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天滅  作者: 一一一
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第2話「友よ、何のために来たのか」

いつも読んで頂きありがとうございます

友よ、何のために来たのか

Friend, why have you come?

――マタイ 26:50


宿舎の朝は早い。

正確には、眠りが浅すぎて、朝が来るより先に意識が浮上する。

薄い壁の向こうから、誰かの咳が二度聞こえた。少し遅れて、どこかの部屋でベッドのスプリングが軋む。まだアラームは鳴っていない。それでも俺は目を開けていた。天井の染みを見上げたまま、すぐには起き上がれない。体が重いのではなく、起きれば昨日の続きが始まるとわかっているからだ。

ようやく上体を起こす。

薄いシーツが肌に張りついて離れず、寝汗が冷えて気持ち悪かった。部屋の空気は淀んでいて、乾ききれなかった洗濯物と壁に染みついた生活臭が混じっている。窓の外に広がる空は、晴れているとも曇っているとも言い切れない、輪郭の鈍い朝だった。一深の路地で見上げた空と、大きくは変わらない。

変わらない世界の中で、俺だけが少しずつ別のものへずれていく。

最近、そういう予感がある。根拠はない。ただ、体のどこか深いところで、まだ言葉にならない違和感が目を覚ましている。

ベッド脇に立てかけておいた狂骨へ手を伸ばした。

鞘の上から指先を滑らせる。冷たい。掌に収まる重みはもう見知らぬものではないが、完全に馴染んだとも言えなかった。武器を持つというより、自分の手足が一本増えたような感覚に近い。便利でもあるし、気味が悪くもある。

端末を開く。

淡い光が指先を照らし、通知が二件浮かび上がった。

一件目は、孤児院への送金完了通知。

金額を見た瞬間、胸の奥の何かがわずかに緩む。たったこれだけの数字で救われるわけじゃない。けれど、送らないよりはましだと思いたい。そうやって毎月同じことをしている。償いになるとも思っていない。ただ、何もしないでいるよりは、まだ息がしやすい。

もう一件は招集通知だった。

本日、新しい監督官兼訓練教官が着任――簡潔な文面が、妙に重く見えた。

新しい監督官。

刑罰部隊に来る人間に、期待していいのかどうかは最初からわかっている。まともな配属先なら、ここは選ばれない。選ばれるのは、余り物か、壊れているか、その両方かだ。

端末を閉じ、作業服に腕を通す。

生地は薄く、縫い目は粗い。正規軍の制服より一段くすんだ色合いが、俺たちの立場をそのまま示していた。着心地が悪いわけじゃない。むしろ、毎日着ているぶんだけ身体に馴染んでいる。だからこそ嫌だった。烙印は、痛みより先に習慣になる。

狂骨を手に取り、部屋を出る。

廊下には人の気配が薄く漂っていた。誰かの足音、遠くの水音、扉が閉まる鈍い響き。宿舎全体が、まだ完全には起き切っていない。


「あ、睦月くん! おはようっ!」


曲がり角の先から、明るい声が飛んできた。

アリス・タカハシが黒いケースを背負ったまま、こちらへ手を振っている。足取りは軽い。だが、その肩にはわずかな硬さがあった。彼女はいつもそうだ。明るさを先に出して、本音はその後ろへ隠す。


「おはよう」

「今日は早いですね。もしかして、緊張してるとか?」


からかうように笑う。

俺は少しだけ肩をすくめた。


「お前はしてないのか」

「してますよ。すごくしてます」


即答だった。

けれどアリスは笑顔を崩さない。


「だって、新しい監督官ですよ? 優しかったら怖いし、厳しかったらもっと怖いし」

「どっちにしても怖いんだな」

「そういうことです」


小さく笑い合う。

その一瞬だけ、廊下の空気が少し軽くなった気がした。

だが、アリスはすぐにケースのストラップを握り直した。

指先に力が入っている。


「……昨夜、補充員がまた何人か回されたって聞きました」

「噂だろ」

「噂ならいいんですけどね」


声は明るいままなのに、目だけが笑っていなかった。

補充員の話は、ここでは天気みたいなものだ。出る、来る、減る、死ぬ。誰も驚かないふりをする。驚いていたら、毎日まともに立っていられないからだ。

重い足音が廊下の奥から近づいてきた。


「おう! 早えな、二人とも!」


鬼塚慶次だった。

肩幅が広すぎて、歩いてくるだけで通路が狭く見える。朝だというのに顔色はすでに戦闘前のそれで、豪快な笑みの奥に、寝起きの鈍さではない疲労が残っていた。


「鬼塚さん、おはようございます」

「おう、アリス。睦月。今日は面白くなるぞ」


そう言って笑う。

だが、笑った後にわずかに肩を回した。癖のような動きだった。質量を扱う律式の負担が、寝て消える類のものではないことを、その仕草が物語っている。


「新しい監督官、そんなに楽しみなんですか」

アリスが尋ねると、鬼塚は鼻で笑った。


「楽しみっていうかな。どうせロクでもねえ奴だろ。だったら、せめて殴りがいのある面しててほしい」

「初対面から殴る気でいるのやめてくださいよ……」

「殴らねえよ。向こうが余計なこと言わなきゃな」


言外に「言うだろうけど」と含ませている。

そのとき、さらに後ろから小さな足音が重なった。


「……おはようございます」


高野司が端末を胸に抱えたまま立っていた。

眠そうというより、最初から電池残量が少ない機械みたいな顔をしている。彼は俺たちを見るより先に、廊下の明かりを眩しそうに細めた。


「おはよう、高野」

「……新しい監督官、研究所側の人間じゃないといいんですが」

「それ、なんで?」とアリスが首を傾げる。

高野は少し言い淀み、それから端末の縁を親指でなぞった。


「……研究所の人間は、俺たちを人間として見るのが下手なので」


短い言葉だったが、十分だった。

アリスが「それは、まあ……」と曖昧に笑う。鬼塚は低く鼻を鳴らし、俺は何も言わなかった。言い返せる材料がない。ここにいる全員、少なくとも一度は“部品”みたいな目で見られたことがある。

四人で宿舎を出る。

外気は少しだけ冷たく、頬を撫でた。路地には油と焼けた廃材の臭気が残っている。深都の朝は、清潔とも爽やかとも縁がない。それでも、完全に止まってはいない。遠くで輸送車が動く音がして、空の見えない区画では排気が低く唸っていた。

施設へ近づくにつれて、周囲の視線が変わる。

作業服を見る目だ。俺たち個人ではなく、この服に縫い付けられた所属を見る目。

正規軍の兵士が三人、通路脇で立ち話をしていた。

そのうちの一人が俺たちを見て、露骨に眉をひそめる。


「……刑罰部隊か」

聞こえるように言った。

もう一人が小さく笑う。


「朝から縁起悪ぃな」


アリスの歩幅が、ほんの少しだけ乱れた。

高野は何も聞こえなかったふりをし、端末へ目を落とす。俺はそのまま通り過ぎるつもりだった。慣れている。いちいち反応していたら、深都ではどこにも歩けない。

だが、鬼塚が一歩前へ出た。


「なんだよ、邪魔か?」


声は大きくない。

けれど、笑っていないときの鬼塚は、それだけで空気を変える。兵士たちは一瞬黙った。先に視線を逸らしたのは向こうだった。


「……行けよ」

「最初からそうしてくれりゃいいんだよ」


鬼塚が肩を鳴らして歩き出す。

俺たちもそれに続いた。

少し進んだところで、アリスが小声で言った。


「鬼塚さん、助かりました」

「助けてねえよ。ムカついただけだ」

「それでもです」

「……へいへい」


鬼塚はぶっきらぼうに返したが、歩幅は少しだけ緩んでいた。

俺はその横顔を見ながら、思う。ここにいるのは犯罪者で、余り物で、使い潰される側の人間だ。けれど、それだけで説明できるほど単純でもない。

施設の会議室へ入ると、マルコ・ロッシィがすでに席についていた。

髭面の輪郭は朝から変わらず穏やかで、唇が小さく動いている。祈っているのだろう。アリスが手を振った。


「おはよう、マルコさん」

マルコはゆっくり目を開けた。

「おはよう。主が、今日の我らに静けさを与えますように」


「静けさ、いいですね。今日はそれ、ほしいです」


アリスが苦笑しながら席へ向かう。

俺たちもそれぞれ椅子を引いた。

金属製の脚が床を擦る音がやけに大きく聞こえる。誰も余計なことは言わない。言わないまま、全員が扉の方を気にしていた。

やがて、廊下から足音が近づいてきた。

一歩。

次の一歩。

重さの違う音が交互に響く。義足だ、とすぐにわかった。

ドアが開く。

最初に入ってきたのは佐伯弦一郎部隊長だった。その後ろに続いた人影を見た瞬間、俺は息を止めた。


白石一一イツキ。


高身長で細身。

作業服の上からでも、余計な肉のない体の線がわかる。肩から腕へかけての動きが滑らかで、立っているだけなのに隙がない。会議室へ入ってきたその一瞬で、場の空気が変わった。

視線が室内を一巡する。

そして、俺のところで止まった。


「お前もここにいるのか」


声には出ていない。

だが、そう言ったのだとわかった。幼い頃、一深の路地で何度も見た目だった。転んだ俺を見下ろし、それでも手を差し出してくれた、あのときと同じ目。

胸の内側が、不意に熱を持つ。

驚きなのか、安堵なのか、自分でもすぐにはわからなかった。ただ、ここまで来たのか、とだけ思った。

イツキは俺から視線を外し、全員を見回す。

声は冷え切っていた。


「白石イツキだ。監督官兼訓練教官を務める」


一拍。

誰も息をしない。


「刑罰部隊だからといって、何をしてもいいとは思っていない」


その言葉が会議室の中央へ落ちた。

きれいごとだと思ったわけではない。だが、信じていいのかもすぐには判断できなかった。ここでは正しさはいつも遅れてやって来るし、たいてい役に立たない。

それでも、俺はイツキから目を逸らせなかった。

運命なんて大げさな言葉は嫌いだ。

けれど、あの瞬間に何かが動き始めたことだけは、はっきりわかった。

昨日までの延長ではない。

ここから先は、別の記録になる。

ここまで読んで頂きありがとうございます

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