105.どうしてこんなことになったの?
鬼畜野郎と柴崎泰広は、折り重なるように動きを止めた。
目標を失ったあたしは、よろけて、彼らの背後の板の間に倒れ込んだ。
慌てて振り仰いだけれど、鬼畜野郎の大きな背中が邪魔をして、あたしの位置からは肝心の部分が見えない。
妙に頭が冷静だった。
冷静なのに、現実を見極めることを感情が頑なに拒否している。
今目の前に展開しているこの光景から導き出される答えを、無意識に思考の枠外に押し出している。
それなのに、両腕が知らず戦慄く。
壁際でもたれ合う、柴崎泰広と鬼畜野郎の背中。
その足元に、点々と滴り落ちては数を増す、黒っぽい丸い水玉模様。
もう少し光量があれば、もしかしたら、あれは黒ではなくて、赤い水玉模様に見えるんじゃないか?
心臓が凍りつく感覚に息をのんだとき、ふいに、鬼畜野郎の体が動いた。後方に右足を引き、ゆっくりと柴崎泰広から体を離す。
壁と鬼畜野郎に挟まれるような形で辛うじて立位を保っていた柴崎泰広は、鬼畜野郎が体を離すと、背中を壁にこすりつけながら崩れ落ちた。
柴崎泰広の左肩あたりに突き立っているハサミの柄が、鬼畜野郎の肩越しにちらりとのぞく。
鬼畜野郎はどこか呆然とした雰囲気で、そんな柴崎泰広を見下ろしている。
どうして?
どうしてこんなことになったの?
さっきからその疑問だけが、凍り付いた頭の中をぐるぐる回っている。
手足がまるっきり動かない。
板の間にへたり込んだ姿勢のままで、目の前の茶色い頭頂部を眺めることしかできない。
鬼畜野郎はあたし同様、しばらくは呆然自失といった雰囲気で立ち尽くしていたけれど、ふいに我に返ったように顔をあげた。無骨な右手で柴崎泰広の首元に突き立っているハサミの柄をわしづかみにすると、それを勢いよく引き抜く。
壁に飛び散る血しぶきと、息を飲む柴崎泰広の気配と、目の前を横切る血濡れた刃先。その鮮烈な赤が、凍った思考と網膜に焼き付く。
うずくまる柴崎泰広を無感情に見下ろしながら、鬼畜野郎はハサミを一振りして刃先についた血を払った。それから、それをナイフのように、刃先を柴崎泰広に向けて構える。
足の先から頭頂まで、悪寒が一気に走り抜けた。
殺意があろうがなかろうが、結果として、鬼畜野郎は未成年を凶器で刺した。現状は鬼畜野郎にとって果てしなく不利だ。公正に裁かれたとしても、なんらかのペナルティは避けられない上に、被害者である柴崎泰広の証言いかんによっては、人生を棒に振る可能性すらある。その上、被害者である柴崎泰広は鬼畜野郎に好意など微塵も抱いていない。どころか、敵意さえ持っている。身の安全を守るために、危険人物の口を塞いでおきたいと考えるのは自然だ。
そして、手っ取り早く口を塞ぐにはどうするか。
鬼畜野郎はハサミを握るその手を、うずくまる柴崎泰広の頭上に高々と振り上げた。
――ヤバい!
瞬間。無意識に、あたしも板の間を蹴っていた。
どうすればいいかなんて分からなかった。分からなかったけど、行動せずにはいられなかった。頭に携帯という重しがぶら下がっていることも、自分が編みぐるみだってことも忘れていた。どうにかして凶行を止める、ただその一事しか頭にはなかった。
だから、自分の足が毛糸でできている事実なんか、完全に頭から消し飛んでいた。
携帯の重みに引っ張られた摩擦係数ゼロの足は、力強く板の間を蹴ると同時に勢いよく滑り、こんなシリアスな場面なのに、そんな暇なんかないのに、あたしはしりもちをついてすっ転んで、後頭部をしたたかに打ち付けてしまった。
演壇で盛大にすべったお笑い芸人なんてもんじゃない。無様すぎて目の前が真っ暗になった。
あまりのことに意識を閉ざすのも忘れて、転倒の衝撃をもろにくらってしまった。痛みこそないものの、くらくらする頭を振ってなんとか起き上がったあたしの視界に、今まさに、柴崎泰広の首もとに叩き込まれんとしているハサミの刃先が映り込む。
【やめて!】
無我夢中で送信した。脳が爆発するかと思うくらい、強く。
でもわかってる。送信は届かない。止められない。どうしようもない。焦燥で思考が沸騰し、ありもしない心臓が焼き切れる。
惨劇を直視したら頭がどうにかなりそうな気がして、反射的に視界を閉ざしかけた、その時。
ふいに玄関扉の向こうから、鉄製門扉が開く時の、金属をこすり合わせる耳障りな音が響いた。
――え?
あまりにも想定外なその音は、鬼畜野郎の動きを見事に制した。振り上げたハサミを中途半端な位置で止め、鬼畜野郎は扉の向こうの気配に全神経を集中する。
聞こえてきたのは、引きずるような、独特なリズムの足音だった。それが扉の外で止まると、半分割れた玄関チャイムの音が、場の緊張感からは程遠い、間抜けな音で鳴り響く。
「柴崎さぁん、後藤ですけど」
しわがれてかすれた声とともに、玄関扉を拳で叩く鈍い音が、重苦しい玄関先の空気を震わせる。
「後藤ですぅ、隣の。柴崎さぁん、います?」
間延びした呼び声が、弱々しく響く。
息を殺して玄関扉を凝視していた鬼畜野郎は、突然スイッチが入ったように、手にしていた血だらけのハサミを懐にねじ込んだ。弾かれたように柴崎泰広から離れ、靴のまま和室に走り込み、履き出し窓から庭に走り出ると、狭い庭と裏手の駐車場の境に立てられたブロック塀によじ登り、中年とは思えない軽い身のこなしで飛び降りる。
一方、ドアの外に立っている後藤という人物は、屋内でそんな逃走劇が裏で行われていることなどつゆ知らぬ様子で、玄関扉を叩いたりチャイムを鳴らしたりを緩慢に繰り返している。
「あのねえ、そこに車停めてると迷惑なの……柴崎さん、いるんでしょ?」
その言葉で、ようやくあたしの思考も再稼働した。
座り込んで俯いている柴崎泰広。彼のけががどれほどのものなのか素人のあたしにはわからないけれど、床に滴り落ちている血痕と、ハサミに付着していた血の量からして、かすり傷でないことは確かだ。できるだけ早く医者に見せないとまずい。
今、扉の外には人がいる。この人に窮状を知らせれば、すぐさま通報してもらえるはずだ。
【柴崎泰広、この人に救急車呼んでもらおう! あたしじゃ気づいてもらえないから、なんとかあんたが声かけて……ね、聞こえてる?】
反応はない。
意識がない?
全身に氷水を浴びせかけられたようにゾッとするも、ならばなおのこと、ノロノロしている暇はない。跳ね起きて、玄関のたたきに飛び降りる。その拍子に上がり框に携帯が叩きつけられ、裏蓋が外れて電池が飛び出したけど、そんなのに構っている暇はない。たたきに立ち、どっしりした木製の玄関扉を毛糸の両手で力いっぱい叩いてみる。が、当然のことながら何の音もしない。というか、携帯がたたきつけられた時にある程度大きな音がしたわけで、その音で気づかないのなら、毛糸の手でいくら扉をたたいたところで気づくわけがない。そんなことはわかってる。わかってるけど。
「申し訳ないけどねえ、ちゃんと、駐車場に停めてきてくれる? 柴崎さん、……いないの?」
【いるってば! 気づいてよ!】
必死に送信で叫び返しながら、裏蓋の外れた携帯を両手で持ち上げて、玄関扉に叩き付ける。大した音は出なかったけど、毛糸の両手よりはしっかりした音が響いた。何か物音がしたことくらいは気づけるはず……というか、気づいてほしい。なのに、後藤さんは相変わらず一定間隔で扉をたたき続けるだけで、全く気づくそぶりもない。
その時、ふいに表通りから、焦ったような車のエンジン音が響いてきた。後藤老人に気づかれないようにセダンに乗り込んだ鬼畜野郎が、エンジンをかけたらしい。
さしもの後藤老人もその音には気付いたらしく、扉をたたく音がぱたりとやんだ。振り返ってそちらを注視しているのかもしれない。
ひときわ高く鳴り響いたかと思うと、エンジン音はあっという間に路地の向こうに消えた。
扉の向こうで、後藤老人はため息をついたようだった。
踵を返したような気配とともに、引きずるような独特の足音が遠ざかり始める。
【待って!】
あわてて重い携帯を持ち上げ、よろけながら力いっぱい扉に叩き付ける。かなりクリアな衝撃音が鳴り響いたのに、老人の足音が止まる気配はなく、ややあって、鉄製門扉の軋む甲高い音が響いた。
【なんで? なんで気づかないの!?】
「無理……」
突然、弱々しい声が響いてきて、思わず携帯を抱えた格好で動きを止めた。
【無理って、なんで……】
詰問調に問いかけながらあわてて振り返るも、視界に、右手で肩口を押さえ、苦しそうに目を閉じている柴崎泰広が映り込んだ途端、一瞬で頭が真っ白になった。いつの間にあんなに出血したんだろう。指の隙間からこぼれ落ちた血で、肩のあたりが真っ赤に染まっている。
柴崎泰広は苦しげな呼吸の合間から、わずかに苦笑めいた雰囲気の声を絞り出した。
「後藤さん……、耳、遠い、から……」
痛みが走ったのか、柴崎泰広は言葉の途中で、息をのんで顔を歪めた。
【喋らなくていい、喋らないで!】
慌てて制してから、急いで玄関先を見回す。
この家の上がり框は昔ながらのつくりで、三十センチほども高さがある。二十センチにも満たない背丈のあたしでは、玄関先の様子を見るのも一苦労だ。玄関扉の位置まで下がって、思いきり背伸びをして見ると、先ほどの乱闘で崩れた荷物の中に、洋服やらタオルやらがまぎれている様子がギリギリ見えた。
【柴崎泰広、そこに落ちてるタオル、とれる? 止血するなら、何か布を当てた方がいいかもしれない】
柴崎泰広は薄目をあけ、横目で荷物の山を見やると、顔の向きは変えずに傷口をおさえていない方の左手を延ばした。震える指先がギリギリ届いたのはタオルではなく薄いスカーフだったけれど、柴崎泰広が丸めるような形でそれを傷口に押し当てると、薄くてもないよりはマシらしく、滴り落ちていた血の勢いが和らいだ。
いくぶんホッとしたものの、現状が最悪なことにかわりはない。何とか外部と連絡を取って、一刻も早く救急車を呼ばないと。
眼前にそびえたつ玄関扉を振り仰ぐ。ノブは昔ながらの、回すタイプの丸っこいヤツだ。たとえ届いたとしても、あたしの毛糸の手足じゃ開けようがない。かと言って、半分意識がもうろうとして、タオル一枚とるのも必死の柴崎泰広が、あの位置から玄関扉まで、上がり框の段差を含めた数メートルの距離を移動できるとも思えない。
解決策が見出せなくて途方に暮れかけた時、ふと、裏蓋のとれた無残な姿で傍らに転がっている携帯が視界に入った。
――そうだ、携帯!
携帯が動けば、緊急車両が呼べる。あたしじゃ無言電話しかできなくて、いたずらだと思われるっていうなら、知り合いに助けを求めればいい。ラインもSNSもやってなくて、最低限の外部連絡機能しか入れてない携帯だけど、確か、西ちゃんのメアドは登録してあったはず。メールなら、あたしだって窮状を伝えられるはずだ。
一縷の希望が見出せた気がして、慌てて外れた携帯の電池を探すも、たたきには見当たらない。上がり框にぶつかった拍子に飛んでいったのなら、玄関先のどこかに落ちているはずだけど、あたしの位置からはそれがどこにあるのかすら分からない。
【柴崎泰広、……大丈夫? 意識、ある?】
茶色い頭が、あたしの呼びかけに反応してわずかに動いた。
【つらい時に、申し訳ないんだけど……その辺に、携帯の電池が落っこちてないか、見てもらえないかな。携帯で外部に助けを呼ぶことができると思ったんだけど、さっきぶつけた拍子に電池が外れて、どっかに飛んでっちゃったみたいで……】
柴崎泰広の反応はない。また意識が朦朧としているのかもしれない。ゾッとして、慌てて呼びかけを重ねる。
【ねえ、……大丈夫? 意識、ある?】
「大、丈夫……」
弱々しい返答だったが、とりあえず意識はあるようだ。ホッと胸をなでおろしたのもつかの間、柴崎泰広は、苦し気な呼吸の合間から、さらに言葉を継いだ。
「ただ……僕、首、動かせ、なくて……電池が、あるか、どうかは、見られない……ゴメン」
慄然として、続ける言葉を見失った。
柴崎泰広が負傷したのは肩じゃない。首なんだ。首が致命傷になりうるなんていうのは、あたしみたいな素人でも知ってる。そして、あの出血量。どう考えても一刻を争う事態だ。それなのに、バカなあたしは扉の向こうにばかり気を取られて、携帯という最も確実で手っ取り早い連絡手段を、みすみす失ってしまったんだ。
自分のあまりのアホさ加減に目の前が真っ暗になったけど、絶望してる余裕なんかない。一刻も早く外部と連絡を取らなければ、柴崎泰広の命が終わってしまう。さんざん命の砂を横取りしたあげく、コイツが死ぬ原因を作って終わりなんて、頭掻きむしるレベルにあり得ない。なんとかしないと。早くなんとかしないと。
でも、何をどうすればこの絶体絶命の窮地を脱せるのかなんて、あたしの十数年の短い人生経験とわずかな知識量ではすぐに考えつけるわけもない。しばらくはなすすべもなく、玄関のたたきの真ん中に立ち尽くしているしかなかった。