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104.どうすればいいかわからない

「おまえ……」


 鬼畜野郎のかすれた声が、張りつめた玄関の空気をわずかに揺らした。

 壁際に追い詰められ、切られた左腕を右手で抑えている鬼畜野郎の顔には、明らかな驚愕の色が浮かんでいる。

 柴崎泰広は、鬼畜野郎を睨み据えながら、手にしたハサミを改めて胸の前に構えなおした。

 荒い呼吸に、血走った目。折れそうなほどきつく奥歯をかみしめたその顔は、これまで一度も見たこともないような激しい憎悪の感情で満たされている。

 そんな柴崎泰広を見上げながら、あたしはただひたすら混乱していた。


 どうすればいいかわからない。

 こんな事態ことになるなんて、思ってもみなかった。


 柴崎泰広が構えている凶器は、玄関先に放り出されていた、錆びた裁ちばさみ。

 昔の道具なのでそれなりに大ぶりで刃先も鋭い。とはいえ、凶器として有用かどうかは微妙だ。「目的」を完遂するには相当の腕力が必要なうえに、みじんのためらいなくめった刺しにするくらいの覚悟と勢いが必要かもしれない。

 何より、柴崎泰広はケンカ慣れしていない。踏んだ場数はどう考えても鬼畜野郎の方が上だ。今の攻撃だって、鬼畜野郎の不意をついたから通っただけで、そんな奇跡、もう二度と起きる気がしない。


 しかも、その攻撃は左上腕部を薄く切り裂いただけで、大したダメージを与えていない。

 そして、中途半端につけた傷は、間違いなく事態を悪化させる。


 どう考えても最悪だ。

 こんな事態を引き起こした原因が自分の軽はずみな行動にあると思うと、絶望で目の前が真っ暗になる。

 あのハサミの存在に気づいたときに、最悪の事態を予見して、どこかに隠しておくべきだったんだ。


 だって、この後どうするの?


 鬼畜野郎は確実にブチ切れてる。正直、次の行動の予測がつかない。さらに、こちらから手を出してしまった以上、今後の鬼畜野郎の暴力行為は、全て「自己防衛」の名のもとに正当化される。もし、これ以上深手なんか負わせてしまったら、柴崎泰広はこの先一生、犯罪者の汚名を背負って生きていかなければならなくなる。こんな外道ヤツのために特大のマイナスレッテルを一生涯背負わされるとか、ちゃぶ台二百万台ひっくり返すレベルにあり得ない。


 言うて、柴崎泰広の気持ちはわかる。

 あたしだって、鬼畜野郎と言い合っていた時、そういう考えがチラッとでも頭に浮かばなかったかと言えばウソになる……というか、ぶっちゃけ、あの不遜な顔のど真ん中にナイフの一本や二本ぶっ刺してやりたいくらいには思ってた。もし自分の体だったら、マジでそのくらいのことはやっていたかもしれない。

 でも、柴崎泰広の体でそんなことは絶対にできない。

 そんなことをすれば、その汚名を一生背負って生きていかなきゃならないのはあたしじゃなくてコイツだ。いくらあたしだってそのくらいの想像はできるし、だからこそ、超えちゃいけない最終ラインはきっちり守ってた。

 それなのに。


「笑えるな。おまえ、そんなもんで俺を殺せると思ってんのか?」


 意外にも、鬼畜野郎は冷静だった。こういう限界局面に慣れているか、もしくは、相手が柴崎泰広だからなめているのかもしれない。薄いひげを生やしたその頬に、バカにしたような笑みすら浮かべている。

 柴崎泰広は震える両手でハサミを握りなおすと、そんな鬼畜野郎を上目づかいににらみながら、低くかすれた声を絞り出した。


「……返せ」


「あ?」


「返せよ」


「何をだよ?」


 わざとらしく不遜なその問いに、柴崎泰広は絞り出すような声音で答える。


「母さんの、指輪……」


「はあ?」


 鬼畜野郎はあざけるように鼻で嗤って肩をすくめた。


「母さん? 母さんって誰のことだよ? おまえの母親は、おまえが生まれてすぐ死んでるんだが? ちなみにあの女は、おまえの父親に雇われてたただの乳母ナニーだ。おまえとは何の関係つながりもない赤の他人……」


「うるさい!」


 裏返った声で叫んだ、次の瞬間。

 柴崎泰広は両手で握ったハサミを鬼畜野郎の喉元に突きつけていた。

 あまりの急転直下に、一瞬、何が起きたかわからなかった。

 普段のおっとりした柴崎泰広からは思いもつかない俊敏さだった。鬼畜野郎も同様だったらしく、面くらったような顔で凍り付いている。

 ハサミの刃は、閉じた状態ではなくいっぱいに開かれていた。これなら、大した握力がなくともある程度の傷は負わせられるに違いない。その状態のハサミを鬼畜野郎の喉元ギリギリにあてがいながら、柴崎泰広は押し殺したような声でつぶやいた。


「……血がつながっていようがいまいが、僕の母親はあの人しかいない」


 それから、凍るような目で鬼畜野郎を見据える。


「返さないと、本当に殺す」


「……わかったよ」


 さすがの鬼畜野郎も、この状況を茶化すほど無謀ではないらしい。おもむろにポケットに手を突っ込むと、見覚えのある、四角い小さな箱を取り出す。


「これか?」


 鬼畜野郎は取り出した箱を、わざとらしくゆっくりと柴崎泰広の目の前にかざしてみせる。

 柴崎泰広は一瞬、つかんでいたハサミの柄から右手を外しかけたが、思い直したように握り直すと、低い声で命じた。


「僕の胸ポケットに入れろ」


 それから、少しだけ顎をしゃくって場所を示す。鬼畜野郎は苦笑めいた笑みを浮かべた。


「……んだよ、唯一金目のモンだからって、すげえ執着ぶりだな」


「いいから早く入れろ!」


 鬼畜野郎は肩をすくめると、手にした指輪の箱を、言われたとおり胸ポケに突っ込み始めたが、わざとらしい笑みを浮かべて嘆いてみせる。


「いやこれ、大きさ的に無理じゃね?」


 柴崎泰広はきつく眉根を引き寄せたが、一瞬迷ってから、目線をちらりと胸元の指輪の箱に落とした。

 瞬間。

 ハッと思う間もなく、鬼畜野郎の右手が柴崎泰広の左手首をわしづかみにした。喉元からハサミの刃が首から離れ、柴崎泰広の表情が凍りつく。修羅場での経験値の差を見せつけられた気がして、あたしも思わず息を詰めた。

 柴崎泰広は慌てて満身の力を込める。引き離されかけていたハサミが、左右非対称になりながらも、鬼畜野郎の喉元に再びジリジリとその刃を寄せる。

 いかに鬼畜野郎の腕力があろうが、両手でハサミの持ち手を握っている柴崎泰広に分があるのは自明だ。鬼畜野郎はチッと舌打ちすると、やおら左手に持っていた指輪の箱を廊下の反対側に投げ捨てた。

 四角い箱はあっという間にあたしの目の前を横切り、台所へ続く薄暗い廊下の奥に消える。

 鬼畜野郎は自由になった左手も使って、さらに力を込めてハサミを引き離しにかかる。先ほどとは比べ物にならないパワーで両手首を押し戻され、体勢を崩した拍子に、開いていたハサミの刃先が閉じる

 すかさず、鬼畜野郎は閉じたハサミの刃先をわしづかみにし、そのままねじ伏せるように柴崎泰広の体ごと、斜め下に引き落とした。


【やめろって! その手を離せタコ!】


 焦りまくりながら、できる限り強い送信をたたき付けてみる。

 さっきよりも強烈なのをぶちかましたから、昏倒は無理でも、スキくらいは作れるはず。最低限、体勢を立て直すことくらいはできる、そう思った。

 でも、なぜだか鬼畜野郎の様子に変化はなかった。

 奇妙に歪んだ口元は微動だにせず、ハサミを握る手の力は一瞬たりとも緩まない。


――送信が、届いてない?

 

 ゾッと背筋が凍った。今のあたしには、送信しか攻撃手段がない。それが使えなければ、もうこの先、柴崎泰広の身に何が起ころうが、あたしには何をどうすることもできない。 


【やめろっつってんだろ! 聞こえねえのかよクソジジイ!】


 諦めきれずに罵倒をたたきつけるも、鬼畜野郎の表情に期待したような変化は現れない。

 不幸中の幸いというべきか、柴崎泰広はまだハサミを手離してはいない。気丈に鬼畜野郎をにらみ据えながら、必死でハサミの持ち手を握り続けている。ナイフと違い、持ち手があることが功を奏しているのだろう。とはいえ、鬼畜野郎のパワーには抗い切れないらしく、すでに玄関ホールの反対側まで引きずられてきている。

 未だ凶器を奪い取られていないとはいえ、劣勢は明らかだ。鬼畜野郎の表情には余裕がうかがえる。あえて無駄に動かず、柴崎泰広が疲れて力尽きるのを待っているようにも見える。実際、柄を握る柴崎泰広の手は震え、持ち手をつかむ指も限界なのがわかる。あとどれだけこの状態を維持できるかどうかわからないのに、頼みの綱だったあたしの送信も、どういうわけか鬼畜野郎に届いていない。つまり、状況を好転させる手だてがない。


――ダメかもしれない。


 マイナスな思考にとらわれかけた、その時。

 突然、柴崎泰広が、奪われまいとしていたハサミを、いきなり反転――つまり、鬼畜野郎の方に突き出したのだ。

 鬼畜野郎はハサミを自分の方に取り戻そうと引いていたわけで、その力に加え、柴崎泰広の力も加わった二倍の速度で、ハサミは鬼畜野郎の腹をめがけて突進する。

 予想もしていなかった事態に、鬼畜野郎の表情が凍った。

 あたしの背筋も、一瞬で凍り付いた。


【! ダメ、止めて!】


 焦りまくって送信をたたきつけた。もし万が一鬼畜野郎の体に傷なんかつけてしまったら、柴崎泰広の経歴に取り返しのつかない禍根が残る。こんなゲス野郎のためにそんな重い十字架を背負わされるとか、絶対にあり得ない。

 幸いというべきか、さすがというべきか、鬼畜野郎は中年とは思えない驚きの反応速度で体を引いて刃先をかわした。ホッとしたのもつかの間、今度は逆に、柴崎泰広の手の上からハサミの持ち手をわしづかみにすると、力任せに、突きつけられていた刃先の方向を捻じ曲げた。

 柴崎泰広も、慌てて主導権を取り戻そうと力を込める。しばらくはもみ合うも、柴崎泰広は逃げ場のない壁際に体を押し付けられた上、刃先を先程までとは逆方向、つまり喉もとに向けられてしまった。

 表情をこわばらせる柴崎泰広を見下ろしながら、鬼畜野郎はにやりと片頬を引き上げた。


「俺を殺そうなんてなあ、百年早えんだよクソガキ」


 抗いようのない力なのだろう、刃先はジリジリと喉元に迫りくる。柴崎泰広は全力でハサミを押し返しながら、あと数センチの位置まで近づいた刃先から必死で顔をそむける。


【手を離せったらヒトゴロシ! 柴崎泰広から離れろバカ!】


 さっきからずっと、半狂乱で送信をたたきつけ続けている。でも、鬼畜野郎の表情は全く変わらない。なんとなく、あたしと鬼畜野郎の意識のはざまに、見えない壁のようなものが立てられている気がする。誰がやっているかは知らないけれど、あの渡し守が言うように、彼岸のものが此岸のものに影響を及ぼすことが、存在を消されるレベルの禁忌タブーなのだとすれば、事前にそういう事態を防ぐ措置が施されていても不思議はないのかもしれない。

 だとしたら、どうしようもない。完全に詰んでる。

 だとしても、あたしにできることなんか、他に何もないんだよ。


【おまえになんか、コイツを傷つける資格はない! ふざけんな! おまえのせいで、今までコイツがどれだけ苦しんできたかわかってんの? おまえが奪ったコイツの幸せ、全部返せ! 人生を返せ! 利子付けて返せ!】


 本当に、あたしにできることなんか何もない。

 ありったけの罵詈雑言をたたきつけながら、地の底に落ちていくような絶望を感じる。

 目の前に展開しているこの光景はまぎれもない現実なのに、あたしにとっては、まるで映画の中の出来事ワンシーンのように非現実的に思える。そりゃそうだ。どんなに心を痛めようが、なんとかしたいと思おうが、この不条理な現実に対して、あたしは影響を及ぼしていい存在じゃない。フィクションレベルの希薄な存在でしかないあたしみたいな幽霊に、柴崎泰広をとりまく悲惨な現実を変えられる力なんか、最初からあるはずもなかったんだ。

 津波のような絶望に、気持ちが押し流されそうになる。ダメだ。なんとか踏みとどまらないと。


【こんだけ傷つけて、奪いつくして、さらにまたコイツに負債を負わせるとか、そんなの、あたしが許さない。社会や法律が許しても、あたしが絶対に許さない。たとえ今ここでおまえがコイツに殺されて、この世界全部がコイツの敵に回ったとしても、あたしだけは、何があっても、どこにいても、絶対、一生、コイツの味方でいてやるからな!】


 とにかく言葉を並べ立てて、その場に気持ちを縫い付ける。味方って宣言した以上、当事者が逃げずに踏ん張ってるのに、あたしだけさっさと諦めることなんかできない。逃げるな。諦めないで、考えろ。


 本当に、あたしにできることはなにもない?

 本当は、なにかできることがあるんじゃないの?


――そうだ!


 弾かれたように顔を上げた。

 視界に映りこむ、そびえたつ岸壁のような、高く広い鬼畜野郎の背中。


――あるじゃないか。あたしにだって「できること」が。


 立ち上がると同時に板の間を蹴り、そのだだっ広い背中目がけて走り出す。

 あの背中の真ん中にぶら下がれば、あたしの存在は否応なく知れる。そうすれば、鬼畜野郎に「スキ」が生まれる。たとえ一瞬でも「スキ」があれば、少しでも拘束が緩めば、玄関から外へ逃げ出すこと可能になるかもしれない。

 完全な「契約違反」? それがどうした。希薄なあたしの存在なんか、この限界状況下、ぶっちゃけどうでもいいだろ?


【無視ぶっこいてんじゃねえよクソ野郎! あたしは『ここ』にいるんだよ!】


 叫びながら、そびえたつあの背中のできるだけ高い位置に飛びつくために、小さくかがんでタメをつくる。 

 その時。鬼畜野郎の肩越しに少しだけ見えていた柴崎泰広の目が、ほんの一瞬あたしをとらえた。気がした。

 刹那。

 ハサミを固く握りしめていたはずの柴崎泰広の手から、ふっと力が抜ける。


 ――え?


 何を思う間もなく、反発力を失った鬼畜野郎は勢いのままにバランスを崩し、気が付いた時には、柴崎泰広に覆いかぶさるように倒れ込んでいた。

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