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106.あんたは絶対に死なせない

「彩南、……さん」


 ふいに、柴崎泰広の弱々しい声が聴覚に届いた。 

 ハッとわれに返って、あわてて玄関扉に背中をつけて背伸びをする。


【なに? どした? どこか苦しい?】


 壁に寄りかかって廊下に足を投げ出している柴崎泰広は、薄く目をあけると、横目でそんなあたしを見た。


「いや……傷口を、抑えたおかげで、少し、楽になった、かもって……」


【マジ? そっか、よかった……】


 明るい見通しなんて何もないんだけど、とりあえず状態が安定したって聞いただけでかなりホッとした。足の力が抜けておもわずへたり込みそうになるも、慌てて玄関扉に寄りかかって上体を支える。

 その拍子に、気が緩んだせいなのか、口に出さないようにフタをしていた思い――不安やら焦りやら後悔やら懺悔ざんげやら――が、思わずポロッとあふれ出してしまった。


【……ゴメンね】


 絞り出した送信は微妙に震えていて、まるで今にも泣き出しそうな感じで、その不安定さにわれながら驚いてしまった。


――なにコレ。いくら自分が不安だからって、弱り切ってる相手に向かって不安ですアピ-ルかますとかどんだけ? 


 遮断しなきゃと思ったけど、それでも、パンパンに膨れ上がった思いの圧が強すぎて、すぐには止められそうにない。


【あたしが、あんなクソみたいな挑発したばっかりに、こんな、とんでもな目に遭わせちゃって……】


――うっわ、なに言ってんの? 我ながらウザすぎ。


 抑えようもなく送信してしまってから、怒涛のような自己嫌悪が押し寄せてくる。

 そりゃ、今すぐ謝罪したいよ。許してほしいよ。たとえ許してもらえなくても、贖罪しょくざいの気持ちを言葉にするだけで、あたし自身は少しだけ楽になれる。でもさ、だからってこんな重い謝罪、血だらけで苦しんでる相手に向かってすべき事じゃないよね? 死にかけてる相手に、弱者ぶって甘えてすがるとか、自己中すぎてありえない。

 情けない自分に絶望しているあたしを、首を動かせない柴崎泰広は横目でじっと見ていたようだったけれど、ややあって、先程より少しだけ落ち着いた呼吸の合間から、かすれた声を絞り出した。


「彩南さんの、せいじゃ、ない……」


【……は? 何言ってんの?】


 思いがけない返しで動転したことと、あふれ出しそうな何かを必死で抑えていた反動で、つい、きつい調子で畳みかけてしまう。


【なにをどう考えたってあたしのせいじゃん! ムダにあおりまくって激高させて窮地に陥ったあげく、あんたに交代させて、こんな……】


「きっかけは、ともかく……こうなったのは、僕の、せいだから」


 言いながら、首を押さえている血だらけの手を少しだけ動かす。真っ赤に染まった手のひらがちらりと見えた途端、思考が凍り付いて言葉が止まった。

 暗い予感を振り払おうと、慌てて首を左右に振る。


【違うって! あたしがブチ切れて余計なことさえしなければ、あんたは……】


「あのとき、手が、離れたのは……、僕が、怖くなった、せいだから」


 思わず、語尾を飲み込んで柴崎泰広を見やる。

 柴崎泰広は、壁に頭をもたれて目を閉じていた。


【……怖くなった?】


 目を閉じたまま、小さくうなずいてみせる。


「彩南さんと、交代した時……頭が、パニックみたいになってて……自分が何やってるか、よくわかんなくて……怖さを感じてる、余裕もなくて……でも、彩南さんの言葉、聞いてるうちに、正気に戻って……そうしたら、急に怖くなって。気づいたら、手の力が、抜けてた」


 口の端で自嘲気味に笑うと、柴崎泰広は薄く目をあけてあたしを見た。 


「だから、彩菜さんの、せいじゃ、ない、……」


【……いや、でも、あたしがあれこれ送信したせいで、正気にもどって怖くなったって言うなら、それ、やっぱ、あたしのせいなんじゃ】


「違う」


【違わないって。あたしのせいで手の力が抜けたとか、最悪……】


「相手を、殺すよりは、……いいから」


 思わず、言いかけた語尾を飲み込んだ。


――殺しちゃダメって、騒ぎの最中、あたしは何度もこいつに叫んでた。……まさかって、こいつはあたしの意図をくんで、こんな状態になったっての? 


 全身の血が一気に引いた気がした。血なんか一滴も流れてないのに。

 傷害や殺人なんていう前科を背負ってしまったら、普通に人生は詰む。それはそのとおりだ。でも、だからって、こんな結果になるくらいなら、そんなのぶっちゃけどうでもよかった。命が失われてしまったら、それこそ全てが終わりなのに。命より大事なものなんか、他に何もないのに。

 ショックで反応を返せずにいるあたしをよそに、柴崎泰広は遠くを見るような目つきで天井のあたりを眺めながら、言葉を続けた。


「ていうか、僕の方こそ……ゴメン」


【は? なに、いきなり……】


 唐突な謝辞に混乱しているあたしに、柴崎泰広はダメ押しのような一言を投げる。


「もう……命の砂……分けて、あげられ、ない」


【……は? いや、マジでなに言ってんの?】


 思わず送信が裏返った。 


【この期に及んで、あたしがあんたの命の砂をほしがってるとでも? あたしはもうずいぶん前から、三途の川にもどる覚悟をきめてるってのに? 冗談じゃない、バカにしないでくれる? ていうか、命の砂がなくなるとか、勝手に決めつけんのマジでやめて。このあたしが、そんなことさせると思ってんの? あんたは絶対に死なせない。どんな手を使ってでも、あたしが絶対、あんたをこの世につなぎとめてやるから!】


 吐き捨てるような送信をたたき付けると、玄関扉に向き直る。そうだ、ショックなんか受けてる場合じゃない。なんとかして、一刻も早く、外の誰かにこの窮状を伝えないと!

 重い携帯をよろけながら抱え、体ごと扉に突進する。携帯と扉が衝突し、硬く鋭い音が響くと同時に、反動で携帯ごとすっ飛ばされて敷石にたたきつけられるも、すぐさま跳ね起き、再び扉に突進する。これをひたすら、何度も何度も繰り返す。偶然、家の前を誰かが通っていて、その人が、運よくこの音に気づいてくれて、異常を感じて、中に入ってきてくれることを祈りながら。

 柴崎泰広はそんなあたしを驚いたように見つめていたけれど、ややあって、おずおずと口を開いた。


「もう、ホントに……いい、から」


【いいとか、悪いとか、あんたが決められることじゃ、ないんだ】


 携帯ごと扉にぶつかりながら、途切れ途切れの送信を返す。


【死にたがりの、あんた的には、命なんて、どうでもいいのかもしれないけど……生きたがりの、あたし的には、絶対に、あんたを死なせたくないの。あたしが、勝手に、やってることだから、気にしないで、放っておいて】


「どうしても、聞いてほしい、ことが、あるんだ……」


 意外な返しに虚を突かれ、動きが止まった。

 携帯を抱えて振り返ると、壁に頭を預けた柴崎泰広は、横目であたしを見つめながら、ほっとしたように表情を緩めた。


「今なら、何とか、しゃべれそうだから……少しだけ、聞いてくれる?」


 余計なセンテンスを省きたいせいだろうか、柴崎泰広の口調からは、いつもの敬語が消えていた。


「言えるうちに、……どうしても、言っておきたいことが、あるから」


 まるで遺言のようなもの言いに、募る不安を打ち消したくて、前向きな回答を必死て探してまくしたてる。


【言っておきたいことって、もしかして、お母さんの指輪のこと? 大丈夫、あの男、慌ててたから置いていってる。台所の方に転がってるはずだよ。あとで絶対に確保しておくから、安心して……】


「そんなことじゃなくて」


 柴崎泰広はぼろ布で首をきつく抑え、痛みをこらえるように数刻呼吸を整えてから、口を開いた。


「彩南さんは、……母親あのひとの、代わりじゃ、ない」


――え?


 あるはずのない心臓が、大きく跳ねた。気がした。


「あの人と、彩南さんは、全然、違う……」


 返す言葉を見失って立ちすくんでいるあたしの聴覚を、柴崎泰広のかすれた声が優しくなでる。

 視界の上方に映る柴崎泰広は、微かに目を開いていた。でも、そのまなざしはあたしじゃなくて、どこか遠くを見つめているように思えた。


「あの人は、僕の望んだこと以外、何もしなかった。厳しいことを言わない代わりに、本当のことも言わない。弱みを見せたこともないし、助けを求めてきたこともない。あの人は、いつも僕を上から見下ろしていて、僕は、保護される立場でしかなくて……、あの人にとって、僕は、対等な存在じゃなかった」


 長文を一気に喋ったせいか、柴崎泰広は言葉を切って呼吸を整えた。それから、噛みしめるように再度、この言葉を繰り返す。


「彩南さんは、あの人とは、全然違う」


 その口元には、なぜだか、苦笑めいた笑みが浮かんでいた。


「痴漢には挑みかかるし、平気でウソもつくし、放っておくと暴走するし、あげく強姦しようとするし……、かと思うと、計算はできないし、道には迷うし、雑踏で動けなくなるし、……いつもハラハラさせられて、心配で、目を離せなかった」


 喜ぶべきかよくわからない相違点を指摘されまくって黙りこくるあたしをよそに、柴崎泰広は静かにひとこと、こう付け加えた。


「彩南さんは、何も隠さなかった。強みも弱みも、いいところも悪いところも、隠さず、正直に、自分の全部をみせてくれた」


 見上げた柴崎泰広は、肉体的苦痛に耐えているにもかかわらず、柔らかなほほ笑みが浮かべているように見えた。


「それに……キツくて凹んだこともあったけど、彩南さんは僕に、いつも本当のことを言ってくれた。彩南さんの目線は、僕と同じ高さにあって、僕を対等な存在として見てくれている、そんな気がした。それが、本当に、嬉しかった」


 柴崎泰広は目を開けた。

 首を動かせないうえに、メガネもかけていないから、玄関先のあたしの姿なんかほとんど見えないんだろうと思う。でも、横目で一生懸命、あたしを見つけようとしてくれているのがわかる。

 なんだか知らないけど胸がいっぱいになって、言おうとしていた言葉が全部奥に引っ込んでしまった。


「彩南さんのおかげで、生きるのが、楽しくなった。このまま、彩南さんと、ずっと一緒に生きていきたいって、そう思ってた……でも」


 あたしを横目で見つめる柴崎泰広の顔が、悲しげに曇った、刹那。

 上体が大きく波打ったかと思うと、激しい咳とともに、その口から鮮血があふれ出た。

 玄関の板の間に、鮮やかな赤い飛沫が音を立てて飛び散る。その絵面のあまりの衝撃に、頭の中が真っ白になった。

 柴崎泰広は、血みどろの左手を口元にかざしながら、口の端を自嘲的にゆがめた。


「もう、ムリ……みたいだね」


【ふざけんなバカ!】


 いきなり、タガが外れたように言葉が飛び出た。血だらけの柴崎泰広は、驚いたように動きを止める。


【ムリって何? あんたが死ぬってこと? 冗談じゃない。じゃああたしは何のために、奨学金申請したり大学受験勧めたり勉強つき合ったり、あんなに頑張ったわけ? あんたがこの先、長く安定して生きていけるようにやってたことなのに、死んじゃったら、全部ムダになっちゃうじゃん!】


 叫ぶような送信を発しながら、再び携帯を玄関扉に打ち付ける。何度も、何度も。弾かれては転がり、転がっては跳ね起き。でも、何度繰り返しても、誰も気づいてくれる気配がない。小さな傷がいくつかついただけのぶ厚い木製扉は、冷然と光りながら沈黙している。

 もう本当にダメかもしれない。

 でも、それでも、諦めたら負けなんだ。


【あたしはさ、あんたに生きてほしいんだよ。自分なんかどうでもいいっていうか、ぶっちゃけ、あたしはあんたの前から消えるつもりだった。あたしがいればいるほど、あんたの命はすり減るから。あたしが生きてるのは、ちょっとずつあんたを殺しているのと同じことだから。あたしが消えれば、その分だけ、あんたは長く生きられるから】


 今までかけていたタガが完全に外れて、ため込んでいた思いがあふれ出して止まらない。何を言いたいかも正直よくわからない。ひらっきぱなしの蛇口みたいにダダもれの思いをぶちまけながら、扉に激突して転がっては跳ね起きるのをただひたすら繰り返す。そのうちに、ぶつかっているんだか転がっているんだか、床がどちらで天井がどちらにあったのかすらわからなくなってきた。


【これでもし、このままあんたが死んだら、あたしはあんたの命を食い散らかしただけの悪者になっちゃう。そんなの嫌だ。存在価値ゼロじゃん。何のために生まれてきたんだよって話で。でもさ、もしあんたが生きてくれれば、こんなあたしの命にも、多少なりとも価値が出る。だから、生きて。お願いだから生きて。あんたは生きて、幸せになって。そうすれば、ゴミみたいだったあたしの人生にも、めっちゃ大きな価値が生まれるから!】


 叫ぶように送信を発しながら、何度も何度も扉にぶつかりながら、半分泣きそうになりながら、頭の中が真っ白になって、何をしてるのかもわからなくなってきて。

 でも、その一方で、頭の中心ではやけに冷静に、自問自答じみた会話を繰り返していた。


 もうさ、何だってこの玄関扉、こんなに分厚いの? 薄っぺらいベニヤ板とかでできてれば、もっと音が響くのに。てか、なんであたし、こんなに非力なの? なんでクマるんの姿でしか、この世に存在できないの? 水谷彩南の姿だったら、こんな扉すぐに開けて助けを呼べるし、上がりかまちの段差くらいあっという間に乗り越えて、携帯の電池もあっという間に探し出して救急車だって呼べるのに。

 嫌だ。もう嫌だ。何とかしたくても、こんな非力な姿じゃ、何もできない。何をしようもない。確かにあたしは、調子のいいウソばっかりついてきたいい加減なヤツだけど、でも、今だけは、あいつを助けるって言葉だけは、絶対にウソにしたくない。

 お願いします。神様でも、仏様でも、三途の川のおばばでも、誰でもいい。誰でもいいから、今だけ、ほんの少しの間だけ、あたしに力を貸してください。あたしにコイツを助ける力をください。そうしたら、あたしはもう、何を思い残すこともなく、笑顔で三途の川を渡るから!


 空っぽの頭が、完全にその一念で覆いつくされた、刹那。

 突然。目の前の玄関扉が、グニャリとゆがんだ。


――え?


 ハッと思う間もなく、黒くて頑丈な木枠も、真鍮しんちゅうのノブも、水に溶かされた絵の具みたいににじんだかと思うと、次の瞬間、大きな滝にでもなったかのように、それら全てが一気に流れた。

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