第三話「記憶の奔流」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
次の日の朝、セドリックはエルナの部屋へ駆けた。
理由など、ない。
ただ、あの夢が頭から離れなかった。
夢ではない気がした。記憶だ。どこかに確かに刻まれた、記憶。
「エルナ!」
扉を叩いても、返事がなかった。焦りのまま開けると——エルナは庭へ続く回廊に立って、鳥かごの扉を開けていた。
中から、白い小鳥が飛び立っていく。
「……何を」
「逃がしてやりました」
エルナは言った。
「死後、餓死させては可哀想ですから」
セドリックは部屋へ踏み込んだ。
「お前は——本当に死ぬつもりでいるのか」
「追放先では、そう簡単には生き延びられません。殿下もご存知でしょう」
「だからといって——」
「いいえ」
エルナはやっとセドリックの方へ顔を向けた。
「早く終わりたいと、思っています」
静かな声だった。
感情がない。
「殿下。私は疲れました。ずっとずっと、疲れているのです。ですから、どうか早く終わらせてください」
セドリックは——気づけば、エルナの腕を掴んでいた。
「何を——」
言いかけた瞬間。
閃光。
目の前が白くなった。
声が聞こえる。
やめてくれ。
映像が流れ込んでくる。
断頭台。エルナが跪いている。首が、落ちる。
毒杯。エルナが口をつける。苦しんで、床に倒れる。
雪原。エルナが倒れている。凍えた唇が、かすかに動いている。
何度も。何度も。何度も。
全部——俺だ。
俺が、殺した。
この手で。この命令で。何度も、何度も——
セドリックは床に崩れ落ちた。
膝から崩れ、手をついて、呼吸ができなかった。
頭の中が割れるようだった。
吐き気がした。自分という存在が、汚泥でできていると感じた。
「殿下」
エルナの声が、遠くから聞こえた。
「あら、体調が悪いのですか」
冷たい声だった。
「処刑人が病気では困ります。日程が狂ってしまいます」
「……処刑人」
「はい。殿下はいつも、最後には私を殺しますから」
エルナは、セドリックの手が自分の腕を掴んでいるのを、ただ静かに見下ろした。
「今すぐ殺してくださっても構いませんよ。待っていますから」
「俺が——俺がお前を——」
「ええ。何度も。でも、もう慣れました」
慣れた。
その言葉が、セドリックの胸に突き刺さった。刃のように。
「慣れただと……」
「痛いのは最初だけです。何度もされると、慣れます」
エルナはかすかに首を傾けた。
「早く立ってください。床は冷えます。処刑人が風邪を引いては困ります」
セドリックは彼女を見上げた。
光のない目。
感情のない顔。
これが——俺が、作ったのか。
俺が、百回かけて、壊したのか。
喉の奥から、何か熱いものが込み上げた。嗚咽でも、怒りでもない。もっとどろどろとした、もっと醜い、名前のつけられない何かが。
セドリックは、床に手をついたまま、声を出した。
それは泣き声でも叫び声でもなかった。
ただ、動物のような——低い、絞り出すような音だった。
エルナは微動だにしなかった。
見下ろしていた。
「……泣いているのですか」
「……ッ」
「そうですか」
エルナは静かに言った。
「殿下が泣いているのを、見たことがありませんでした」
「……エルナ」
「でも、遅いですよ」
一言だった。
ただ、それだけだった。
遅い。
セドリックは——その二文字に、完全に打ち砕かれた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
エルナは踵を返した。
行ってしまう。
「待て」
セドリックは床から立ち上がれないまま、手を伸ばした。
「俺は——お前に、何をした」
エルナは振り返らなかった。
「さあ。私には、もうどうでもいいことです」
どうでもいい。
その四文字が、セドリックの中で何かを決定的に壊した。
——今度こそ、絶対に逃がさない。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
次話へ続く
お読みいただきありがとうございます。
ついにセドリックが、自分がしてきた「99回分の加害」を思い出しました。
自分が殺した女に「処刑人が病気では困ります」と心配される絶望。
壊してしまったものは、謝罪ひとつで元に戻るほど、安っぽくはないようです。




