102.コイツに謝れ!
「……ああ?」
鬼畜野郎は顔の片側を引きつり上げると、つかんでいる前髪を乱暴に引いて、あたしの顔をのぞき込んだ。ヤニで黄ばんだ犬歯が薄い唇の隙間からのぞき、引きつれる前髪の痛みが倍加する。
その野犬さながらの凶悪な表情にゾッとするも、とりあえずコイツの左手は大きな荷物にふさがれている。殴りつけるにしても、荷物を放り棄てるなりなんなりの大きな予備動作が必要になる。そうなったら逃げればいいだけで、今はまだ大丈夫だ。
必死でそう自分に言い聞かせ、ひるみかけた気持ちを立て直そうとした、刹那。
鬼畜野郎が、いきなりつかんでいた前髪ごと逆方向に突っぱねて、あたしを背後の壁面にたたきつけた。
壁に後頭部が激突する鈍い音が響き、視界が爆ぜて呼吸が止まる。
激痛と恐怖に耐え切れず、思わずクマるんごときつく右手を握りしめた。
鬼畜野郎は、そんなあたしを血走った三白眼でにらみ据えながら、薄い唇の隙間から地をはうような声音を漏らした。
「……おまえ、よくもまあシレッとそんなことが言えるな。どういうこともクソもねえよ。原因はその顔だろ? 毎日毎日、あの男そっくりのその顔を目の前にちらつかされれば、そりゃおかしくもなるだろうがよ。あいつはなあ、おまえのせいでおかしくなったんだよ。おかしくなって、俺とも会わなくなって、金もよこさなくなって、とうとう死んじまいやがって……おまえさえいなけりゃ、なにもかもうまくいったはずなんだ。俺にとっちゃ、今回の件は、なにからなにまで、全部おまえが原因なんだよ!」
我慢の限界と言わんばかりに吐き捨てると、充血した両眼を見開いてあたしをにらむ。嚙みしめた奥歯のきしむ鈍い音が、薄い唇の隙間から漏れる。
視線の刃に射すくめられ、心臓が凍り付くような感覚に襲われながら、そのときあたしは、なぜだかよくわからないけど、恐怖とは正反対の、熱く煮えたぎるような感情が胸の底からふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
鬼畜野郎の言葉が何を意味しているのかは、はっきり言ってよくわからない。
あの男ってのは恐らく柴崎泰広の父親で、あいつってのが死んだ母親で、死んだ父親のことが忘れられなかった母親は最後まで鬼畜野郎に心を開かなくて、そのために鬼畜野郎の計画は失敗に終わり、その全てをこの鬼畜野郎は、父親似だった柴崎泰広のせいで引き起こされたことだと思いこんでいる。
あの発言からあたしに推測できるのはせいぜいその程度で、実際のところ彼らの間に何があって、どんな過去をひきずっていて、どんな思いを抱えてこれまで生きてきたかなんて、そんなことまでこの短い言葉から推測しろと言われても、んなことはどだい無理な話なわけで。
でも、一つだけはっきり言えることがある。
この鬼畜野郎は、最低最悪のゲスだってことだ。
いや、今までだって鬼畜だとは思ってたけど、ここまで完全無欠なゲス野郎とは思ってなかった。
心の導火線に火がついた。これまでずっと心の奥で炭火のようにくすぶり続けていた怒りが、爆発的に炎を上げて燃え始める。
「……人のせいにしてんじゃねえよ」
乾いた唇から、普段より二オクターブ以上低い声が漏れた。
「ああ?」
ずれたメガネを直すこともできずに壁に押し付けられている、見るからに弱々しく劣勢な相手からこんな挑発的な言葉が飛び出してくるとは思わなかったらしい。鬼畜野郎は眉根を寄せると、唇の端をいまいまし気に引きつり上げてあたしの顔をのぞき込んだ。
でも、あたしももう引けないから。
「なんで母親が死んだのがコイツのせいなんだよ。誰がどう考えたって、借金の返済押し付けて無理させ続けたおまえの責任だろ?」
「……んだとぉ!?」
鬼畜野郎は獣の咆哮のごとく叫ぶと、あたしをしっくいの壁にたたきつけた。後頭部の激痛に呼吸が止まり、思わず言葉を飲みこみかけるも、怒りの奔流が弱気を押し流した。あたしの口元には、その時、不敵な笑みさえ浮かんでいたかもしれない。
「だってさ、似てるから悪いとか、意味わかんなすぎじゃね? 親子なら似てるのが当前だし、お母さんが過去にとらわれてたってんなら、それは単に過去を忘れさせてやれなかったあんたの責任だろ。無理筋のこじつけで責任転嫁されても迷惑っつーか雑過ぎで草。お母さんが死んだのも、あんたに心を開かなかったのも、なにもかも全部あんた自身の責任であって、コイツの責任なんか何ひとつない。どころか、あんたのせいでコイツは訳の分からないトラウマ植え付けられて、そのせいで今までずっとつらい思いをさせられてきたんだよ? 悪いのはおまえの方だ! おまえの方こそ、土下座してコイツに謝れ!」
最後の言葉を叫んだ、瞬間。
鬼畜野郎がつかんでいた前髪を全力で下方に引いた。
ハッとする間もなく視界が流れ、あたしの体は玄関先に置かれていた荷物の山に突っ込んだ。鈍い音が響き、外れかけていたメガネは衝撃でどこかへすっ飛んだ。
激痛に意識を引き戻されて薄目をあけると、霞んだ視界に、無造作に散らばっているアクセサリーや毛糸、置かれていたビニールテープやはさみなどの梱包道具がうつりこんだ。
「……いい度胸してんじゃねえか」
見上げると、鬼畜野郎は血走った目であたしを見下ろしていた。その全身から放射される、むき出しの殺意、殺気。心臓を刺し貫かれるような気がして、思わず全身が凍り付く。
その時。ふと視界の端に、何かがうつりこんだ。
先ほどの衝撃で玄関中に散らばったアクセサリーとともに、少しだけ離れた場所に転がっている、小さな四角い、箱のようなもの。
メガネがないせいか、ぼんやりとしか見えないけど、あの大きさで、あの形の箱は、まさか……。
思わず息をのんだあたしの様子に気づいたのか、鬼畜野郎は眉根を寄せてあたしの目線の先を追い、その目を大きく見開いた。
――ヤバい!
跳ね起きたつもりだったけど、半分意識が飛んでるあたしの反応速度などたかが知れている。あたしが左手を延ばした時にはすでに、四角い箱は、鬼畜野郎の武骨な手の中にすっぽりと納まってしまっていた。
ぼうぜんとしているあたしをよそに、鬼畜野郎は手にした箱をしげしげと眺めやり、無精ひげだらけの汚らしい口元に嫌らしい笑みを浮かべた。
「これだ、この家で唯一といっていい金目のもんだから、ずっと探していたんだが、こんなところに紛れてやがったのか……つか、あいつもさっさとこれを金に換えてりゃ、死ぬ必要なんかなかったかもしれねえのにな。まったく、つくづくバカとしか言いようがねえ女だな」
冷静沈着な第三者なら、もしかしたらそのゆがんだ表情から、鬼畜野郎の抱いている複雑な感情が読み取れたのかもしれない。でも、今のあたしに、こんな豚野郎の内心を思いやる余裕なんてあるわけがないし、それ以前に、そんな偽善的な行為、しろって言われても到底無理だ。
「……返して」
「ああ?」
鬼畜野郎は鼻にしわを寄せると、あえて見せびらかすようにその箱を目の前にかざしてみせる。
「返せだと? 何を言ってる? これはおまえのモンじゃねえだろうがよ、クソガキが」
「あんたのモンでもないはずだよね」
「は? バカかおまえ。俺たちは夫婦だぞ? つまり、アイツのモンは俺のモンでもあるんだよ」
勝ち誇ったように醜悪な笑みを浮かべる鬼畜野郎を見上げながら、その時、あたしの脳裏には、昨日の涼子さんの表情と言葉が鮮やかによみがえっていた。
『それ、藤乃の唯一と言える形見の品です。あの男に見つかって取られないようにって藤乃があたしに預けていた、泰之さんからの、婚約指輪……』
ブランド服も高価な着物も何もかもを失って、生活が立ち行かなくなって、それでも藤乃さんが最後まで、絶対に残しておきたかった大切なもの。
それはきっと、柴崎泰広にとっても、絶対に失いたくない大切なものに違いないんだ。
「……ざけんじゃねえよ」
視覚や聴覚など、痛みや恐怖で活動を停止していた感覚が活動を再開して、体全体が鋭く研ぎ澄まされていく。とはいえ、何をすれば確実かなんて策を巡らせている余裕はない。とにかく何でもいいから行動を起こして大事なものを奪い返す。それ以上のことを考えるリソースは、あたしの脳には残されていなかった。
「お母さんは、それを親友に預けた。あんたにだけは絶対に渡したくないって思ったからだ。お母さんにとって、それだけは絶対に失いたくない、ものすごく大切なモノだったんだ。それを、金に換えるとか、そうすれば死なずに済んだとか……あり得ねえだろ。死んでも手放したくないものだったってことくらい、なんでわかってやれねえの? 頭悪すぎだろ。おまえみたいなヤツには、それをどうこうする資格どころか、触れる資格すらない。返せ。今すぐこっちに返せよ。これ以上汚い手でそれに触るな。腐っちまうだろうが!」
叫ぶと同時に、鬼畜野郎の右手の中にある白い箱をめがけて飛びかかる。
奪えるかどうかなんて、考えている余裕はなかった。というより、頭の中は真っ白だった。
百戦錬磨の相手に、そんなあたしの大雑把な攻撃が効くわけもない。鬼畜野郎はいともたやすく攻撃をかわすと、勢いのあまりよろけたあたしの後ろ髪をわしづかみにした。
あたしだって、破れかぶれのこんな攻撃がうまくいくだなんて思ってない。せめて一矢を報いることができればと思っただけだ。というか、肉体的な攻撃力でこの男にかなわないことなんか、初めから予測済みだった。予測済みだったからこそ、人目のない場所で二人きりなる状況を絶対に避けようと思ったんだ。そして、その予測どおり、あたしの攻撃は軽々といなされて、一矢を報いることすらできずに終わった。予測済みだったとはいえ、あまりにも無力な自分が情けなかった。
そして、こうなった以上、シバサキヤスヒロの体に相当の傷がつくのは必定だ。攻撃の痛みを引き受けてやれるとはいえ、無意味な上に危険すぎる行動をとってしまったことが、いまさらながらに悔やまれてならなかった。
――ゴメン、クマるん。
心の中で手を合わせつつ、右手のクマるんにそっと力をこめた時、クマるんが微かに動いたような気がしてドキッとした。でもすぐに、何かにすがりたくてそんな気がしただけだと思いなおす。こんな限界状況下で彼が意識を保っていることはあり得ないし、だいたい、すがるって何? 全部自分がまいた種で、自分でケリをつけるのが筋なのに。情けない。アホか。
鬼畜野郎は指輪の箱をポケットか何かにしまうと、そんなあたしの襟首を乱暴につかみ上げて、自分の方に顔を向けさせた。
「大目に見てりゃ、つけあがりやがって……なめてんじゃねえぞ、クソガキが」
鬼畜野郎は、憤怒の形相であたしをにらみ据えた。こめかみの血管は浮き上がり、血走った目はつり上がり、全ての抵抗が無駄に思えるほどの凄まじい殺気を全身にみなぎらせながら、右手の拳を高々と振り上げ、全ての怒りをその拳に込める。改めて、こんなヤツをここまで怒らせた自分の無謀さにあきれつつ、あたしも覚悟を決めて歯を食いしばった。
鬼畜野郎の拳が、うなりをあげて空を切る。
限界をこえた恐怖に、心臓が喉元までせりあがり、全身が凍り付いて、回避しようにも体は一分も動かない。固く目をつむり、呼吸を止めて、襲い来る衝撃を従順に待ち受ける以外、あたしにはもう為す術はなかった。