第二話「壊れていない、消えたのだ」
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婚約破棄の宣告は、翌朝に行われた。
謁見の間。廷臣たちが居並ぶ中で、セドリックは立った。隣には、隣国から来た聖女——リーナが、慎ましやかに俯いていた。
美しい女だった。
光の魔法を使い、民に癒しを施し、どこへ行っても崇められる女。
「エルナ・フォン・ヴァイス。そなととの婚約を、ここに解消する」
廷臣がざわめいた。
エルナは、ざわめきを聞いていなかった。
「左様ですか」
それだけだった。
泣かない。怒らない。食ってかからない。
ただ静かに頷いて、一歩下がった。
「婚約解消の理由は——」
「不要です」
エルナが遮った。
「存じております。聖女殿の方が、私より優れているということでしょう。ごもっともです」
「エルナ——」
「一つだけ、お聞かせ願えますか」
エルナはようやくセドリックを見た。
見た——というより、見通した、という方が近かった。
まるで、セドリックの向こう側にある何かを視ているような目。
「今回の処刑は、どのような方法で?」
「……は?」
「断頭台ですか。毒ですか。それとも、また流刑先で『行方不明』にしますか」
謁見の間が、しんと静まった。
「処刑などと言っていない。婚約破棄だ」
「……そうですか」
エルナはかすかに目を細めた。
「では今回は、追放先で勝手に死ぬのですね。それでも構いません。どちらにせよ、同じことですから」
くるりと背を向けた。
「失礼いたします」
誰も止めなかった。
廷臣たちは困惑し、リーナは俯き、セドリックだけが——エルナの背中を、呆然と見送った。
なぜだ。
なぜ、胸が痛い。
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その日の夕刻、セドリックはエルナの部屋の前に立っていた。
扉を開けると、エルナは鏡台の前に座っていた。
宝石のついた髪飾りを、一つずつ外している。
「……何をしている」
「身辺整理の続きです」
「昨日も言っていたな」
「ええ」
エルナは振り返らなかった。
「どうせ持っていけませんから。着替えと、少しのお金があれば、死ぬまでは生きていられます」
「死ぬまでは」
「それ以上の意味はありません」
セドリックは、胃の底に石を飲み込んだような重さを感じた。
「そんなに死を恐れないのか」
エルナはようやく振り返った。
その目は、穏やかだった。
凪いでいた。
嵐の後の、何も残っていない海のように。
「恐れていません」
エルナは言った。
「ただ、少し疲れているだけです。殿下——今回は、何もしないと決めたのです」
「何もしない?」
「はい」
エルナは鏡台の一番上の引き出しを開けた。小さな、古い香水瓶を取り出す。
迷いなく、窓の外へ捨てた。
「エルナッ——」
「高い香水ではありませんから。ご安心を」
セドリックは言葉が出なかった。
あの女が——あの、いつも自分の顔色を伺って、少しでも振り向いてもらおうと懸命だったエルナが——
今、自分を見ていない。
完全に、見ていない。
その事実が、セドリックの中で、何か異様に大きな恐怖として膨らみ始めていた。
そのとき。
エルナは鏡を向いたまま、何かを始めた。
口の端を、わずかに上げた。
目だけが動かないまま、唇だけが——弧を描いた。
かつてセドリックが好きだった、あの微笑みの形に。
「……エルナ?」
「笑顔の方が、よろしいですか」
エルナは言った。
感情のない声で。
「昔の殿下は、私のこの顔がお好きでしたから。でも今はもう、中身がありません。形だけでよければ、いつでも」
セドリックは、息が止まった。
形だけ。
中身がない。
かつて自分が何度も求めた顔が、今や、抜け殻として目の前にある。
それが——罵倒よりも、泣き声よりも、ずっと深く、セドリックの何かを傷つけた。
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その夜、セドリックは夢を見た。
断頭台。
血。
首を落とされる寸前に振り返ったエルナが——微笑んでいた。
あの、形だけの微笑みで。
「やっと、終われます」
目が覚めた瞬間、セドリックは自分が叫んでいたことに気づいた。
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次話へ続く
断罪の場で「処刑方法」を逆質問するヒロイン。
99回分の死を経験した彼女にとって、婚約破棄は悲劇ではなく、単なる「作業工程」に過ぎません。セドリックが夢で見た光景は、果たしてただの悪夢なのでしょうか。
次回、二人の運命が決定的に狂い始めます。




