第1話「初めに、言葉があった」
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「初めに、言葉があった」
In the beginning was the Word.
――ヨハネによる福音書 1章1節
海だった。
正確には、海と都市の境目が壊れたあとに残ったものが、そこに広がっていた。
水面から突き出しているのは、かつて高層ビルを支えていた鉄骨だ。まっすぐ天を指しているものもあれば、途中でねじ曲がり、沈みきれずに斜めのまま止まっているものもある。コンクリートの柱は海底に根を残したまま、白く濁った水の上へ半身だけをさらしていた。かつて道路だった場所は水路になり、商業施設だったはずの区画は浅瀬へ変わり、都市は全体をゆっくり腐らせながら沈んでいる。
見渡す限り、水と石と、折れ残った構造物だけがあった。
風は吹いているのに、生きている感じがしない。
頬に触れるのは涼しさではなく、長く放置された倉庫を開けたときのような、乾いているのに肺へ貼りつく空気だった。潮の匂いとも違う。腐敗臭とも少し違う。もっと時間が経って、腐るものすら残らなくなった場所だけが持つ、空白そのもののような臭気だ。深く吸い込むと喉の奥が鈍く重くなり、吐き出しても少しも軽くならなかった。
空には、朝とも夕ともつかない光が広がっていた。
色がないわけではない。だが、青とも橙とも言えない。何かから色だけを抜き取ったあとに残る、薄く濁った明るさが均一に空一面へ塗り広げられている。方向を持った光ではないから、建物にも瓦礫にも、影が生まれない。世界全体が、輪郭だけを残して平らになっていた。
ここは大阪だった場所だ。
三百万人が暮らし、騒ぎ、眠り、働き、怒り、愛し、いつか死ぬはずだった都市の、その後だ。
足元には死体が積み重なっていた。
数が多い、というより、地形になっていた。
一体の上に一体、その上にまた一体が折り重なり、波打ち際の岩場みたいな起伏をつくっている。風が吹いてもそこにある。水が打ち寄せてもそこにある。死んだ人間が物として安定してしまったあとの、動かしようのない形だった。
黒い髪が目に入った。
水を含んで重くなった長い髪が顔を隠し、痩せた肩の骨が皮膚を押し上げている。女だと思った。けれど、そう判断したところで意味はない。年齢はわからない。顔も見えない。誰かだったのだろうが、今ここにあるのは「誰か」ではなく、水を吸って重くなった肉の塊にすぎなかった。
他にもあった。
子どもの形をしたもの。老人の形をしたもの。軍服に似た布をまとったもの。普通の服のもの。
みんな違うはずなのに、みんな同じだった。
名前を持っていた時間は、ここでは何も残していない。
俺はその光景を見下ろしながら、奇妙なことを考えていた。
惨いとか、怖いとか、そういう言葉が先に来ない。ただ、遅すぎた、と思っていた。こういう場所へいつか辿り着くことを、自分はずっと前から知っていた気がしたからだ。思い出せる記憶ではない。もっと曖昧で、骨組みだけが先に出来上がっていた予感のようなもの。まだ理由も形も与えられていないのに、結論だけが先に置かれていた。
そのとき、死体の山の向こうで、何かが立ち上がった。
立ち上がった、という表現が正しいのかはわからない。
もともとそこにあったものが、急にこちらへ存在を向けてきた、と言う方が近かった。霧が晴れたわけではない。輪郭が鮮明になったわけでもない。ただ、それまで風景の一部に埋もれていたはずのものが、「そこにいる」としか言えない強度を持って前へ出てきた。
時間の流れ方が変わった気がした。
遅くなるのでも、速くなるのでもない。
種類が変わった。さっきまで流れていた世界が、一度止まり、別の規則へ差し替えられたような感覚。風がやむ。水面の揺れが止まる。音が消える。さっきまで何の音がしていたのか思い出せないのに、消えたことだけははっきりわかった。存在していたものが失われたからではない。何かもっと根本的なものが、「ここでは不要だ」と切り捨てられたのだと思った。
そいつには目がなかった。
口もなかった。人間の形ではない。これまで俺が知っていた天使の形でもない。輪郭はあるのに、内側を説明する言葉が追いつかない。そこに何も入っていないようにも見えるし、逆に何かが詰まりすぎて輪郭しか認識できないようにも見える。
ただひとつだけ、確かなことがあった。
そいつは、こちらを向いていた。
その瞬間になって初めて、俺は気づいた。
そいつには影がなかった。
周囲の瓦礫にも、死体の山にも、俺の足元にも、方向を持った影はない。それでも「本来ならここに落ちるはずの暗がり」が、そいつの足元にだけ欠けていた。そこに立っているのに、地面へ重さを残していない。物理の法則から一歩だけ外れた場所に、無理やり輪郭を固定しているもの。そうとしか見えなかった。
声が来た。
「ここまでだ」
耳で聞いたのかどうか、自信がない。
音として届いたようでもあるし、体の表面を通らずに、そのまま中へ置かれたようでもある。怒りもなければ、慈悲もない。宣告でありながら、宣告する側がその意味を理解していない声だった。ただ処理が終わったと確認するために、必要な手順として出された言葉。その程度の温度しかなかった。
だからこそ、異様だった。
もし憎しみがあれば、人間はまだそこに物語を見つけられる。
もし悲しみがあれば、何かを失った結果なのだと理解できる。
けれど、その声の裏には何もなかった。空っぽだった。空っぽだから、どこまでも広がった。ビルの残骸へも、水の底へも、足元の死体へも、俺の胸の奥へも、遮られずに届いてしまった。
「ここまでだ」
そいつは繰り返した。
世界の終わりを告げる言葉に聞こえた。
けれど、言われたあとも世界は何も変わらない。空はそのままで、水もそのままで、死体もそのままだ。終わりを告げられてなお変化しないこと自体が、この場所の答えなのだと、なぜかすぐに理解した。
その理解と同時に、俺は笑っていた。
なぜ笑ったのかわからない。
嬉しかったわけでも、気が狂ったわけでもない。ただ、そういう形に顔がなった。口の端だけが勝手に上がり、自分のもののはずの表情が、自分より先に結論へ辿り着いていた。
おかしい、と頭のどこかで思った。
こんなものを前にして、普通なら笑うはずがない。
なのに、否定より先に別の感覚があった。懐かしい、に近い何か。ずっと前から知っていた受け取り方。死んだ天使の残滓が触れてくるときと同じ種類の受信。俺はまだその時点では言語化できなかったが、少なくとも、完全な初対面ではないと体がわかっていた。
「ここまでだ」
俺はその言葉を、聞くというより受け取っていた。
雨が降れば濡れるように、ただ届き、ただ残る。それだけのことのはずなのに、胸のどこか深い場所だけが、妙に静かだった。恐怖さえ、そこで一度濾し取られてしまったみたいに。
霧の中で、俺はまだ立っていた。
笑ったまま。
声が終わっても、世界が何も答えなくても、まだそこにいた。
なぜ自分だけ立っているのか。
なぜ自分だけ、これを受け取れるのか。
問いは浮かびかけたが、最後まで形にならなかった。考えるための言葉が足りない。いや、言葉より先に結論だけがそこにあるから、今さら問いを立てても遅いのかもしれなかった。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
これは夢ではない。
悪夢ですらない。
ここへ至るまでの、そしてここから先へ続いていく、俺の記録だ。
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