第5話「試練に耐え抜く者は幸いである」
試練に耐え抜く者は幸いである
“Blessed is the one who perseveres under trial.”
――ヤコブの手紙 1:12
熱ではなかった。
発熱なら、まだわかりやすい。皮膚が赤くなり、関節が重くなり、それが外側から感じ取れる。だが今体の奥で広がっているのは、そういう種類のものではない。熱より先に、神経そのものが細かく震えているような感覚だった。皮膚の下、筋肉の裏、骨の表面をなぞるように、電流より細く、痛みより先行して、何かが走り続けている。
呼吸は荒い。
肺の容量が変わったわけではないのに、空気の入り方が浅い。吸っても吸っても、酸素が体の奥まで届いていない気がする。吐き出すたびに喉の奥がざらつき、次を吸う前に少しだけ躊躇が生まれる。
視界も、少しずつ狭くなっている。
中心は見えている。だが、端が薄い。光量が落ちたのではなく、認識できる範囲が収縮している。それが律式の使いすぎによるものなのか、別の何かによるものなのか、今の俺には判別できなかった。
それでも俺は、狂骨を握ったままイツキから目を逸らさなかった。
さっきの一撃は届かなかった。
だが、完全に捌かれたわけでもない。
あの一瞬、確かにイツキは俺を見て、俺の変化を認めた。
そう思えたからだ。
「続けるか」
イツキが言う。
確認の声だった。
挑発でも、試すための圧でもない。
ここで下がるなら、それでもいい。
たぶん、そういう意味だ。
俺は一度だけ呼吸を整えた。
肺の奥に張りついていたざらつきが、まだ抜けない。
「……やる」
その返事に、イツキは短く頷いた。
義足の側へほんのわずかに体重を移し、半身になる。さっきまでより低い構えだった。手加減を一段外したのだと、言葉にしなくてもわかった。
周囲の音がまた遠ざかる。
鬼塚の怒鳴り声とアリスの発砲音。
高野の端末が鳴らす警告音にマルコの祈り。
壁際で九条が端末へ指を走らせるかすかな電子音。
それら全部が聞こえているのに、意識の中心にはイツキしかいない。
俺は左へ半歩ずれた。
正面からは行かない。
さっきと同じだと思わせる。
イツキの視線が、刃先へ落ちる。
その一瞬を待っていた。
狂骨を大きく振りかぶる。
肩を狙う軌道。
誰が見てもそこへ来るとわかる刃筋。
だが、本命は違う。
踏み込む直前に刃を止め、重心だけを前へ滑らせる。
低く、さらに低く。膝が床すれすれまで沈む。
狙うのは上じゃない。
義足側の軸足、その着地のわずかな遅れだ。
「――っ」
届く。そう思った。
その瞬間、イツキの肘が落ちてきた。
早い。
いや、違う。
俺が入ってくると最初から読んで、そこへ壁を置いていた。
狂骨の切っ先が弾かれ、衝撃が手首から肩へ突き抜ける。体勢が崩れる。
だが今度は転ばない。右足を半歩引き、踏みとどまる。
「いい目だ」
イツキが低く言った。
胸の奥で何かが弾けた。
褒められた、と認識するより先に、体の方が反応した。肩の力が一瞬だけ抜け、狂骨を握る指先が無意識に緩む。それに気づいた瞬間、別の感覚が追いついてくる。
違う。
これは終わっていい場面じゃない。
認められた、という事実は本物だ。否定しない。だが、それに浮かれた瞬間に次が鈍くなる。鈍くなれば届かなくなる。届かなければ、この一言に意味がなくなる。褒められたことへの喜びを、そのまま次の動きの燃料にしなければ、ただ立ち止まっただけになる。
掌の中で、狂骨の柄を握り直す。
さっきより、少しだけ深く。
胸の熱は消えていない。
ただ、その熱を別の場所へ流した。
俺は間合いを切らず、そのまま刃を返した。
横薙ぎ。
速さではなく、連続を優先する。
受けられてもいい。
その次の動きへ繋がればいい。
イツキの掌が来る。
そこへ合わせて、今度はあえて刃を浅く引いた。
接触の瞬間、力を逃がす。
弾かれる角度を利用して、逆方向へ体を回す。
自分でも驚くほど自然に足が動いた。
体が先に知っている。
先程言われた言葉が、今さらのように腹へ落ちる。
風を裂く音。
作業服の袖が震える。イツキの肩がわずかに揺れた。
掠った。
本当に、紙一枚ぶんだけ。
それでも、今まで一度も触れられなかった相手へ、初めて届いた。
「おおっ!」
遠くで鬼塚の声が上がった。
「やるじゃねえか、睦月!」
アリスの銃声が一拍遅れて響く。
「見てる場合じゃないですよ、鬼塚さん!」
「見ちまうだろ、今のは!」
高野の端末が短く警告音を鳴らした。
「……出力上昇。睦月さん、そのままだと危ないです」
言葉の最後が少し震えている。
俺を止めたいのか、記録を優先したいのか、高野自身にもまだ整理しきれていない声だった。
九条は何も言わない。
だが、壁際の青白い光の中で、彼女の視線だけが鋭く細くなっていた。俺の動きそのものではなく、その背後で跳ね上がっている数値を見ているのだろう。
イツキは一歩下がった。
肩口の布地に、浅い裂け目が走っている。わずかだったが、確かに俺が刻んだ傷だった。
「……今のは悪くない」
その一言が、妙に重かった。
嬉しい。
だが、喜びだけでは終わらない。
体の内側では、別のものも動き始めていた。
右腕の深いところが、遅れて痛んだ。
表面ではない。
皮膚の下でもない。
もっと内側。
神経の裏を爪でなぞられるような、不快で細い痛み。呼吸をするたび、それが少しずつ広がる。
指先の感覚が薄くなる。
だが、力は抜けない。
まずい。
頭のどこかでそう判断していた。
でも、もう一回だけ。
あと一度だけなら押し込める。
そんな考えが、判断の上から覆い被さってくる。
「睦月さん」
高野の声がした。
「その波形、さっきと違います。……一度切った方が――」
「続けろ」
高野の声を切るように、イツキが言った。
厳しさではなく、確信だった。
高野も口を閉ざす。
たぶんイツキは俺の状態を見て、それでもまだ行けると判断したのだ。
そう思った瞬間、悔しさと信頼が妙な形で胸の中に混ざった。
俺は狂骨を構え直した。
柄が熱を持っているのか、俺の手が熱いのか、もうよくわからない。
「来い」
短い声。
今度は俺から待たない。
踏み込む。
一歩目は正面。
二歩目で切る。
三歩目で戻る――そう見せる。
イツキが掌を開く。
受けるつもりだ。
なら、その受けをずらす。
三歩目を消した。
戻るはずの重心を、そのまま前へ落とす。
狂骨を真上からではなく、斜めに潜らせるように滑らせる。肩を狙うふりではない。
今度の本命は、掌に受けさせることそのものだ。
真正面からぶつけて、どこまで通るか試す。
「――ッ」
空気が唸った。
刃と掌が正面からぶつかる。
金属音ではない。
量子場同士が擦れ合うような、耳の奥に直接響く異音。
全身の関節が内側からずれる。
視界が一瞬白く飛んだ。
足裏の感覚が消える。
肺が熱い。
指が痺れる。
それでも、押した。
俺が押す。
イツキが受ける。
その均衡が、ほんの一瞬だけ成立した。
「……いい」
イツキの声が、真正面から落ちてきた。
次の瞬間、俺の膝が崩れた。
掌から狂骨が抜けかける。
床へ片膝をつき、激しく咳き込んだ。
喉の奥が焼ける。
血が出たかと思ったが、出なかった。
ただ息だけが乱れる。
視界の端で、九条が一歩前へ出る。
高野も端末を抱えたまま駆け寄りかけた。
だが、それより先にイツキが俺の前へしゃがみ込む。
「今日はここまでだ」
「……まだ、やれる」
言い返したつもりだった。
だが、声に力がなかった。
イツキは俺の返事を無視した。
狂骨の柄から俺の手を外し、鞘へ戻す動きがやけに静かだった。
「やれるかどうかじゃない。壊すな」
「……っ」
「今のお前は、前へ出ることを覚えた。次は戻ることを覚えろ」
胸の奥が熱くなる。
叱責ではない。切り捨てでもない。次を前提にした言葉だった。
鬼塚が歩いてくる。
「睦月、大丈夫か」
「……死んではないです」
「そういう返しができるなら、まあ大丈夫だな」
アリスは少し離れた場所で銃を下ろし、こちらを見ていた。
目が丸くなっている。驚きと、少しの安堵と、それから言葉にならない何かが混じっていた。
「今の……すごかったです」
「当たってない」
「でも、届いてました」
その言葉は素直で、だから余計に胸へ残った。
高野が端末を見下ろしたまま、ぼそりと呟く。
「……数値、かなり危ないです。九条さん」
「ええ。見ています」
九条の声は冷たい。
だが、その目だけが妙に熱を帯びていた。興奮に近い光だった。
「今日の定時精密測定は前倒しにします。一進睦月さん、あとで診察室へ」
「……検体扱いかよ」
俺が吐き捨てるように言うと、九条は少しだけ首を傾けた。
「扱いではなく、事実です」
鬼塚が「言い方ってもんがあるだろ」と低く唸ったが、九条は取り合わない。
イツキが立ち上がり、全員へ視線を走らせる。
「模擬戦は終了。各自、律式を落として休め。今日の記録は頭に残しておけ。忘れた奴から死ぬ」
それだけ言って、イツキは俺を見た。
数秒だけ。
昔の路地で転んでいた俺へ向けた視線と、監督官として俺を見極める目が、その一瞬だけ重なって見えた。
俺は床へついた手を見下ろした。
少し震えている。 だが、さっきまでとは違う震えだった。恐怖でも、単なる疲労でもない。届かなかったはずの場所へ、あと一歩で届くかもしれないと知ってしまった人間の震えだ。
それが良いことなのか、悪いことなのかはまだわからない。
ただひとつ、確かなことがあった。
今日の模擬戦は、ただの訓練では終わらなかった。
何かが始まってしまったのだ。
俺の内側でも、イツキの目の中でも、そして壁際で数値を見つめる九条の端末の中でも。
演習場を出る頃には、呼吸は少し落ち着いていた。
少し、だけだ。
完全には戻っていない。肺の奥に残るざらつきは、まだそこにある。歩くたびに足元が微妙に遠く感じるのも、目の端が薄いのも、消えていない。だが、倒れるほどではない。それだけで今は十分だった。
右腕の内側だけが、心臓とは違う拍を刻み続けていた。
規則的だ、とは言えない。だが不規則でもない。何か別の論理で動いている。心拍より少し遅く、熱より少し冷たい。自分の体の中にあるのに、自分のものではない何かが、そこで息をしている。
俺は廊下を歩きながら、袖の上からそっと右腕を押さえた。
押さえたところで、何が変わるわけでもない。止まりもしない。ただ、意識を向けなければ、少しだけ遠くなる。今はそれで十分にするしかなかった。
九条の診察室は、施設の奥にある。
壁も床も、記録するためだけに存在している場所。俺の体を「睦月」ではなく数値として読み取る場所。そこへ今から行く。
嫌だ、と思う。
だが、逃げる理由もない。
自分の腕の中で何かが変わり始めているなら、それが何かを知っておく必要がある。怖くても。知った方がもっと怖くても。
俺は廊下の先を見据え、歩幅を変えなかった。




