第3話「鉄は鉄によって研がれる」
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鉄は鉄によって研がれる
Iron sharpens iron.
――箴言 27:17
イツキの名乗りが会議室の中央へ落ちたあと、数秒だけ誰も動かなかった。
刑罰部隊に配属される監督官が、初手で「何をしてもいいとは思っていない」と言う。その言葉の意味を、俺たちはすぐには測りかねていた。綺麗事なのか、警告なのか、それとも本当にそういう人間なのか。ここでは言葉より先に結果で判断する癖がついている。全員が同じことを考えていたと思う。
沈黙を破ったのは、会議室の扉がもう一度開く音だった。
白衣の裾が視界の端を横切る。
入ってきたのは、見覚えのある女だった。
九条澪。
律式研究所からの派遣研究者。細身の体を白衣の下へ収め、黒髪を後ろで緩く束ねている。前髪はきちんと整えられているわけではなく、忙しさをそのまま形にしたみたいに少しだけ乱れていた。彼女は誰に会釈するでもなく空いている席へ腰を下ろし、端末を起動する。青白い画面の光が頬へ反射した。
その視線が一度だけ室内をなぞる。
アリス、鬼塚、高野、マルコ。
そして最後に、俺の右腕の袖口で止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、見間違えるには十分すぎるほどはっきりしていた。
あの目は、俺を「睦月」という人間として見ていない。
異常の有無を確かめるための対象として見ている。測る前の目だ。
右腕の内側が、微かに脈打った気がした。
俺は無意識に拳を握る。袖の下で何かが反応したのか、それともそう思い込んだだけなのか、自分でも判別できない。
佐伯部隊長が短く咳払いをした。
「説明は以上だ。以降は白石監督官の指示に従え」
イツキが一歩前へ出る。
義足の重い音が床へ落ち、その一歩だけで空気が締まった。
「戦力把握のため、先日に引き続き本日も模擬戦を行う。各員、演習場まで移動」
無駄のない指示。
拒否も確認も求めていない。ついて来られる前提の声だった。
会議室を出て、廊下へ出る。
削れた壁材の粉っぽさと、どこかで漏れている機械油の臭気が混じっていた。俺たちは二列とも一列ともつかない曖昧な並びで歩く。鬼塚が前寄り、アリスがその隣、高野は少し遅れ、マルコは最後尾。イツキは一度だけ振り返り、それから歩幅を緩めて俺の隣へ並んだ。
「一進」
昔と同じ呼び方だった。
監督官の声音ではない。路地裏で何度も聞いた、あの低い声だ。
「お前がここにいるとは思っていなかった」
俺はすぐに返事ができなかった。
言うべきことはいくらでもあるはずだった。久しぶりだとか、生きていたのかとか、どうして監督官なんかやってるんだとか。けれど、どの言葉も今ここで口に出すには間が悪い。刑罰部隊の作業服を着た俺と、監督官として歩くイツキの間には、幼い頃の路地ではなかった距離がある。
「……こっちもだ」
結局、それだけしか言えなかった。
イツキは短く息を吐き、ほんの少しだけ口元を動かした。笑ったのかもしれない。だが、次の瞬間にはもういつもの無表情へ戻っている。
「あとで確認する。今は目の前を見ろ」
「命令か」
「助言だ」
淡々としたやり取りなのに、不思議と胸の奥が少しだけ軽くなった。
イツキが昔のままではないことも、昔の延長が完全に切れたわけではないことも、その二つが同時にわかったからだ。
演習場は施設の外れにあった。
日が差し込みにくく、壁は剥がれ、床には古いひびが何本も走っている。正規軍が使う訓練場より明らかに手入れが悪い。俺たちに与えられる場所は、だいたいいつもそうだ。最低限、壊れなければそれでいい。壊れるのが人間の方なら、なおさら誰も気にしない。
中央へ並ばされる。
九条は壁際へ立ち、端末を操作しながら俺たちを眺めていた。数字を取る前の静かな顔。
イツキが全員を見回す。
「律式の仕組み、どこまで理解している?」
誰も答えなかった。
アリスが気まずそうに視線を泳がせる。鬼塚は鼻を鳴らし、高野は端末の縁を指でなぞった。マルコは祈りの姿勢のまま、ゆっくり目を伏せる。
俺も黙ったままだった。知っているのは使い方だけだ。発動しろ、止めろ、切れ味を落とすな、死ぬな。その程度。どうしてそれが可能なのかまでは、誰も俺たちに教えなかった。
「ですよね……」
高野が小さく呟いた。
自分から前へ出るのは珍しい。だがイツキが目で促すと、彼は観念したように息を吸い直し、端末を胸の前へ持ち上げた。
「……律式は、正式には『レプトン・クォーク・ゲージ共鳴システム』と言います」
画面へ指を走らせる。
空中へ投影された簡易図式が淡く揺れた。
「天使の残骸から抽出された未知粒子――エクス・ボソンを、人体に埋め込まれたナノマシンが媒介して制御する。簡単に言えば、意識を使って局所的に物理法則へ干渉する技術です」
鬼塚がすぐに顔をしかめた。
「簡単に言ってるか、それ?」
アリスが苦笑する。
「全然わかりやすくないです……」
「……わかりやすくすると、逆に嘘になります」
高野は真面目な顔のまま返した。
少しだけ場が緩む。説明する側に立つときだけ、高野は別人みたいに芯が出る。
「まず、アリスさん。第一位階のレプトン系。VSSに込める律式弾へ量子トンネリング効果を与えて、弾道を曲げられる。長距離精密射撃向きです。ただし、視神経と肩関節へ負荷が集まりやすい」
「やっぱり肩なんだ……」
アリスが小さく呟き、自分の右肩をさすった。
明るい表情は崩していないが、指先に入った力だけが本音を漏らしている。
「大丈夫か」
俺が聞くと、アリスは一拍遅れてこちらを見た。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんかよ」
鬼塚が笑う。
「でも、当てるのは私ですから」
その返しには意地があった。少しだけ安心する。
高野は次の表示へ切り替えた。
「鬼塚さん。第二位階のクォーク系。質量と密度の局所変動に特化しています。律式鎧と槌の併用で瞬間的な重量級打撃を可能にする。……その代わり、筋骨格への負担が極端に大きい」
「要するに、頑丈な俺向きってことだろ」
鬼塚はにやりと笑って、自分の肩を回した。
だが、その動きの最後で、わずかに痛みを逃がすような間が生じた。高野はそこを見逃さない。
「そうです。正確には、頑丈じゃないと壊れます」
「言い方!」
アリスが吹き出す。
鬼塚も肩を揺らして笑ったが、その裏にある疲労までは消えていなかった。
「次、俺です」
高野は言ってから、少しだけ気まずそうに目を伏せた。
自分の説明が一番嫌なのだろう。
「ゲージ粒子系。場の制御に特化しています。砲台の展開、シールド、照準補正……複数の演算を同時に回すので、末梢神経への負担が大きい。特に左手側から先に来ることが多い」
彼はそこで言葉を切り、無意識に左手の指を曲げた。
隠しているつもりでも、その癖はもう全員知っている。
「……無理すんなよ」
鬼塚がぽつりと言う。
高野は少しだけ目を丸くし、それから小さく頷いた。
「無理しないと、たぶん先に皆さんが死にます」
「お前、たまに怖えこと普通に言うよな……」
空気がまた少しだけ緩んだ。
そういう役目を高野が果たすとは、たぶん本人も思っていない。
「マルコさん」
表示が変わる。
マルコ・ロッシィは数珠を指で送りながら、静かに顔を上げた。
「同じく第二位階のクォーク系。ただし鬼塚さんとは逆で、攻撃ではなく維持と防御に寄っています。周囲の空気密度へ干渉し、防壁を形成する。……このチームの生存率が高い理由の一つです」
マルコは穏やかに微笑んだ。
「私がしているのは、祈りより遅い仕事ですよ」
「でも、いると助かる」
アリスが言う。
マルコは「そうなら幸いです」とだけ返した。
その言い方が、いかにも彼らしかった。
高野の視線が、最後に俺へ向く。
演習場の空気が少しだけ張る。九条の指先が端末の上で止まるのが見えた。
「……最後に、睦月さん」
端末の投影が切り替わる。
狂骨の簡易構造図と、俺の腕部データが重ねて表示された。
「律式刀剣三型『狂骨』。表向きはクォーク系の近接兵装。でも、睦月さんの場合はそれだけじゃない。骨髄直接共鳴型――違法処置を受けた制御系が、武器の出力と身体側を直結させている」
喉が少しだけ乾いた。
誰にも見られていないはずの場所を、数字でめくられていく気分だった。
「利点は、出力の立ち上がりが速いこと。欠点は、制御不能時の反動が使用者へ直撃すること。体温上昇、痙攣、感覚過敏……普通の制御系よりリスクが高い。九条さんが前回の測定で止まったのは、その値が無視できない域へ入り始めているからです」
「……それ、使い続けて平気なのか」
自分で聞いたつもりはなかった。
気づいたら口から出ていた。
高野は答えに詰まる。
九条がそこで初めて口を開いた。
「平気かどうかと、使う必要があるかどうかは別問題です」
静かな声だった。
だが、その言葉は妙に冷えた刃物みたいに響いた。
「睦月さんの系統は、通常兵装より立ち上がりが早い。その代価があなた自身に返ってくるだけです」
「随分簡単に言うな」
鬼塚が低く言う。
九条は視線も向けない。
「複雑に言い換えても、結果は変わりません」
場が凍りかけたところで、イツキが割って入った。
「十分だ」
それだけで、空気が一度切り替わる。
イツキは全員を見回し、最後に俺へも視線を向けた。
「自分の律式だけわかっていても死ぬ。チームの癖と限界も覚えろ。お前たちは一人で生き残れるほど、まだ強くない」
反論する者はいなかった。
悔しいが、その通りだったからだ。
九条が端末を操作し、壁際へ一歩下がる。
「では、測定を兼ねて模擬戦に移行します。各自、発動準備を」
鬼塚が肩を鳴らし、アリスがケースへ手をかける。高野は端末を持ち直し、マルコは数珠を握り直した。
俺は狂骨の柄をなぞる。冷たいはずの感触が、掌の中で少しずつ体温を奪っていく。
死なないために強くなれ。
イツキの意図は、まだ全部は読めない。
だが一つだけ確かなことがあった。これから始まるのは、ただの訓練ではない。誰がどこまで壊れずに立っていられるかを測る、選別に近い時間だ。
俺は息を吐き、演習場の中心へ一歩踏み出した。
体の深いところで、まだ言葉にならない何かが静かに目を覚ましつつあった。
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