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100.殺したの?

 あっという間に日は暮れ、自宅に帰る時刻になった。

 状況はまるっきり昨日までと変わらず、つまり何が起きるかわからない状態なのだけれど、腹の内をさらけ出し、コイツの前で何一つ取り繕う必要がなくなったせいか、昨日より気分は落ち着いていた。

 柴崎泰広自身も、今日は今までにないくらい安定感のある仕事ぶりで、何かこう、すっと背筋が伸びたような、一本芯が通ったような印象をうけた。あたしの調子が悪ければ、まる一日仕事を任せても大丈夫そうなくらいだった。

 この様子なら、たとえ家の前であの男たちと鉢合わせをしても、直接彼に応対させるようなマネさえしなければ、きっと大丈夫だ。

 そんな確信めいた思いを抱けたせいか、クマるん補修用の毛糸を買ったり食材を仕入れたりして寄り道しながら、まるっきり普段通りの安定した心持ちで帰宅の途につくことができた。昨日はあれほどビクビクしながら曲がったあの角に差し掛かっても、心拍数が上昇カーブを描くことはなかった。歩くスピードはそのままで、クマるんにカバンに入るかどうかだけ短い言葉で確認すると、クマるんもあたしと同じような心持ちだったのかやけに落ち着いた送信で、そのままでいいと短く返してきた。

 ただ、ついこの間、あれだけ凄まじい身体反応を見せつけられた側としては、いくら本人が大丈夫と言っても一抹の不安は残る。もし万が一、角を曲がってあの男の車が見えたら即座にクマるんはカバンに放り込もうと、右手を中途半端なケツポケ寄りの位置に固定した状態で角を曲がる。

 視界にうつりこんできたあの家の前に、黒い車の姿はなかった。

 ほっと肩の力が抜けるのを感じて、なんだかんだ言って多少は緊張していたんだなと苦笑めいた笑みを片頬に浮かべつつ、構えていた右手を下ろす。いくぶん軽い足取りで門扉の前までたどり着くと、よどみなく鉄製扉を押し開き、鍵を開け、玄関扉を開ける。 


 その途端。

 視界に飛び込んできた光景に、あたしの思考は完全に凍り付いた。


 上がりかまちに乱雑に積み上げられた荷物の山。お母さんのものらしき、たんすの奥深くにしまわれていて、あたしも家を片付ける際に一度は見たけれど決して触らないようにしていた洋服やバッグなどが、大ざっぱにビニールテープで括られ、積み上げられている。荷物の山の傍らには梱包こんぽうに使ったと思われるビニールテープ一巻きとハサミが転がり、樟脳しょうのうの濃い香りが、鼻腔びこうに刺々しく突き刺さる。


「なに、これ……」


 予想の斜め上をいく展開に思考が完全に停止してしまい、どういう行動をとるべきかが全く分からなくなってしまった。ケツポケにぶらさがるクマるんを回収することすら忘れ、ぼうぜんと立ち尽くしてその様を眺めていると、どこからか、車のエンジン音が響いてきた。

 そのエンジン音は、家の前でピタリと停止した。

 嫌な予感に胸を締め付けられながら、息をひそめて動向をうかがっていると、車のドアの開閉音の後に、鉄製門扉のきしむ音が畳みかけるように続いた。

 誰かが入って来る。

 悪寒が背筋を駆け上がり、冷たい汗が流れ落ちる。胸の中央で暴れまわる心臓をなだめつつ、恐る恐る首をめぐらせて黒々とそびえたつ玄関扉に目を向ける。

 鍵穴に鍵が差し込まれたらしい乾いた音が響き、先ほど開けた玄関ドアの鍵が軽い音をたてて閉まる。扉が開いていたとは思わなかったのだろう。勢いよく引かれたドアの動きが鍵に遮られて止まると、不審げな一拍の間の後、再び鍵が差し込まれ、鍵が外れる乾いた音が響いた。先程より心持ちゆっくりと、玄関の扉が開いていく。

 扉を開けた人物は、中に立ちつくすあたしを見るなり驚いたように玄関扉を開ける手を止めると、黒々とした眉を引上げ、一重の目を精いっぱい見開いた。


「まさか、おまえ……泰広か?」


 前園教諭によく似た雰囲気をまとうその人物は紛れもなく、あの時に見た鬼畜野郎に違いなかった。

 玄関扉の外は、中より一段低くなっている。にもかかわらず、ヤツの目線はシバサキヤスヒロより数センチ高い。そんな相手と超至近距離で睨み合うのは、正直かなりの重圧だ。そのせいか、ついさっきまではどんな状況にも対応できると確信していたはずなのに、体が凍り付いたように動かなくなってしまった。一方、鬼畜野郎の方もさすがに予想外の展開だったらしく、玄関扉に右手をかけた姿勢で凍っている。

 このままにらみ合っていてもらちが明かない。気持ちを無理やり奮い立たせ、やっとのことで喉から絞り出した声は、情けなくかすれて上ずっていた。


「あんたは……」


 そんなことは聞かずもがなだ。とはいえ、ここから始めなければ会話が成立しない。加えて、この鬼畜野郎が自分のことをどう表現するかに少しだけ興味があった。

 いかにも弱々しく問いかけられ、鬼畜野郎は気分的に優位に立ったらしい。大きく開け放った玄関扉に寄りかかって腕を組み、口の端を引き上げて不遜な笑みを浮かべた。


「覚えてねえのか。まあ、ちゃんと物が分かる年齢になってから、まともに顔を合わせんのは初めてだからな。俺は……そうだな、戸籍上、おまえの父親ってことになってる人間だ。つまり、俺はこの家の正当な所有者ってことになる。つーことで、悪いがそこをどいてくれるか。今、作業中なんでな」


 鬼畜野郎は、状況説明どころか自分の名前すら省いた大ざっぱすぎる自己紹介を済ませると、さっさと思考を自分の目的に切り替えた。あたしたちに説明すべき全ての情報を無理やり「作業中」という短い言葉に丸め込み、当然のように上から目線で指示してくる。

 鬼畜野郎というカテゴライズにふさわしいふざけた対応をしてくれたおかげで、脳のギアが戦闘モードに切り替わって、止まりかけていたエンジンが再始動した。呼吸を整えて、鬼畜野郎に正面から相対する。


「作業って、なんの?」


 できるだけ強い目線で睨みつけつつ、普段より二オクターブ低い声で問うも、鬼畜野郎はさも面倒くさそうに鼻でため息をつくと、問いかけとは全く関係ないことを独り言のように語り始めた。


「……全く、何度訪ねてきてもさっぱり会えねえから、てっきり母親の後でも追ったのかと思いきや、いざ作業を始めようと思ったとたんに超至近距離でこの不愉快な面を拝まなきゃならなくなるとはな……つくづく、俺とおまえは相性が悪いとみえる」


 言葉を止めると目線を上げ、突き刺すようにあたしを睨みつける。

 心臓が縮み上がる心地がした。

 いかにもガラの悪そうな体格のいい中年男に、こんな至近距離から、ここまで明確な憎悪の視線を浴びせられたことなど、これまで経験したことはなかった。それなりの修羅場をくぐってきているとはいえ、とりあえずあたしは女だったし、わりとうまく人生を泳いでいたから、異性からこれほどまでの憎悪の目線を向けられる機会など持ちようがない。 

 だからといって、ビビってるのを覚られたら負けだ。引きかけた足を必死でその場に残すと、精いっぱい目に力をこめて睨み返す。

 男は刺すような目でそんなあたし――シバサキヤスヒロの顔を睨み据えながら、吐き捨てるように言葉を継いだ。


「しっかし、……おまえ、マジであの男にそっくりになりやがったな。小せえ頃も似てるとは思ったが、そんなモン目じゃねえレベルだわ。そのムカつく顔、誰だかわかんなくなるまでギッタギタにたたきつぶしたくなってくんな」


 ただの脅しとは思えない本気度がビリビリ伝わってくるその言葉に、戦慄せんりつが背筋を一気に駆け上がった。

 ヤバい。コイツ、マジもんの鬼畜だ。

 虐待の話を聞いた時、虐待者がどんな人物かはいろいろ考えた。お母さんという人物が後を追って家を出たことを考えると、お母さんにはいい顔をして、子どもに対する時だけ残虐性を出すとか、もうちょっと斜に構えた人物像も予想したのだけれど、そんな生ぬるい予想なんかまるっきり必要なかった。どこをどう切っても混じりけのない、正真正銘二百パーセントの鬼畜野郎だった。

 指先が震えだすのを感じた。

 これは恐怖じゃない。怖くないと言ったらウソになる。でも、腹の底からふつふつと湧き上がってくるこの思いは多分、……怒りだ。

 柴崎泰広をこんな目に遭わせた張本人。そいつが今、あたしの目の前にいる。留守中、勝手に人の家に上がり込み、亡くなった彼のお母さんの荷物を勝手に漁り、しかもその行動について一切の説明をしないという、予想をはるかに上回る鬼畜ぶりを発揮しながら。恐らくお母さんが持っていた、鍵や印鑑、この家に関する重要書類なんかを手に入れるためだろう。法律的にどうかは知らないけど、あたしの感覚的にこれは犯罪以外のなにものでもない。ここまで完璧な鬼畜ぶりを発揮してくれると、対応を迷わないで済む分、気が楽なくらいだ。

 このど腐れ鬼畜野郎と、正面からやりあえる。この震えはもしかしたら、武者震いに近いものかもしれない。

 柴崎泰広は今、クマるんの姿だ。もし万が一危険なことがあっても、最低限、彼が肉体的なショックや痛みを感じることはない。ただ、こんな鬼畜野郎とのやりとりを聞かせ続けるのは、彼の繊細な神経にとって相当な負担であることは確かだ。やりあうにしても、クマるんをどこか会話が聞こえない場所に避難させてからの方がいい。鬼畜野郎の顔をにらみつけながら、手だけを背後のケツポケに伸ばし、クマるんをそっと手に取る。

 刹那、ふいに鬼畜野郎が動いた。苦笑めいた笑みを鼻先にぶら下げ、肩をすくめてクスクス笑い始める。緊張していたせいか不覚にも心臓が跳ね、思わず動きを止めてしまった。

 鬼畜野郎はあざけるように笑いながら、そんなあたしをゴミを見るような目で眺め下ろした。


「……なに固まってんだよ。んなことするわけねえだろ。おまえみたいなゴミ、手を汚してぶっ殺す価値もねえから安心しな。つか、さっさとそこどけや。そこに出してある荷物を車に積み込むんだよ。家の前に路駐してっと、クソうるせえ隣近所のジジババが文句言ってきやがるからな。さっさと積み込んで移動してえんだよ」


「荷物って……これ、母のものなんだけど」


「あいつは死んだ」


 知ってるよそんなこと。

 知ってはいるけど、そんな重大なことを、こんな突っ慳貪でおざなりな言い方でしか伝えられないなんて、マジでこいつアホだ。鬼畜な上にアホ野郎だ。

 昨日、涼子さんが訪ねてきてくれて本当によかった。あの事実をこの男から初めて、しかもこんな形で知らされたんだとしたら、あたしだって立ち直れるかどうかわからない。

 クマるんをつかんでいる右手に、知らず力がこもる。


「……あんたが、殺したの?」


 男は意外そうに眉を上げると、唇の端をひきつるようにつり上げた。


「はあ? おもしろいこと言うじゃねえか。おまえ、あの女が死んだ理由、知ってんのか?」


「……別に。そんな気がしただけ」


 緊張しているせいか女言葉がどうしても出てきてしまうけど、別にこんなヤツにどう思われようと構わないし、柴崎泰広だってそんなことを気にしてる余裕はないはずだ。


「それより、母の荷物をどうするのかって聞いてんだけど」


 あたしがいっこうにひかないので少しイラついたらしい。鬼畜野郎は軽く眉根を寄せると、口角を不機嫌そうにひき下げた。


「うっせーな。売るんだよ。つってもまあ、ゴミみたいなもんしか残ってねえけどな」


 吐き捨てると、三白眼を光らせてあたしを睨み下ろす。


「おまえのモンも売っちまおうかと思ったけど、ま、生きてるか死んでるかはっきりしねえうちからそんなことをするほど俺も無慈悲じゃねえからな。ただ、あさってには家ん中をすっからかんにしねえと作業に支障が出る。そん時に残ってたモンは強制的に処分させてもらうんで、そのつもりでいろ」


――え?


 言われた言葉の意味が理解できなかった。


「……どういうこと?」


 問いかけると、鬼畜野郎はいかにも楽しげに片頬を引き上げた。


「この家は売った。あさって引き渡しの予定だ。それまでに立ちのいてもらう。そういうことだ」


 その言葉の意味を理解するのに、数分を要した。


――売った? 立ちのき?


「そういうこと、って……、どういう……」


「どういうもこういうも、言葉どおりだろうが」


 鬼畜野郎は両手をポケットに突っ込むと、ニヤニヤしながらあたしの顔を覗き込んだ。


「この家はもう他人のモンなんだよ。だから、おまえは今すぐここから 出 て い け。わかったな」


 鼓膜が膿みそうなほど気色悪い鬼畜野郎の声が紡ぎ出す、予想のはるか上空一万メートル上をいく冷酷な現実を前に、あたしは数刻クマるんを右手に握ったまま、為すすべもなく立ち尽くしているしかなかった。

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