103.なんで?
鈍い音が響いた気がした。
でも、不思議なことに衝撃や痛みは全く感じなかった。
まるで、クマるんの中に入ってる時みたいだ。シバサキヤスヒロの肉体に入っているはずなのに。限界を超えた恐怖は感覚を遮断するんだろうか。そこまでの恐怖にさらされた経験なんて、これまでの人生で一度もない。女だったっていうのもあるけど、あたしは悪知恵の働く方で、そういう限界局面に至る状況はうまいこと避けてたから。
なら、今回だって避ければよかったのに。
しかも相手は、筋肉隆々オラオラ系武闘派中年。やられた時のダメージが半端ない上に、この体は柴崎泰広の持ち物。初発の衝撃と痛みは引き受けてやれたとしても、肉体を傷つけてしまうのは確実なのに。
でも、我慢できなかった。
そういう冷静な判断力とか理性とか、全部消し飛んでた。
そのくらい、許せなかったんだ。
もしかしたら、全身とんでもない状態になってるかもしれない。骨の一本や二本逝ってるかもしれない。恐い。このまま感覚を遮断していたい。でも、あんだけ怒らせた以上、一発で終わるはずがない。これ以上柴崎泰広の体を傷つけちゃダメだ。ちゃんと意識を開いてダメージを減らさないと。足が無事かどうかも知りたい。足さえやられていなければ、なんとか逃げ出す隙くらい作れるかもしれないから。
そうだ、なんとかして逃げよう。鬼畜野郎だって、人目があれば過激な暴力はふるえない。誰かに助けてもらえる可能性もある。隙をついて外に飛び出して、繁華街まで走って逃げるんだ。それしかない。
心もとないけど、とりあえず打開策を思いついたことで、少しだけ気分が落ち着いた。覚悟を決めて、恐る恐る、痛みに直接かかわらない聴覚や嗅覚、温感から意識を開いてみる。
その途端、自分のものとは思えない乱れた息遣いが聞こえてドキッとした。
玄関先のかび臭い空気に交じり、鉄くさい血のにおいも感じる。
視覚も痛覚も開いていないからどこをどの程度かはわからないけど、体が傷ついてしまっているのは確からしい。背筋に冷たい感触が走った。
でも、ならばなおのこと、早く意識を開いてケガの程度を確かめないとまずい。なけなしの勇気を振り絞り、触覚や痛覚を開いてみる。
でも、なぜだか痛みは伝わってこなかった。
どころか、痛みとは正反対の、何か温かいものに包まれているような感触を覚えて首をかしげた。荒い息遣いや血の臭いとはあまりに不釣り合いな心地よさ……しかも、どこか覚えのある感触だ。
困惑しながら、最後の感覚、視覚を恐る恐る開いてみる。
明転した視界に、黒光りする板の間が映り込んできた。殴り飛ばされて板の間に倒れ込んだんだろうけど、それにしては板の冷たさや硬さを感じない。感じるのは柔らかな圧迫感と、ほんのり温かみのある感触。全身を包み込んでいるこの肌色の物体は、もしかして……。
ハッとして振り仰ごうとした、刹那。
液体が滴り落ちる音が聞こえて、思わずそちらに目を向けた。
視界に映る、板の間に点々と描かれた水玉模様。薄暗い玄関先に浮かび上がる鮮やかな赤と、かすかな鉄のにおいが、意識に鋭く突き刺さる。
背筋が凍るような感覚に息を飲み、弾かれたように振り仰いだ視界に、下半分が真っ赤に染まった柴崎泰広の顔が映り込んだ。
ありもしない心臓が、一瞬で凍り付いた気がした。
――なんで?
殴られたあの瞬間、シャットダウンしたあたしの意識を押し出して無理やり交代したんだろうってことはわかる。わかるけど、その意図が全く分からなかった。トラウマの元凶が前後不覚に激高してる最悪の場面で、その目の前にわざわざ踊り出るなんてマネ、普通はやらない。
ましてや、現状は命の危険すらあり得る。トラウマに無関係なあたしですら、都合よく巡回の警官がドアベル鳴らして現れないかなとか、あり得ない妄想に逃げる程度に恐怖してる。クマるんを握ったっきり離せなかったのだって、要するに何かに縋っていないと恐怖に耐えられなかったからだ。
けど、だからって、トラウマの当事者である柴崎泰広にその警官役を押し付けるほどあたしの根性は腐ってない。何十年も日常生活もままならないほど苦しめられ続けたトラウマの元凶が、あろうことか怒り心頭に発して激高してる限界局面で、その矢面に立たせてタイマンはらせるとかありえない。そんな外道なマネをすれば精神崩壊不可避というか、最悪……。
「死」という言葉がふっと脳裏をよぎり、ゾッと背筋に寒気が走った。
【……ちょっと、なにコレ、なんで交代なんか……】
不安が高じて、思わず責めたてるような送信が漏れてしまう。
でも、言葉は途中で立ち消えた。
視界に映る柴崎泰広の、下半分が血まみれになった顔に、腫れあがって血の滲んだ半開きの唇。鼻先から一定間隔で滴り落ちた血が、床に赤い水玉模様を次々に作っていく。目元は乱れた前髪に隠されていて、表情どころか、どこを見ているのかさえ、あたしの位置からはよくわからない。
ありもしない心臓を握りつぶされた気がした。
かける言葉なんか、見つかるわけがない。
コイツがこんな目に遭ったのは全部、感情の赴くままに向う見ずな行動をしてしまった、バカなあたしのせいなんだ。
津波のような後悔に押し流され、自分たちが今どんな状況に置かれているかすら忘れかけた、刹那。
「あーあー、きったねえなあ。汚してんじゃねえよ、クソガキ。この家はもう他人のモンだっつってんだろ? きっちり掃除しとけやコラ」
上方から響いてきた鬼畜野郎の嘲笑うような声に、飛びかけた意識が引きずり戻された。
恐る恐る意識を上方に向けた途端、床に這いつくばる柴崎泰広を見下ろす鬼畜野郎の半笑いの顔が映り込み、全身が一斉に泡立ったような気がした。
――コイツ、マジもんの鬼畜だ。
血だらけの相手を目の前にしてる人間の顔じゃない。まるで、ゴミか雑草でも眺めているような……こういう状況に慣れきって、血を見ることも暴力をふるうことも厭わないどころか、それを楽しんでいるようにすら見える。さっきまで、さすがに殺すなんてことはないだろうと思ってたけど、この残忍な顔を見るに、それは希望的観測に過ぎなかったのかもしれないと思えてくる。
冗談じゃない。マジで命に係わる。
こんな場所にこんな奴と二人きりでいるのは危険すぎる。
【柴崎泰広、……】
意を決して呼びかけるも、柴崎泰広からの反応はない。
怒ってる。当然だ。こんな目に遭わせたんだから。
【……ごめん。こんなたいへんな状況にした上に、ひどい目に遭わせちゃって……全部あたしのせいだ。そのお詫び……ってわけじゃないけど、この場はあたしが責任持ってなんとかする。なんとかして、あたしがコイツの気を引く。編みぐるみのあたしがいきなり動けば、コイツだってギョッとして絶対あたしに注目する。そうしたらその隙に外に出て、繁華街まで走って逃げて。人混みに出さえすれば、コイツもそうそう手出しできないはずだから、そのまま交番まで走って……って、聞いてる?】
不安になって確認するも、柴崎泰広はあたしの送信に反応を示さない。先程と全く同じ姿勢で荒く早い呼吸をただひたすら繰り返しているだけだ。
口もききたくないのかもしれない。
重い気分に苛まれ、言いかけた言葉が引っ込みそうになるも、このままだと危険なのはあたしじゃなくてコイツの方だ。勇気を奮い起こして意識を開く。
【……ムカつくよね、ゴメン。マジで、謝罪の言葉もない。ただ、今は協力しないと】
「掃除しろっつってんだよ、聞いてんのかコラ⁉」
あたしがおずおずと話しかけたのと、鬼畜野郎が俯く柴崎泰広の顔を蹴りつけたのは同時だった。
鈍い音とともに蹴り飛ばされ、板の間に突っ伏した柴崎泰広の口から、血が糸を引くように流れ落ちる。
体中の血が逆流するような感覚に襲われ、頭の中が真っ白になった。
「ああ、また汚しやがったな? 自分の顔で拭いとけやコラ」
鬼畜野郎は、倒れている柴崎泰広の頭を右足で踏みつけ、床にこすりつけるようにしてグリグリと押し付ける。
柴崎泰広の口から、苦し気なうめき声が漏れた。
【やめて!】
気が付いたら、全力の送信を鬼畜野郎に叩き付けていた。
無意識だった。
「自分たち以外の人間に送信」することも「第三者の目の前で動いてみせること」も、三途の川の渡し守が固く禁じていたことだ。それを行えば即座に三途の川に呼び戻され、転生の可能性を永遠に失う……つまり、存在が完全にこの世から消される要因になる。そんなことくらいわかってる。わかってるけど、そんなの、今この瞬間は、頭から完全に消し飛んでいた。
送信が届いたのか、鬼畜野郎は眉根を寄せて動きを止めると、柴崎泰広の頭を踏みつけていた右足を下ろした。それから、怪訝そうに首を巡らせて周囲を確認する。
柴崎泰広は少しだけ体を起こすと、あたしの方をちらりと見て、それから袖口で血まみれの顔を拭った。
異常を発見できなかった鬼畜野郎は鼻でため息をつくと、気持ちを切り替えたのか、再びその残酷なまなざしを倒れている柴崎泰広に投げた。持ち上げた頭を再度踏みつけようというのか、右足を高々と振り上げる。ゾッと背筋に寒気が走った。
【やめてっつってんだろ! これ以上こいつに危害を加えるな! 加えたら、おまえを呪ってやる! 怨霊になって、一生おまえに付きまとって、絶対に呪い殺してやるからな! 覚悟しとけよ!】
必死過ぎて、もう何を言ってるのか自分でもよくわからなかった。
存在が消されれば、怨霊になんかなれるはずもない。でも、ウソだろうが何だろうが、鬼畜野郎に一瞬でもスキができて、凶行を食い止めるきっかけが作れるんなら、それでよかった。
案の定、振り上げた鬼畜野郎の足は、ギョッとしたように中空で動きを止めた。見上げると、鬼畜野郎の注意は完全に柴崎泰広からそれていて、薄気味悪そうに部屋をグルグルと見まわしている。玄関扉までのルートもがら空きだ。
【今だよ! この隙に、家の外に出て!】
必死で叫んだ、そのとき。
突然、大きく視界が揺れた。
ハッとして見上げると、柴崎泰広があたしを上がり框の壁際に置いたところだった。ようやく逃げてくれる気になったらしい。ホッとして体の力が抜けかけたとき、乱れた前髪の隙間からあたしを見下ろす柴崎泰広と目が合った。その目に何とも言えない感情が浮かんでいる気がして、あわてて右手をシッシッというように払ってみせる。
【編みぐるみなんだから、あたしは大丈夫。いいからあんたは早く行きな。ここでギリギリまであたしが気を引くから、できるだけ遠くまで……】
柴崎泰広の右手が何かをつかんだことに気がついて、言いかけた言葉を止めた。
彼の右手がつかんだのは、梱包にでも使用していたらしい、古臭い、大きな裁ちばさみだった。
――え?
回転の遅いあたしの頭が、その意図を把握したようと動き始めた時。
弾かれたように立ち上がった柴崎泰広は、ひとことも言葉を発することなく、そのハサミもろとも鬼畜野郎の胸元に飛び込んでいた。