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天滅  作者: 一一一
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第4話「体は一つだが、多くの部分がある」

体は一つだが、多くの部分がある

The body is one and has many members.

――コリント人への第一の手紙 12:12


演習場に立った瞬間、空気の質が変わった。

会議室や廊下に漂っていた人の気配がここにはない。ひび割れた床は、古い染みと白い粉が混じり合って、どこが亀裂でどこが汚れなのか判別できないほど荒れている。壁の塗装は所々が面単位で剥がれ、下地のコンクリートがむき出しになっていた。蛍光灯が天井から等間隔に吊られているが、そのうちの一本は点滅を繰り返していて、影の位置が一定しない。遠くで換気扇が低く唸り、その音だけが部屋に等間隔で満ちている。

整備された訓練施設というより、使い潰されるものをまとめて押し込んだ箱のような場所だった。正規軍の演習場なら、もっと広くて、明るくて、少なくとも壊れたまま放置されてはいないだろう。刑罰部隊に与えられる場所は、いつだってそういう意味を持っている。ここで何人が壊れても、施設は何も変わらない。次の者が使い、また壊れ、それだけが繰り返される。

俺はひび割れた床へ視線を落とした。

靴底が触れる感触が、微妙に沈む。均一に固まっていない。長く放置されたコンクリートが、表面だけを固さで誤魔化している。踏み込む角度を誤れば、そこで重心が狂う。

それを確かめた途端、ここが戦場の一種だと体が先に理解した。

それでも、ここが今日の戦場だった。

イツキが俺たちの前へ進み出る。

義足の重い音が一度、床に落ちた。


「模擬戦を始める。睦月、お前は俺と組め。他は二人一組で自由に動け。死なない範囲で全力だ」


静かな声だった。

だが、その一言で全員の背筋が揃った。怒鳴らなくても伝わる。イツキの声にはそういう硬さがある。

鬼塚が最初に口角を上げた。


「ようやく本番か」


アリスが苦笑する。


「模擬戦で本番って言われるの、だいぶ嫌なんですけど」

「ここじゃ本番も模擬戦も大差ねえだろ」

「それ、笑えないです」

「笑ってねえよ」


鬼塚の返しはぶっきらぼうだったが、どこかいつもより低かった。

肩を回す仕草の最後に、わずかに痛みを逃がす間が生まれる。昨日の説明で聞いた通り、あの体は頑丈であることを前提に無理を通している。

高野は端末を抱え直し、俺たちの前へ小さく出た。


「……各自、発動時の波形を記録します。無理だと感じたら、無理になる前に言ってください」

「無理になったら、言う暇ないんじゃないか?」


鬼塚が言うと、高野は真顔で返した。


「……その通りです。なので、無理の一歩手前で申告してください」


アリスが吹き出しそうになり、すぐに堪えた。

緊張をほぐそうとした笑いではない。高野が本気で言っているからこそ、逆におかしかったのだ。

マルコは数珠を指で送りながら、静かに目を閉じている。


「我らが、無用に傷つけ合わぬように」

「模擬戦の前に言う祈りじゃない気がしますけど……」


アリスが小声で言うと、マルコは穏やかに笑った。


「この部隊では、必要な祈りです」


九条は壁際に立ち、端末を操作していた。

彼女の視線は相変わらず人ではなく数値へ向いている。

誰がどう動くかより、その結果どの波形が立つかにしか興味がないのだろう。

そう思うと気分が悪くなったが、今はそちらへ意識を割く余裕はない。


「始めろ」


イツキの短い合図と同時に、演習場の空気が動いた。

鬼塚が大きく踏み込み、両腕を広げる。

その瞬間、律式鎧が服の上を這うように展開した。鈍い光を宿した装甲が肩、胸、腕を順に覆い、床が低く軋む。重量が増したのではない。局所的な密度そのものが変わったのだと、説明を聞いたあとでは直感でわかる。


「よし、来い!」


豪快な声。

アリスはすでに黒いケースを開き、VSS狙撃銃を取り出していた。流れるような動きだが、肩へ構えた瞬間だけ僅かに硬くなる。


「いきます……!」


銃口が上がる。

引き金へかかる指は繊細で、だからこそ震えも目立つ。だが、その震えを意志で押さえ込もうとしているのも見えた。

高野は膝をつき、端末を床へ置いた。


「……展開」


空気がわずかに歪み、三基の小型砲台が浮かび上がる。薄いシールド膜がその周囲へ広がり、演習場の一角に別の法則が重ねられたような印象を与えた。

そして、俺の番だ。

狂骨を鞘から引き抜く。

刃が空気を裂く音は小さいのに、耳の中で異様に大きく響いた。手に馴染みつつある重さ。

だが、馴染んだからこそ気づく違和感もある。

これはただの刀じゃない。握るたびに、こっちの内側まで引きずり出してくる。

体の芯が、じわりと熱を持った。


「来い」


イツキは素手のまま構えていた。

肩の力が抜けている。背は高いのに、重心は低い。どこにも隙がない。いや――隙がないように見える、が正しいのかもしれない。

俺は一歩踏み込んだ。

ひび割れた床が靴裏を受け止める。もう半歩。間合いに入る。狂骨を横一文字に振るう。

刃が届く、はずだった。

弾かれた。

イツキの掌が、刃の腹を横から逸らした。

金属と肉がぶつかった音ではない。

何か目に見えない膜同士がぶつかったような、不快な抵抗が腕へ返ってくる。

手応えを殺され、重心だけが前へ流れた。


「腰が高い」


低い声。

その声が届いた時には、すでにイツキの指先が俺の手首の近くへ触れていた。

押された、というより、そこへ“ここだ”と印をつけられた感覚に近い。


「……っ」


歯を食いしばって踏みとどまる。

崩れかけた体勢を立て直し、すぐに間合いを切る。

呼吸が浅い。見えていたはずなのに遅れた。

そう思った瞬間、腹の底に小さな苛立ちが生まれた。

見えていた、は言い訳だ。

見えていて止められないなら、それは見えていないのと同じだ。


「もう一度」


イツキが構え直す。

挑発ではない。

確認の声だ。

俺は刃先をわずかに下げ、今度は正面からではなく右へずれた。

イツキの肩が空いて見える。

そこへ入れば届く。

さっきより近い。

そう見えた。

だが、踏み込みかけた瞬間、嫌な確信が走った。

見せられている。

俺は半歩だけ止まった。

その止まり方に、イツキの目が僅かに動く。

やはりそうだ。

肩が空いていたんじゃない。

飛び込ませるために、そこだけ緩めていたのだ。


「……見たか」


イツキが言う。


「見えた」

「なら、次は騙されるな」


返す言葉はなかった。

だが、さっきより少しだけ腹の底が静かだった。悔しさはある。けれど、ただ弾かれた時より、今の方がまだ前へ進んでいる感覚がある。


周囲では、他の組も動き始めていた。

鬼塚の体が前へ出た瞬間、演習場の床が低く沈む。律式鎧の展開が完了しているわけではない。それでも質量を操る体が一歩踏み込むだけで、空間の重心がそちらへ引き寄せられる感じがある。大きい。正規軍の重装備と並べても、あの体格は圧で勝る。だがその分、足元が遅い。

「鬼塚さん、前出すぎです!」

アリスの声と同時に、律式弾が弧を描いた。

真っ直ぐ飛ぶはずの軌道が途中で折れ、鬼塚の肩越しに壁際へ回り込む。外れたのではない。わざとそこへ通したのだ。鬼塚の背中の、ちょうど死角になる位置を縫うように弾が走り、壁面の模擬標的を貫いた。近くで見れば震えているとわかる指先が、あの精度を出している。アリスの肩への負担を知っているから、余計に目を離せなかった。

「今当たってたら死んでるぞ!」

「当ててないから大丈夫です!」

「それ信用していいのか!?」

「信じてください!」

叫び合いながらも、二人の距離は崩れない。鬼塚が前へ出るたび、アリスの射線はその背中の少し外側へ滑る。危うい。だがただ危ういだけではない。何度もやってきた者同士の呼吸がそこにはあった。

高野の砲台が低く唸る音が、その背後で重なる。浮遊する四基が位置を変えるたび、演習場の空気の密度がわずかに偏る。攻撃のためだけではない。アリスの死角を埋め、鬼塚の退路を残し、マルコが広げる障壁の形に合わせて角度を組んでいる。あれを一人でやっている高野の神経が、毎回少しずつ削れていくのがわかる。


「……一基、前方。二基、後方援護」


彼の指先が端末上を走るたび、浮遊砲台が位置を変える。攻撃のためだけではない。

アリスの死角を埋め、鬼塚の退路を残し、必要ならシールドへ即座に切り替えられるよう角度が組まれている。

マルコは大きく動かない。

だが、彼が数珠を繰るたび、空気の密度がわずかに変わった。

目に見えないはずのものが、呼吸のしづらさや音の跳ね返り方として存在を主張し始める。

前線で暴れる者ほど、あの静かな防壁のありがたさを痛感するのだろう。


「睦月」


イツキの声で、意識を戻す。

俺は呼吸を整えた。

浅い。

もう少し落とせる。


「体が先に知っている。考えるな、は違う。考えたことを、遅らせるな」


わずかに言い換えられた言葉だった。

前より一歩だけ、俺へ寄せている。

そう感じた瞬間、胸の内側に熱ではないものが走った。

俺はもう一度、踏み込んだ。

今度は肩を狙わない。

最初に刃を見せる。

わざと少し大きい。

イツキの視線がそこへ集まる。集めさせた。

狙いは肩じゃない。右足の着地だ。そこへ狂骨を届かせる必要はない。置き場所を一瞬だけ狂わせれば、それで十分だった。


「――そこか」


イツキの口元がわずかに動いた。

次の瞬間、掌が来る。

読まれている。

それでも、さっきとは違う。

今度は読まれることまで含めて踏み込んでいる。

刃を半歩だけ引く。

真正面から受けられるはずだった軌道をずらし、そのまま低く潜る。

床の冷たさが膝近くまで迫る。

イツキの掌が空を切り、その一瞬の遅れが生まれた。


届く。


そう思ったところで、また止められた。

今度は掌ではなく、肘だった。近い。読み切ったのではない。ただ、俺が通したいところへ先に壁を置かれたのだ。

衝撃が肩から背中へ抜ける。

俺は転びそうになり、それでも足を残した。床を滑りかけた靴底が、ぎりぎりで踏みとどまる。

イツキが一歩下がった。

はっきりと、距離を取った。

模擬戦が始まってから、初めて俺に合わせてではなく、俺を見て離れた。


「悪くない」

短い一言だった。

だが、その重みはさっきまでと違った。

胸が熱くなる。

嬉しい、と思いかけて、その感情の正体を少しだけ確かめる。褒められた嬉しさではない。それより前に、認識された、という感覚が先に来た。イツキの目に俺の動きが映った。ただ弾き返す相手としてではなく、次の手を読む必要がある相手として、一瞬だけ見られた。それがわかったからだ。

だが、そこで止まってはいけない。

認められたことに浮かれた瞬間、次の動きが鈍くなる。一深の路地でイツキが言った言葉が、今さらのように腹の底へ落ちる。前へ出ることを覚えた。次は戻ることを覚えろ。まだ、今のは届いていない。掠ってすらいない。ただ、弾かれて終わる段階から一歩だけ抜け出した。それだけだ。

喜ぶにはまだ早い。

俺は呼吸を整え、狂骨を構え直した。

肩が少しだけ痺れている。

さっきの衝撃が、遅れて神経を伝って上がってきた。痛みというより、信号のようなものだ。ここまで使ったと、体が後から教えてくる。だが、止まる理由にはならない。痺れながら動けるなら、まだ動ける。


「もう一度だ」


イツキが言う。


「……ああ」


返事が少し掠れた。

呼吸は荒い。

腕も痺れている。

それでも、まだ前へ出られる。

周囲の音が少し遠くなる。

鬼塚の怒鳴り声。

アリスの射撃。

高野の制御音と砲撃。

マルコの祈り。

九条の端末を叩く微かな音。

それら全部が演習場の中で重なり合い、ひとつの訓練ではなく、もっと別のものに変わりつつある気がした。

ただの模擬戦ではない。

誰がどれだけ壊れずにいられるか。

誰がどこまで自分を制御できるか。

ここで測られているのは、技量だけじゃない。

狂骨を握り直す。

柄の感触が、掌の中で少しずつ温度を変えていく。

次は届くかもしれない。

いや、届かせる。

俺は再び重心を落とし、イツキを見た。

彼もまた、微動だにせずこちらを見返している。

その目の奥にあるものを、まだ全部は読めない。

だが、読めないまま終わる気もなかった。

演習場の空気が、少しずつ熱を孕み始めていた。

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