「あ、彩南さん? どこに……」


【目の前にいるってば】


「目の前……?」


 柴崎泰広はきつく眉根を寄せ、目を細めてあたしをじっと見てから、やがてその目を大きく見開いた。


「……まさか」


【あたしもまさかと思ったんだけど、どうやらクマるんから意識が抜けて、幽霊みたいになってるっぽい。まあ、元に戻ったっつっても姿形だけで、物には触れないし、玄関扉もあけれないし、マジ使えねえっつーか意味なさすぎなんだけど……あ、でも、さっきすっ飛ばした携帯の電池を探すことくらいはできるかもしれない。今から……】


「幽霊……」


 柴崎泰広は数刻まじろぎもせずあたしの顔を見つめていたけれど、ややあって、かすれた声を発した。


「……ゴメン、よく、見えないんで、もう少し……」


【え? あ、うん。かがめばいい?】


 慌てて膝に手をつき、腰をかがめて顔を覗き込む。

 柴崎泰広は何を言う余裕もないのか、目の前に立つあたしをただ黙って見上げていたけれど、ややあって呼気まじりの短い問いを発した。


「マジで……彩南さん?」


【いや、そうだけど……】


「……なんで?」


【なんでと言われても……三途の川の神様のいたずらだかなんだか、あたしにもよくわかんないんだけど、……そういえば、あの時三途の川で言われたのは『魂は肉体から離れて二十四時間たつと消滅する』ってことだけで、魂が肉体から離れたら一分一秒存在できない、とは言われてなかった気がする】


「魂……」


【うん。もしかしたら今のあたしは、幽霊っていうより、魂みたいな感じに近いのかもしれない】


 柴崎泰広は再び黙り込んだ。そのまま、まじろぎもせずあたしの顔を見つめている。至近距離から注がれ続ける熱い視線に耐えられなくなってきた時、ふいに柴崎泰広が頭を壁にもたせ掛けて目を閉じた。それから、絞り出すように呟く。


「……想像以上」


【え?】


 どういう意味かと問おうとしたあたしの言葉にかぶせるように、柴崎泰広はしみじみとした調子で言葉を継いだ。


「よかった……彩南さんが、クマるんで」


【は? 何それ、どういう意味?】


「その姿だったら、たぶん、普通に話せなかったから」 


【? なんで】


 柴崎泰広は乱れた前髪の隙間からあたしを見て、恥ずかしそうに笑った。


「僕、女の子と、話したこと、なかったから……緊張して、喋れないか、ヘンな態度とるか、してたと思う」


【は? いや、……何言ってんの? つか、あんたクマるん相手でも、十分ヘンな態度とってたと思うし……】


 訳もなくドギマギしながら言葉を返すと、柴崎泰広は「そっか」と小さく笑ってから、表情を改めて、じっとあたしを見つめた。


「ゴメン、彩南さん……もうちょっとだけ、近寄れる?」


【あ、うん。……わかった】


 十分近い位置にいるけれど、柴崎泰広の視力だと、確かにもう少し近づかないとはっきり見えないかもしれない。あんまり近寄るのも恥ずかしかったけど、瀕死ひんしの重傷を負っている相手からの頼みとあらば、断るわけにもいかない。

 あたしと柴崎泰広の距離は、五〇センチを切った。

 前方に足を投げ出して座る柴崎泰広に近寄るために、あたしは横合いから前かがみになって彼の眼前に顔を突き出している。顔の両脇を流れ落ちるあたしの真っすぐな髪は、体の微妙な動きに合わせて彼の太ももの上すれすれをなぞるように揺れた。

 柴崎泰広は肩で息をしながら、何を思ったのか、自分の足の上で揺れる髪に遠慮がちに手を差し出した。柴崎泰広の手が髪に触れたと思った瞬間、その手の周囲だけ忽然と髪が消え、手は虚空を空しく数十センチ移動したあと、力尽きたようにぱたりと床に下ろされる。

 柴崎泰広はそれでもなぜだか、さほど落胆した様子も見せず、まるで魅入られたようにあたしの髪に見入っていたけれど、やがて、ため息まじりに呟いた。


「彩南さんの、髪……きれい」


 その言葉が耳に届いた途端、拍動が加速度的に増して、柄にもなくうろたえてしまった。


【……あ、ま、まあね。美容院なんか半年に一回だったけど、そのわりにはキレイに保ててた方だと思うよ】


 焦りまくって妙な自慢の仕方をしてしまい、軽く自己嫌悪に陥るも、柴崎泰広はそんなあたしの様子に気づくこともなく、目を閉じて壁に頭をもたせ掛けた。


「よかった……」


【……何が?】


 目を閉じたまま、あたしの問いかけに答えるというより、独り言のように呟き返す。


「最期に、彩南さんの顔、見られて……」


 その言葉を聞いた途端、冷水を浴びせかけられたようにゾッとして、浮ついていた気分が一気に現実に引き戻された。そうだ、事態は一刻を争うんだった。こんなくだらない話をのんびりしている場合じゃない。


【……いや、最期とか不吉なこと言うのマジでやめて。あたしはあんたを死なせないって言ったはずだよ? その一念で幽霊化までやり遂げたんだから、絶対に何とかなる。まずは、携帯の電池を……】


 言いかけて、自分の手では携帯も電池も持つことができないことに気づいて、言葉に詰まった。そうだった。たとえ電池を見つけても、あたしはそれを携帯の中に入れることができない。そんなんじゃ、電池なんか見つけたってどうしようもない。時間の無駄だ。

 冷酷な現実を前にして、焦りと不安が頭を一気に覆い始める。


 だったらどうすればいい? 今あたしがすべきことは何?

 何をすれば、コイツの命を助けられる?

 なんでもすり抜けちゃって触れないあたしでも、何かできることはないの?

 

――何でも、すり抜ける……?


【そうか!】


 唐突に解決策が閃いた。なんでこんな簡単なことに思い至らなかったんだろう? いぶかしげにあたしを見た柴崎泰広に向かって、たった今思いついたことを興奮気味にまくしたてる。


【ドアノブですらすり抜けたってことは、玄関扉だってすり抜けられるはずだよね。なら、あたしが外に出て、助けを呼んでくればいいだけの話じゃん! 物には触れなくても、姿だけは見えるんだから、通行人の気を引くのくらいどうとでもなる。なんだ、むちゃくちゃ簡単な話だった。なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう】


 打開策を発見したことが嬉しくて仕方がないあたしとは対照的に、柴崎泰広はあたしがそう送信した途端、なぜだか表情をこわばらせた。


「……そんなこと、しなくて、いい」


【は? いいわけないじゃん。このままじゃあんたマジで死ぬし。大丈夫、あたしが必ず助けを呼んでくる。心細いかもしれないけど、少しの間、ここで待ってて……】


 できるだけ早く行動を始めたくて、努めて明るい調子で送信しながら慌ただしく腰を浮かせかけた、刹那。


「ダメだ!」


 送信をぶった切るように差し挟まれたその言葉の、普段の彼からは考えられないような強い調子に驚いて、浮かしかけた腰もそのままに、思わずその場で固まってしまった。

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