第四話「断罪」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
宮廷に、噂が広まった。
フォン・ヴァイス家の令嬢が、正気を失った、と。
謁見の間に廷臣が集まり、宰相が声を上げた。
「フォン・ヴァイス嬢を早急に追放し、婚約破棄を正式に確定させるべきです。王太子殿下の御名に傷がつきます」
「殿下、いかがなさいますか」
セドリックは、玉座の前に立っていた。
三日間、眠れなかった。
記憶が——断片が——止まらなかった。
エルナが笑っている。エルナが泣いている。エルナが、自分の名を呼んでいる。
何十回も。何百回も。
俺を愛していた。
俺だけを。どの人生でも。何をされても。それでも。
「……婚約破棄を」
セドリックは口を開いた。
廷臣たちが、頷きかけた。
「撤回する」
静寂。
「は?」
「撤回すると言った。聖女は帰国させろ。俺の妃はエルナだ。エルナ以外にいない」
廷臣がざわめき立った。しかしセドリックはもはや聞いていなかった。
早足でエルナの部屋へ向かった。
扉を開ける。
エルナが——振り返らなかった。
窓際に立って、外を見ていた。
「エルナ」
「噂は聞きました」
エルナは言った。
「婚約破棄の撤回。でも、結構です」
「結構だと——」
「殿下がどうしようと、私にはもう関係のないことです」
セドリックは歩み寄った。
「お前が関係ないはずがない」
「私は」
エルナはくるりと振り返った。
その手に——光るものがあった。
セドリックの護身用の短剣。いつの間に抜き取ったのか。
「もう、疲れました」
エルナは言った。
「今回も、きっとまた同じです。殿下は私を縛って、愛していると言って、また捨てるのです」
「違う——」
「同じです。百回、見てきました」
エルナは短剣の切っ先を、自分の喉元へ当てた。
「だから、今度は私が決めます」
「やめろッ!」
セドリックが飛びかかった。
短剣を掴む。手を切った。血が出た。それでも、力ずくで奪い取った。
エルナは抵抗しなかった。
ただ静かに、セドリックを見ていた。
「返してください」
「返すものか」
「……殿下」
エルナは言った。
「お願いです。早く、終わらせてください」
その声は——初めて、かすかに揺れた。
感情のない声に、ほんの一欠片だけ、疲れ果てた子どもみたいな響きがあった。
「もう、頑張れません」
セドリックは短剣を床に叩きつけた。
そして——エルナを、抱きしめた。
力いっぱい。
エルナは動かなかった。
抵抗もしない。受け入れもしない。
ただ、人形のように、されるがままだった。
しばらくして——エルナは言った。
「……殿下は、私の笑顔がお好きでしたね」
「エルナ——」
「今もよろしいですか」
そして。
エルナはセドリックの胸の中で、微笑んだ。
完璧な、笑顔だった。
目が——まったく笑っていない。
口の端だけが上がって、かつてセドリックが「その顔が好きだ」と言い続けたあの形を、正確に再現していた。
機械のように。
義務のように。
「……やめろ」
セドリックは、声を絞り出した。
「そんな顔をするな」
「笑っています」
「やめろと言っている」
「昔の殿下は、喜んでくださいましたのに」
セドリックは歯を食いしばった。
抱きしめる腕に、力を込めた。
これが——俺が求めたものか。
この空っぽの笑顔を。
この、中身が何もない、エルナの顔を。
「俺が悪かった」
セドリックは言った。
「全部、俺が悪かった。百回。百回ぜんぶ、俺が——」
「もう結構です」
エルナはつぶやいた。
「謝られても、何も戻りません」
「わかっている」
「では、なぜ」
「お前に死なれたくないからだ」
エルナは、少しだけ沈黙した。
「……それは、殿下のわがままです」
「そうだ」
「……」
「俺のわがままだ。それでも、死ぬな」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
エルナは長い間、黙っていた。
笑顔の形は、もう消えていた。
やがて、力なく言った。
「……私を、どうするつもりですか」
セドリックは、腕の力を強めた。
「二度と、逃がさない」
それは——愛の言葉ではなかった。
呪いだった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
次話へ続く
婚約破棄を撤回し、愛を叫んでも、彼女の喉元には刃が添えられたまま。
「もう、頑張れません」というエルナの悲鳴のような独白を書きながら、作者も胸が締め付けられる思いでした。
セドリックが選んだ「死なせないための呪い」を、皆様はどう感じられたでしょうか。




