エピソード・オブ・バレナ 〜その3〜
なんとなく、このまま大人になるんだと思っていた。
女子たちの言う、恋だのなんだのは分からない。けれどこのまま大きくなって。
結婚が必要だというのなら、その相手はレオンがいいなと思っていた。
けれどそれは、幻想だった。
◇◇◇◇◇
十歳になったある日。街外れをジョギングしていたバレナは、向こうから歩いてくる誰かと鉢合わせした。
「げ」
「うわ」
互いに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる二人。バレナと対面しているのは、空色の長い髪をなびかせる同い年くらいの少女であった。
「……やる気かよイレーネ」
「……別に。何もないのに貴女と争うほど暇じゃないのよ」
イレーネと呼ばれた少女は髪をかき上げると、何でもないように歩みを再開させた。
「──だな」
バレナも真っ直ぐに歩き出し、そして二人はすれ違う。
イレーネは一年前よりバレナの前に立ち塞がった彼女のライバルである。ファティスの西部に家を持つ彼女は女子にしてはなかなかの腕っぷしを持ち、本人もそれを誇っていたのだが──、ある日挑んだバレナに一蹴されることとなる。
ここまでだったらままある話なのだが、それからイレーネは打倒バレナを目標に特訓を続け、最近では互角の実力を示せる程になっていた。
そうなると周囲の人間もこのビッグカードを放っては置かず、『東のバレナ、西のイレーネ』などと呼んで二人の対決を囃し立てた。
そんなこんなでいつしかライバルということになった二人は、顔を見るたびに争っていた。……のだが。しかし今日は珍しくそんな気分ではなかったらしい。
「天気も悪いし、なんかイヤな感じじゃない?今日は」
「天気──」
すれ違いながらぽつりと溢したイレーネにつられて、バレナは空を見上げていた。イレーネとしてはただ空模様について言いたかっただけなのだろうが、しかし空を見たままバレナの動きはその場で固まっていた。
「────なん、だ?」
遠くの空を、黒い影が埋め尽くしていた。鳥の群れというのなら大して珍しい話でもないのだが、それにしては大きいような……。
「あれって……」
イレーネが呟く。立ち止まって空を見つめる二人の前に、影はぐんぐんと大きくなっていく。
それは、鳥ではなかった。土の色をした体躯に二枚の翼。長い首と太い脚を持ったその生き物は、ドラゴンと呼ばれるそれに酷似していた。それが、空を隠す程の大群で押し寄せて来たのだ。十歳のバレナが理解出来ずにその場に固まるのも無理はないだろう。
「こ、こっちに来る!」
「っ!?逃げろ!」
ドラゴンの群れはバレナたちへとぐんぐん迫ってくる。イレーネの言葉に驚かされるバレナであったが、瞬時にまずいと判断してイレーネの手を取ると走り出した。本当の危機を前にしてライバルだの何だのは一時休戦である。──しかし。
「速い……!」
「ダメだ!追い付かれる……!」
思った以上にドラゴンたちの進軍は速く、あれよという間に二人は追い付かれてしまうのだが──。
「……あ、れ?」
ドラゴンの大群はバレナたちの頭上を越えて、そのまま進軍を続けていく。追われていた訳じゃないことに安堵する二人であったが、その事実は次の懸念を抱かせた。
「……アイツらの向かう先って……」
「町の方、よね……?」
イレーネの言う通り、ドラゴンの群れは町の中心へと向かっているようだった。焦りから声を張り上げるバレナ。
「イレーネ、早く帰るぞ!」
「え、ええ……!」
今度はドラゴンたちを追い掛けるように、バレナとイレーネは走り出した。互いに家に急ぐということで途中で二手に別れつつも、走るバレナ。
「何だよ急に……!」
渡り鳥みたいにドラゴンが海を越えて飛んでるだけなんだ。だから問題ないんだ。
杞憂であってほしいと願いつつも、その胸に抱いた不安は消えない。そしてその不安を増長させるように、空から声が響き渡った。
「我は、魔王軍幹部が一人ギルディアである……!魔王軍の威光を示す贄として、この町が選ばれた。貴様らに未来はない……!」
「ギル、ディア……?」
十歳のバレナに細かいことは分からない。しかし魔王という単語は彼女もよく知っている。悪いことをすると魔王が拐いに来るだとか、子供のしつけの為に大人がよく引き合いに出す存在が魔王なのだ。だからきっと良くないことが起きると、バレナの直感が告げていた。
「くそっ!」
レオンとダニエルが側にいれば心強かったのだが、今日に限って二人は秘密基地に遊びに行っており、一緒にはいない。
焦る気持ちを抱えたままバレナが中央通りに駆け付けた時、そこには信じられない光景が広がっていた。
「──へ?」
骨が、歩いている。墓場から出てきたかのような人間の骨が、剣を振り回して町の人々を襲っているのだ。それも、一体や二体ではない。数十、数百はいようかという骨の剣士が暴れまわっている様は、悪い夢にしか見えなかった。
「ぅ……ぁ……」
剣で切り裂かれた人々は逃げ惑い、血を噴き出して倒れ伏す。理解が追い付かずとも、ここにいてはいけないと直感に告げられ、バレナは近くの路地に飛び込んだ。幸いにもレオンたちと駆け回った町の裏道は熟知している。そこから抜ければ、人気のない通りに出られるだろう。
兎にも角にも家に帰ることを目的として、バレナは走っていた。路地を抜け、見知った裏通りを──。
「ぁ……」
飛び出した先に待ち受けていたものは、人間より少し大きい土色をしたドラゴンと、骨の兵士たちであった。数人の人間が血溜まりに沈むその場で、眼球なき目が一斉にバレナへと向けられる。
「はぁ……ぁ…………」
直ぐ様踵を反して走るべき場面だったのだろうが、バレナはペタンとその場に尻餅をついてしまった。そうなれば、もう終わりだ。
カタカタと骨同士がぶつかる音を響かせながら、骨兵士たちが一斉にバレナへと向かう。剣を振り上げ、そしてその命を──、
「はあッッ!!」
次の瞬間、三体の骨兵士はバラバラになってあちこちに転がっていた。彼らとバレナとの間に一人の男が割り込み、剣を一閃させて吹き飛ばしたのだ。
「でぇいッッ!!」
反す剣で更に数体を打ち砕く。自身を守るように立ちはだかるその男を、バレナは知っていた。
「レ、レオンの父ちゃん!?」
「バレナちゃん。間に合って良かった」
クレストはそう口にすると、四方から向かってくる骨兵士たちを次々に切り捨てていく。いとも簡単に簡単に砕ける骨兵士だが、それだけならばここまで人が殺されることもなかっただろう。
「────む」
バラバラに砕かれた筈の骨兵士の体が、まるである一点に吸い寄せられるように移動を始め、あれよという間に元の状態に戻ったのである。しかしその時中心にあった赤い球の存在を、クレストは見逃しはしなかった。
「成る程。核を潰さない限りは再生するということか。──なら」
立ち上がろうとしている骨兵士の側に近寄ると、クレストは赤い球へと剣を突き立てた。固そうな見た目に反してそれはいとも簡単に砕けると、中心から連鎖的に周囲の骨を塵に変えていく。肋骨の奥に隠されたそれは、さながら彼らにとっての心臓といった所か。数秒後には影さえ残さず消滅した骨兵士の様を見届けて、クレストは成る程。と呟いた。
「原理さえ分かれば容易いな」
言うと同時に、右から来る骨兵士の肋骨に、平行にした剣を滑り込ませる。核を貫かれた相手は、まるで糸の切れた操り人形のように突然動きを止めて倒れ込んだ。
「次、次ッ」
冷静にそう呟きながら、クレストは向かってくる骨兵士たちを軒並み葬っていく。動いている相手の骨と骨の隙間を突くなぞ、常人どころか騎士団の人間であっても不可能な芸当だろう。しかしクレストはそれが出来てしまう。
ファティスにおいて最強は誰かと聞いたなら、皆がこぞってその名を口にするであろう男こそが、サースレオン剣術道場の師範代にしてレオンの父、クレストなのだ。
「────ふぅ……」
付近の骨兵士を全員片付けると、クレストは小さく息を吐き出す。しかしその動きは止まらない。一呼吸した後、クレストはその場で思い切り姿勢を低くした。
ギャアァァァァァァ!!
絹を裂くような咆哮と共に、身を縮めたクレストへと鋭い一撃が放たれた。ただ一匹その場に残ったドラゴン──ワイバーンがクレストへ攻撃を仕掛けたのである。
ワイバーンは自身の首を鞭のようにしならせ、クレストへと伸ばしていた。──ワイバーンは両手が翼になっており、火を吐くことも出来ない故に、攻撃方法は脚の爪による引き裂きか、頭による噛み付きのどちらかだ。
どうやらこのワイバーン、クレストが骨兵士を倒している間は動かず戦況を見守っており、敵が疲弊したと判断してやっと動き出したようだ。……しかし残念ながら、それもクレストの仕掛けた罠だったのだが……。
「ふッ」
クレストは吐息を漏らすと同時に身を起こすと、迫る攻撃を横っ飛びに回避した。
ギャアァァァァァァ!!!
そして瞬時にワイバーンの左側面に回り込むと、
「ッええい!!」
獲物を捕らえ損ねた首に向かって剣を叩き付けた。それで終わり。ワイバーンは首を落とされ、その場に崩れ落ちていた。
あっという間にこの場の敵を全滅させてしまったその背中を、バレナは固唾を飲んで見つめている。
「バレナちゃん、もう大丈夫だ。立てるかい?」
「ぇ、ぁ……ゎっ……」
言われて立ち上がろうとするバレナだったが、どうやら腰が抜けてしまったらしく、足が言うことを聞いてくれなかった。
苦しそうにしているバレナへと目を向けて、クレストは優しく微笑む。
「よし、それじゃあ一緒に行こうか。家はこの近くだから」
そう口にして、身を屈めてバレナをおぶろうとしたクレストだったが、瞬間、その体がぴくりと反応した。
「…………バレナちゃん。すまない。……もう少しだけ待っていてくれ」
何処か冷たさの混じった声色で背後の少女にそう告げると、クレストは前を見つめたままゆっくりと立ち上がる。
「屍兵どもの反応が消えた地点があるからと来てみれば、なんだこれは?」
その眼前に、二人、見知らぬ男が立っていた。一人は、頭からローブを被って顔を隠している男。そしてもう一人は、鎧を纏った大男であった。特筆すべきはその鎧が、吸い込まれそうな程の漆黒に染まっている、ということだろうか。未だかつてここまで黒い鎧など見たことがないクレストは、警戒に目を細めて男と対峙していた。
「よもやワイバーンまで仕留めているとはな。この町にもなかなかの人間がいるようだ」
「……お前が魔王軍の幹部とかいうやつか」
「──いかにも」
燃えるような赤い髪に、赤い目をぎらりと光らせて、鎧の男はクレストを見据えたまま口を開いた。
「俺はギルディア。先も名乗ったが魔王軍幹部が一人だ。本来はこうして人間一人を相手に出向くなどあり得んのだが……。貴様らには絶望を歩んで貰わねばならんのでな。お前のようなイレギュラーは排除せねばならん」
「ほう。そうかい」
剣を構えるクレストに、ギルディアはフン、と鼻を鳴らした。
「多少腕が立った所で人間は人間。この俺と対峙することさえ不敬と知れ……!」
「ギルディア」
と、そのタイミングでフードの男がギルディアへと声を掛けた。
「あまり人間を甘く見るな。奴等の進化はお前が思うよりも早いぞ」
「……そのようなこと」
「…………」
二人のやり取りを受け、クレストは訝し気に眉根を寄せた。傲岸不遜を絵に描いたようなギルディアが、ローブの男には敬語を口にしたのだ。魔王軍幹部と名乗る彼よりも立場が上だというのか。
しかしローブの男に強者のオーラはまるでない。その声も姿勢も出で立ちも、何処にでもいそうな平凡な男という印象しか感じさせないのだ。声にも立ち振舞いにも威圧を含ませるギルディアとは、まるで対極とでもいうべきか。
「ご心配なく。そのような配慮は無用であることを、この俺が証明してみせましょう」
全身から自信と怒りを迸らせながら、ギルディアがゆっくりと前進する。そしてクレストの間合いに踏み込むと、脚を止めてこう口にした。
「チャンスをやろう。人間。先に打って来い」
あくまでも自分が上であるという認識を崩すつもりはないらしい。その方が都合が良いとクレストも苦笑する。
「いやいや、そちらさんこそお先にどうぞ」
「貴様ッ!!対等とでも思っているのかッッ!!」
案の定、同じことを言い返されただけでギルディアは激昂してしまった。「ならば死ね!」と剣を振り上げると、一息のうちにそれをクレストへと振り下ろしたのである。
「おっと」
それを後方に飛び退いて回避するクレスト。予想を上回るスピードで刃が鼻先を掠め、冷や汗が流れる。
(とんでもないパワーだ。これは多分受けれない。一発でも貰ったら致命傷だな)
「どうしたぁ!!」
何度となく剣を振り下ろすギルディアと、それを回避し続けるクレスト。同様の場面が続き、痺れたのだろう。ギルディアが声を張り上げた。
「臆病者が!いつまで逃げるつもりだ!」
「そりゃ、見切れるようになるまで、だな」
そうして放たれた一撃を今度は横に回って回避すると、クレストは遂にギルディアの剣に自身の剣を打ち付けた。しかしそれは下から受け止める訳ではない。振り下ろされた剣に、更に上から一撃を加えたのである。
「なにッッ!?」
ただでさえ重い一撃に更なる加速が加えられ、ギルディアの剣は地面に深く突き刺さった。
ギルディアがもう少し力を込めたならば、それを引き抜くことは簡単であったろう。しかしこれまでの流れが単調であった故、ギルディアは流れ作業のようにそれまでと同じ力で剣を持ち上げようとしてしまった。
「ぐうッッ!?」
結果、剣は抜けず、ギルディアには防御もままならぬ致命的な隙が生まれてしまう。そして、それこそがクレストが狙っていた瞬間でもあった。
「おおおおおッッ!!」
ギルディアの剣を踏み台にして飛び上がると、クレストは自身の剣を横一文字に振るう。狙いはその首。
「ぐ、ぬうううッッ!」
回避不能の一撃が迫り、今正に炸裂せんとしたその時であった。
ギィン──!
突如としてギルディアの眼前に現れた半透明の壁が、クレストの剣を弾いていた。
「ぐッッ」
攻撃の不発を悟り、咄嗟に飛び退いて体勢を立て直すクレスト。屈辱に顔を歪めるギルディア。そんな二人の視線の間に、フードの男がいた。
「分かったろう。ギルディア。足元を掬われると」
「ぐ、う……。これは……しかし……」
「俺が手を貸さねばお前は致命に近い一撃を受けていた。それでもまだ口答えをするのか?ギルディア」
「────いえ」
言葉こそ重いが、その声色はまるで軽口のようだった。それでも引き下がったところを見るに、ギルディアが彼を上に見ていることは確かなのだろう。
フードの男が続ける。
「俺がお前を救ったのは、お前にまだ果たしてもらいたい役割があるからだ。分かったら下がっていろ。この男は俺が手を下す」
「へえ」
二人のやり取りを聞いて、クレストが小さく息を吐き出した。
「見たところ大した武器も持っていないようだけれど、随分と強さに自信があるようだね?」
「それはこちらの台詞だ。お前一人なら逃げる隙はあった筈だぞ?何故それをしない?」
「何故、か……」
呆れたように口にするフードの男を前に、クレストは小さく苦笑した。飄々とした態度を崩しこそしないものの。その心は穏やかではない。
ギルディアへの一撃は、彼の傲りと侮りの隙をついたものだ。真正面からぶつかれば、クレストなど百回挑んだところで勝てる相手ではないだろう。
そのギルディアが頭の上がらぬ相手が弱いはずないのだ。クレストの心は、今すぐにでも逃げろと彼自身に告げている。……それでも。
「君らは知らないかもしれないが、大人には子供を守る義務があるんだよ」
乾いた笑みを浮かべながら、クレストは背後のバレナを守るように剣を構えて立っていた。フードの男は、「なるほど」と嘆息する。
「立派な志だな。クレスト。あの日の小僧が、実に大きく育ったもんだ」
「──なに!?お前、何故俺を……?何者だ……」
昔を懐かしむような男の言葉に、クレストが眉根を寄せる。このような惨劇を起こした一味に知り合いがいるなど、彼にとって考えたくもないことだろう。そんなクレストの態度に、眼前の男は「はは」と笑って見せた。
「俺が何者か、か。教えるのは構わんが、一つ忠告をしてやろう。クレスト、好奇心は猫をも殺すぞ」
「なんだと?猫……?何……を……」
男の言葉の意味が分からず訝しむクレストであったが、その目は見開かれることとなる。男が、フードを脱いで素顔を晒したのだ。その尊顔を目の当たりにして、クレストはそれ以上の言葉を失ってしまったのである。
「なん……で……」
それでも眼前の男に向かって、クレストは声を絞り出した。見るはずのないものを見てしまった目をしたまま、クレストはゆっくりと口を開く。
「なんで、あんたが……。サース──」
それ以上の言葉をクレストが口にすることはなかった。男の手から放たれた黒い刃が、一瞬でその首を断ち切り吹き飛ばしたのだから。
「────え?」
彼の背後で見守っていたバレナは、そんな間向けな声を上げることしか出来なかった。