表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
101/112

101.一緒に、戦ってくれる?

 これまであたしが思い描いていた、今後の道筋。


 奨学金を元手に受験できる体制を整え、学費の安い、でもできるだけ社会的評価の高い大学を受験してそれなりの成績をとり、授業料免除の申請を行う。コイツの能力なら恐らく申請は通るはずだから、バイトを掛け持ちして生活費を賄いながら、それでなんとか勉強と生活を両立する。

 柴崎泰広の能力をもってすれば実現可能性は十分にあるとはいえ、確証のない仮定や希望的観測に基づいた、かなりきわどい想定なのは確かだ。セーフガードがなにもないため、一つでも仮定が崩れたり、ケガや病気など突発的な事態が起きたりすれば、一気に生活が立ち行かなくなる。それでも、たとえ危険な橋を渡ってでも、コイツの能力は生かす価値が十分にある。そう思ったからこそ、多少の無理は承知の上で進学する道を選んだんだ。


 でも、このきわどい想定を成り立たせるために、この家の存在は不可欠だった。


 どんなボロ家であったとしても、こと東京において家という資産の価値は計り知れない。一等地の物件ともなれば、土地代だけでかなりの元手になる。万が一の事態が起きてたとしても、家を売ってお金に換えれば、急場をしのぎ次につなげることも可能になる。

 しかも、この資産を失った場合、生活の拠点を作るために相当な対価を支払う必要が出てくる。つまり、毎月「家賃」という新たな支出が必要になるということだ。そうなれば、週末のバイトだけではとてもじゃないが全てを賄うことなんかできない。というか、学校を辞めてフルで働いたとしても、この不況だ。生きるだけでギリギリになるかもしれない。第一、新たな家を借りるには、それなりの初期費用も必要になる。現状、蓄財など無に等しいのだから、アパートを借りることもできずにネカフェ難民か路上生活堕ちになる可能性の方が高い。自炊もできず余計な出費が増え、健康を害する可能性だって出てくる。


 要するに、今この家を追い出されれば、これまであたしたちが描いていた将来設計が全て成り立たなくなるばかりか、高校に通い続けることも、最悪、生き延びられるかどうかすら怪しくなるということなのだ。


「わかったらそこをどけ。さっさと作業を終わらせてえんだよ」


 鬼畜野郎は面倒くさそうに吐き捨てると、ぼうぜんとしているあたしを右腕で乱暴に押しのけ、上がり框に積み上げてあった荷物の塊を一つを抱え上げた。車に積み込むのだろう、開け放った玄関扉はそのままに、それを抱えて外に出ていく。

 その刺激でとんでいた思考が現実に引き戻された。あわてて次にとるべき行動を模索する。


 とにかく、この家をたたき出されるわけにはいかない。何を主張して、どう行動すればその事態を回避できるか……焼き切れる勢いで脳細胞をフル回転させてみるも、こういう種類の限界体験は初めてな上に、たいした知識も経験も持っていないあたしのような青二才に、最適解が見つけられるはずもない。ほとんど面識のなかった、初対面に等しい戸籍上の父親からいきなり退去通告を受けて自宅から追い出される寸前なんていう限界状況、ネットを漁ったとて類似事例は見つかりそうにない。そもそも、法的にそんな暴挙が許されるんだろうか。もしかして、法律に詳しい柴崎泰広なら、このあたりの是非がわかるんじゃないだろうか……。 


 その時ようやく、右手に握りしめた状態で放置していたクマるんの存在を思い出し、ゾッと背筋に寒気が走った。

 緊迫した状況に気をとられて、避難させてやるのをすっかり忘れていたのだ。慌てて様子をみるも、気を失っているのか、ぐったりとして微動だにしない。トラウマのないあたしですらキツイのに、こんな至近距離であの鬼畜野郎に相対したのだから、とんでもない精神的負荷がかかったに違いない。気くらい失って当然だろう。すぐさま紙袋に放り込んでやればよかったと、怒涛のような後悔の念に苛まれ、クマるんを握る右手が震える。

 この瀬戸際の状況下、あたし自身がいっぱいいっぱいで、何かしら心の支えが欲しかったのは確かだ。だから無意識に、彼を握りっぱなしの状態で事に臨んでしまったんだろう。

 実際問題、あの鬼畜野郎をピンでなんとかできるだけの腕力も知識も精神力も自信も、残念ながら今のあたしには、ない。威勢のいい希望的観測ならいくらでも言えるけど、本当に実現できるかといえば不可能に近い。これまではどんな逆境も一人で乗り越えてきたと自負していたくせに、いざ勝率ゼロの戦いにピンで立ち向かう場面になったとたん、何かにすがらなきゃいられなくなるとか、要するにあたしの精神は、言うほどタフじゃなかったってことだ。


――ダメじゃん。


 あまりにも情けない事実を認識してしまい、ギリギリ保っていた気力の壁が崩れ落ちそうになる。

 そのとき。

 ふいに、あの時の柴崎泰広の言葉が脳裏をよぎった。


【僕は彩南さんに、もっと甘えてほしい】


 ハッと息をのんで、思わず呼吸が止まった。


【困ったことがあっても、いつもいつも彩南さんは一人で解決しようとする。一人で悩んで、一人で困って……何でも一人で考えて、何でも一人で始末をつけて……僕ってそんなに頼りないんですか】


 張りつめていた緊張の糸がほんの少し和らいで、凍りついていた思考がゆっくりと回り始める。

 おもむろに持っていた紙袋を玄関の端に置くと、ぐったりしているクマるんを、携帯ごと両手できつく握りしめた。


――ゴメン、情けなくて、恥ずかしいけど……もう少しだけ、ここで、こうして、あたしと一緒に、戦ってくれる? 気を失っているなら、大丈夫だと思うから……。


 心の中で両手を合わせてから、思いを新たに呼吸を整える。

 とにかく、即座に家を追い出される状況だけは、なんとしてでも回避しなければ。手のひらに触れている毛糸の感触を心の支えに、車に荷物を積み終え、門扉をくぐってきた鬼畜野郎に意を決して向き直る。


「いきなり出ていけとか、そんな勝手な話、聞けるわけがないんだけど」


「勝手だろうが何だろうが、聞くしかねえだろうが。契約が終わってんだから」


 鬼畜野郎は足を止めるでもなくそう言うと、上がり框で崩れそうになっていた巨大な荷物を持ち上げる。

 負けちゃダメだ。必死で有効そうな言葉を拾い、だだっ広いその背中に投げつける。


「いきなり未成年を路上に放り出すとか、それ、はっきり言って犯罪になると思うんだけど。あんたがもし本当に戸籍上の父親なら、あんたには、子どもの衣食住を整える保護責任が、……」


 乏しい知識を振りかざして食い下がってみるも、柴崎泰広ほどの説得力も持たせられないばかりか、鬼畜野郎に保護を求めるとか、実現したらヤバすぎる主張をしてしまったことに気づいて、語尾が不鮮明に立ち消えてしまった。

 鬼畜野郎はあたしの逡巡に気づいたらしい。服の塊を左手一本で抱え上げると、あたしを横目で睨め付けながら顔の下半分に悪魔的な笑みを浮かべた。


「へええ……おまえ、俺に扶養してほしいってか? この俺に? 構わねえよ。最終的には、おまえが俺を扶養する形になるとは思うがな」


 全身の毛が一気に逆立つ心地がした。

 その通りだ。コイツと暮らすということは即ち、コイツの身の回りの世話をさせられ、コイツの借金を返すために生きる奴隷に成り下がるということだ。大学進学どころか、高校に通い続けることだって不可能になるかもしれない。バカなことを口走ってしまった自分のわきの甘さに愕然として気が遠くなる。

 そんなあたしを鼻で嗤うと、鬼畜野郎は踵を返した。


「ま、俺もそこまで物好きじゃねえし、おまえみたいなのと暮らそうなんてアホなことは考えてねえから安心しな。明日にでも養子縁組離縁届を持ってくっから、そこにサインしろ。それで、俺とおまえは晴れて縁もゆかりもない赤の他人になれる。おまえだって、その方が清々するだろ?」


 鬼畜野郎の不気味な笑みを眺めながら、その言葉の裏にある真意を読み取ろうと脳細胞を必死でフル稼働する。 

 確かに、こんな鬼畜野郎との関係は切った方がいいのは確かだ。正直言えば、今すぐ切って目の前から消えてほしいくらいだ。

 だけど、それはすなわち、この「家」という資産に関わる相続権をすべて放棄することと同義になるんじゃないだろうか?

 家という資産を失ったら、柴崎泰広には本当に何も残らない。そんな状態で、この先何年無事で生き延びられるだろう? ギリギリで生きることだけはできたとしても、コイツが持っている高い能力をなにひとつ生かしてやることができず、貧困の鎖に足をとられながら、ただ生きていくだけの日々を送ることしかできなくなってしまうのではないか。持続可能な明るい見通しが何一つ思い浮かばない。

 明るい見通しの持てない選択は全力で回避しなければならない。どうすれば穏便に回避できるか、どうすれば有益な方向につなげられるか……考えてはみるものの、相続などの法が絡んでくるとなると、問題が高次元過ぎてあたし程度の知識では手も足も出ない。どう考えても、専門家に助けを乞うのが最善だ。いくらかかるか知らないけど、相談できる専門家を見つけなければ。取りあえず、こんな玄関先ではなにもできない。部屋でじっくり情報を調べて策を練りたい。


「そのなんちゃらって書類が明日ってことは、とりあえず今夜はここで寝泊まりして構わないってことだよね」


 鬼畜野郎は服の塊を抱えて外に出ていきかけていたが、あたしの言葉にピタリと足を止めた。ゆっくりと首をめぐらせ、血走った目であたしを上方から睨み下ろす。


「……おまえ、俺と今夜一晩、一つ屋根の下にいるつもりなのか?」


 含みを持たせたその言葉にゾッとした、刹那。

 鬼畜野郎の巨大な右手が、いきなりあたしの前髪をわしづかみにした。


「……⁉」


 鬼畜野郎は抱えていた荷物をたたきに放り出し、掴んだ前髪を引いて、あたしを強引に玄関内に引きずり込む。玄関扉の閉まる低い音と、鍵をかける音が響いた気がした。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 心臓が縮み上がり、背筋が凍り付いて、精神活動が数刻完全に停止する。


 鬼畜野郎は玄関わきの下駄箱にあたしの体を押し付けると、自分より十センチほど背の低いあたしの顔を覗き込みながら、酒とタバコがブレンドされた生臭い息を吐きかけつつ、地を這うような声音で言葉を継いだ。


「俺も今夜、ここに泊まって片付けをしなきゃならねえんだが? おまえがどうしてもここにいてえってんなら別に止めねえが、このムカつくツラを俺の前にさらし続けた結果、何が起こるかわからねえってことだけは予め言っておくからな」


 深い憎悪のたぎる、黄色く濁って血走った目。その目に射すくめられたとたん心臓が凍り付いて、身動きひとつすることができなくなった。掴まれている前髪の痛みすら感じられない。臆病な右手が震え始めて、思わずクマるんをきつく握りしめてしまう。

 鬼畜野郎はそんなあたしを睨めつけながら、忌々しげに奥歯をきしませた。


「この顔……こんなもんを一晩中眺め続けてたら、抑えきれる気がマジでしねえわ……あの女が死んだのだって、ある意味おまえが原因みたいなもんだからな。手を出さないですませられるかどうか、正直、俺もよくわかんねえんだわ」


――え?


 その言葉に、恐怖で竦みかけていた思考がたどたどしく回りだす。


「おまえが原因って……どういう意味?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ