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エピソード・オブ・ウィズ 〜その1〜

今回はウィズの過去話になります。

 最初に憶えているのは、故郷の森で優しく魔法を紐解いている母の声。草木の匂い。木漏れ日の光に混じる、マナのきらめき。ああ、これが魔法なんだと思ったのをよく憶えている。


 父には見えないらしいこの綺麗な光は、いつだって世界に溢れていた。これはなぁに?と母に尋ねると、長い睫毛を瞬かせて。嬉しそうに、微笑って抱き締めてくれた。


「素敵ね……私の可愛いウィズにもこれが見えるのね」


 内緒よ、と悪戯っぽく笑うと母は普通の貴族令嬢は知らないであろう数多くのことを教えてくれた。




 ロレーヌ伯爵である父ユージーンと宮廷魔導師である母アリシアの間に生まれた一人娘のウィズは、穏やかに愛されて育った。貴族令嬢としての教育を受けながらすくすく育ったウィズは、自然豊かな森でお気に入りの本を一人でひっそりと読むのが好きな引っ込み思案な令嬢だった。幼い頃から見えていたマナは、人が多ければ多い程騒がしく瞬く。その為、ウィズは人混みが苦手だった。もう少しすれば視覚もある程度制御出来るようになるらしいのだが、未熟な今はまだそれも難しい。自然と、人の少ない森の木陰がウィズのお気に入りの場所になった。魔法について書かれた書物、世界の成り立ちを謳う神話、可愛らしいおとぎ話……人に接すると疲れてしまうウィズの心を、それらは癒してくれた。

 そんなウィズを叱ることなく、屋敷に帰ってくるとおかえりと優しく笑って父は迎えてくれた。

 宮廷魔導師だった母は忙しい人で、屋敷に居ない時が半分くらいあった。それでも魔法についてわからないことがあると、いつだって愛情深くウィズを教え導いてくれた。

 一人娘のウィズは伯爵家を継がなければならなかったので、八歳の頃にはもう婚約者が居た。


「お前、またこんな所に居るのかよ」


 根暗女、とぼそりと不満そうに呟いた彼は値踏みするようにウィズのことを見た。


「他の令嬢たちは、ちゃんとドレス着てお茶会で社交してるんだぞ?婚約者のお前が森に籠ってるせいで、俺は良い迷惑だ」


 見た目も地味だし、と吐き捨てると隣の領主の息子は鼻を鳴らした。三男の彼は、継げる領地が無くそのままでは貴族であり続けることは出来ない。それを結婚するだけで貴族と名乗れるようにしてあげるのだから、正直文句を言われる筋合いはウィズには無い。しかしそれを指摘すると怒り狂って暴れるだろう。面倒だな、と思ってウィズはちらりと視線だけは寄越した。無視をするとそれはそれでうるさいので。


「申し訳ありません、ニコラス様。少し、体調が思わしくなくて休んでおりました」


 しおらしく聞こえるように選んだ言葉は、婚約者殿のお気に召さなかったらしい。


「屋敷で寝込んでいるならともかく、森で?」


 ハッと嘲るようにこちらを見下ろす。こう言うどうでも良いことには目敏いのだ。ああ、嫌になる。


「身体が丈夫で滅多に寝込まないって釣書にあったぞ?虚偽申告なら慰謝料払えよ」


 婚約者の下品な物言いに、ウィズは内心溜め息を吐いた。昔馴染みのお隣さんに頼み込まれたからと言って、どうして父はこんな縁談を受けてしまったのか。だが、こんな彼でも一端の貴族のふりは出来るらしく外面はすこぶる良い。父には礼儀正しく爽やかに振る舞う裏で、こんな風にウィズには陰湿なことを言うのだ。正直ウィズは辟易していた。


「体質で、人混みに行くと体調が悪くなるのです」


 我慢出来ない程ではないが、お茶会の次の日は疲れでベッドから起き上がれなくなる。目が疲れているので、読書も出来ないのがウィズとしては痛い。ちなみに森にいる分には元気はつらつである。まだ十にも満たないのだから、これくらいは大目に見てもらって然るべきだとウィズは思っていた。


「それ、貴族としてどうなの?」


 しかし、婚約者殿はそれも気に食わないらしい。気に食わないなら、お茶会とやらでもっと好ましい婚約者を見繕えば良いと思うのだが――そう上手くは行かないらしく、今日も彼は悪態をついて踵を返した。


「あーあ、お前も母親くらい見た目が華やかならまだ良かったのにな」


 ウィズは顔をしかめたが、彼は振り向かずに立ち去った。ウィズの髪の焦げ茶色は、優しい父に似た。それでも、深い蒼の瞳と優しげで整った顔立ちは母に似て美人だとこれでも褒められて育ったのだが。


「……金髪フェチくそ男」


 母の髪は美しい黄金色で、性格も社交的だ。王都でも人気者なのだと父が語っていた。奥手な父は、振り向いてもらうのに大変な努力をしたらしい。目立たないが優しく、家族と領民思いな父がウィズは好きだった。そんな父が嬉しそうに撫でるこの髪だって好きだった。

婚約者って下らない。そんなものに時間を割くくらいなら、魔法や領地経営の勉強をしていた方がずっといい。

 ウィズは再び、何事もなかったように魔法書に視線を落とした。




 母は王宮魔導師として勤めながらも、領地へ帰ってくると必ずウィズと一緒に過ごしてくれた。


「この青くて菱形の花がテツロの花。花びらの形が特徴的で、淡い甘い薫りがするの。こっちの赤いのがコリグの実。棘を指に刺さないように気を付けてね」


 一つ一つ、丁寧に愛おしげに母は様々なことを教えてくれた。


「この二つから取れるエキスを一晩煮詰めると、睡眠魔法の治療薬が作れるの」

「えっ……一晩?」


 何でもないように言う母に思わず聞き返すと、母は微笑んで頷いた。


「そう、一晩よ。それで大切な人を助けられるなら、安いものでしょう?」


 そう答える間にも母は手を止めることなく、手際良く素材の下ごしらえを進めてゆく。テツロの花びらをがくから外す手伝いをしながら、ウィズはその横顔をそっと眺めた。

 当たり前のように、困っている誰かに手を差し伸べられるひと。そんな強さを持っているのがウィズの母だった。


 貴族の令嬢なら普通は体験しないようなことを、母は教え続けてくれた。

魔法薬の材料の採集のしかた。素材の下ごしらえの方法。森や山で食材を集めて、安全な食事を作るやり方。

 ウィズの母は、魔法だけではなくそれに関わる様々なことをあまねく教え続けた。


「魔法を使うのに大切なのは集中力。どんな戦場でも一番の自分を発揮出来るようにならなければ意味がないの」


 その為に、よく食べてよく寝て体調を万全に整える。怪我や毒などにやられたら出来る限り回復させる。魔力が使えない時、使えない人でも魔法薬があれば生き残る確率は上がる。魔法を教える間にも、そのことをよくウィズの母は説いた。

 父を招いて三人で、森で採取した素材で作った料理を食べたこともある。

 質素な見た目でとても貴族が食べるような料理ではなかったけれど、材料の新鮮さと素朴な味わいが美味しく、こっそり食べては三人で美味しいねと笑った。母と森で採った木苺の甘酸っぱさ。瞳を輝かせながらウィズの作った料理をフォークで取り、嬉しそうに味わってくれた父と母。その温かさを、今でもウィズは憶えている。


「さぁウィズ、目を閉じて」


 木々を揺らす風のざわめき。優しく肌を撫でる柔らかなひだまりの温かさ。草の匂い。そして──闇の中で瞬くマナのきらめき。

そっと母がウィズの手を取ると、柔らかな感触と共に温かなマナが流れてくる。


「わかる?ウィズ」

「うん……お母さまのマナ、とってもあったかい」


 くすぐったくて、でもゆったりと優しく巡るマナに身体がぽかぽかしてくる。


「これが回復魔法の基本。相手のマナを感じて、呼吸を合わせて触れるの」


 目を開くと、蒼い瞳を細めて母が苦笑した。


「ごめんね。実はお母さん回復魔法は得意じゃないの。出来るのは小さな傷を塞ぐだけの簡単なものや、軽い疲労回復ね」


 立ち上がって土を払うと、母は再びウィズに手を差し伸べた。


「さあ、おいで。次はとっておきの魔法を教えてあげる。まずは魔法陣を書く良い枝を探しましょう!」


 二人で競争して書くのに良い枝を探して。何度も何度も、土の上に魔法陣を描く。朝から晩まで何日も気が遠くなる程魔法陣を描き続けた。母が仕事でいない日も、雨の日も風の日も休むことなく。目を閉じていても、身体が自然と動くようになる。気付けば夢の中でも描いている。そうして、意識しなくても書けるようになる頃には、脳内で魔法陣を構築出来るようになっていた。


 知れば知る程、魔法を学ぶのは楽しかった。新しいことが出来るようになる度、新しい景色が見えてウィズは自由になれるような気がした。

 貴族令嬢として生きてゆくことは、言わば敷かれたレールを過たず歩き続けることだ。頭が良く努力家なウィズにとって、社交を除けばそれは簡単なことだった。領地経営の勉強も面白く、父が褒めてくれると嬉しかった。けれど。

 窓の外を見ると、そこには庭師が計算した美しい庭園が広がっている。窓枠に区切られた穏やかな青空と緑と季節の花が咲き誇る整えられた庭園。貴族令嬢はこの庭園のようだ、とウィズは感じていた。華やかで美しく、一分の隙も無い。それは確かに価値のある守るべきものだろう。その美しさに心を癒され、生きてゆく者だっている。


 わかっている。わかっているのだ。それでもどうしても、ウィズの心は魔法と外の世界に焦がれた。風、火、水、土、雷、光、闇。この世界にあまねく息づいているマナのきらめき。世界の秘密を知る度に、見える世界が広がった。

 少しずつ出来ることが増える度に、何処にだって行けるような気がした。憧れだけが、静かにウィズの心を焦がしていた。


 しかし。そんな日々は唐突に終わりを迎えた。


 ウィズが十七歳になった頃、隣の領地に魔王軍が侵攻し、あっという間に占領されたのだ。隣の領主一家は皆殺し。領民も捕えられ、強制的に労働させられているのだと言う。

勿論、森を隔てて隣に住むロレーヌ伯爵家も臨戦体制に入った。宮廷魔導師であるウィズの母が最前線を守り、領主である父は非戦闘民である領民たちにわずかながらも食糧などの救援物資を与え、緊急避難の指示を出した。

 ウィズの母は的確な判断と魔法の実力、森からの奇襲で魔王軍を食い止めていた。しかし遂に森に火が放たれると元々多くはなかったロレーヌ家の私兵の大半が犠牲となり、戦線は崩れた。

 少しでも役に立ちたくて。父の手伝いをしながら母の元に赴き伝令役を担っていたウィズが見た母の最期の姿はぼろぼろで、それでも勇ましかった。


「お母さま……!」


 森を焼かれるまではいつものように頼もしく美しかった母の姿は見る陰も無い。長い黄金色の髪は一部焼け焦げて短く切られ、白く滑らかな肌は灰と血で薄汚れていた。それでも、海のように深い蒼の瞳は最後まで民を守ろうと強い意思の光を失っていなかった。


「ウィズ!もう此処に来ては駄目よ。貴女も逃げなさい」


 よろめきながらも母が魔力の揺らめきに反応しキッと空を見据える。魔王軍の大規模な焔の魔法は、寸でのところで氷の壁に相殺されてポロポロと氷壁と水滴が下に零れ落ちる。周りにもう立っている人は他にいない。後ろは逃げ惑う人々の怒号や泣き声、叫び声だけが響いていた。


「お母さまも……お母さまも一緒に」


 初めての戦場に震えながら母に手を伸ばすと、いつものように優しく母が手を包み込んでくれる。微笑む蒼の瞳は、何処までも強く優しくて。


「駄目よ、ウィズ。もう此処を守れるのは私だけだから」


 貴女はお父さんをお願い。そう言って、母は綺麗な髪を躊躇いなく短剣で切るとウィズの手に握らせた。


「嫌……嫌よ、お母さま」


 涙が零れる。こんなのは嘘だ。あんなに母は強いのに、魔族になんかやられる筈がない。一緒に帰るのだ。父と母と三人で居られるなら、他に何もいらない。


「お母さまが逃げないなら、私も戦う…!」


 今度は自分が母を守る。そうでなければ、何の為に魔法を学んだと言うのか。


「駄目よ」


 しかし、母は即座にウィズの決死の覚悟を切り捨てる。何で、と詰め寄ろうとしたウィズを母は突き飛ばした。刹那、すぐ横にあった大木があかあかと燃え上がり轟音と共に倒れる。


「お母、さま……!」


 地面に倒れた時に胸を強く打ったせいで上手く声が出ない。母は逃げ遅れて燃え盛る木々の下敷きになっていた。髪の焦げる臭いに、悲鳴が漏れそうになるのを必死で飲み込む。


「ごめんね、お母さん……もうウィズを守ってあげられないみたい」


 ごぼり、と母の口から血が零れた。


「もう、動けないみたい……だから逃げて、私の可愛いウィズ」

「……!」


 ウィズの瞳から涙が零れ落ちる。這いずるように母に近付き、腕を引くがびくともしなかった。母が微笑む。


「愛してるわ……だからお願い、逃げて」


 次が来る、と母が静かに呟く。痛みに顔をしかめながら、母が虚空を睨むと黒い魔力の揺らぎは霧散した。


「これで魔法は打ち止め。───早く逃げて、ウィスタリア。世界で一番大切な、私の自慢の娘なんだから」


 死んじゃ駄目よ、と母が気丈に微笑みながら涙を零した。


「愛してるわ、ウィズ」


 再び大気が歪み、轟音と共に周囲は火の海になった。もう誰も止める者はいない。悲鳴を飲み込んで、泣きながらウィズは駆け出した。母の姿はもう見えない。焼け野原を走って、走って。足が縺れて転んでも、必死に起き上がって走った。母と魔法の思い出に溢れた森が燃えている。沢山の思い出が浮かんでは、涙が零れた。


「【フリザド】…!」


 焔に塞がれた進路を、氷魔法で無理矢理に抉じ開ける。領主の屋敷に駆け込むと、ウィズは叫んだ。


「戦線は崩壊しました!お父さま……逃げて下さい!」


 静かに、父が顔を上げる。悲しげに微笑む顔に、ああ、父にはわかっていたのだと思う。もう二度と母に会えないこと。それを知っていて、それでも決断せざるを得なかった。母以上に強い人は、この領地にいなかったから。


「伝令ありがとう。それじゃあウィズ、これを持って今すぐ此処を出なさい」


 大きなナップザックを押し付けられる。ズシッと重いそれは、母がよく仕事で使っていた軽量魔法の施された特注品だ。──父は、何処まで理解して準備を進めていたのだろう。

 ウィズの表情から考えを察したのだろう。父は微笑んだ。


「これを用意したのはアリシアだよ。必要にならなければいいって、願っていたけど」


 やっぱりアリシアは凄いなぁ、と父は呟いた。そうしている内にも、燃え盛る森の熱気が近付いてくる。ウィズは父を真っ直ぐに見据えた。


「お父さま、此処から逃げましょう。もう逃がせるだけの住民は避難済みの筈です」


 ウィズの言葉に、父は穏やかに頷く。


「そうだね。領民の避難は済んだ。ここからが、私の最期の仕事だ」


 そう言って立ち上がると、父はそっとウィズを抱き締めた。


「これから私は、魔王軍に対して降伏交渉に行く。領主として、私の命と引き換えに領民の安全と降伏を願い出ることになるだろう」


 父は何でもないことのように静かに言った。だからお別れだ、と。


「ごめんね、ウィズ。これは最初から決まっていたことなんだ。だからそんなに泣かないで」

「……っ!」


 声もなく泣きながら、嫌々とウィズは首を振った。そんなのあんまりだ。まだこうして生きてるのに。


「一緒に、逃げようよ……」


 そうしたってきっと、誰も領民は責めたりしない。母は最期まで最前線で領民を守って亡くなった。父も、救援物資まで渡し最後の最後まで残って避難指示を出したのだ。


「ごめんね、ウィズ。でも、私は領主として育ててもらったから」


 だから、恩返しくらいはしないと。そう言って、弱々しく微笑う。行かないでほしくて抱き締めた身体はいつものように優しくて温かくて。死の恐怖に震えてさえいなかった。


「君を独りにするなんて、酷い父親だね。ごめんね」


 こんな日が来ることを、父はずっと覚悟していたのだろうか。


「本当は、アリシアが君と一緒に逃げてくれれば良かったんだけど」


 ぽつん、とこぼすように父は言って一筋の涙が頬を伝う。


「絶対に嫌だ、私が倒して家族三人で暮らすからって……アリシアは、本当に強情だなぁ」


 だから惚れたんだけど、と父は寂しそうに笑った。

屋敷が熱で軋む音にウィズが身を震わせると、父はぽんぽんと頭を撫でてウィズから離れ真っ正面から向き合った。


「領主として最期の命令だ。ウィスタリア・ヴォウ・ロレーヌ……此処から逃げて、絶対に生き延びなさい」


 領主の命令──それは此処に住む者にとって絶対の命令だ。実は穏やかな父こそ母以上に強情だったのだと知り、ウィズは泣かずにはいられなかった。


「二人とも酷い……ずるいよ」


 そんな大切なことを、ウィズに相談なしで決めて。子供扱いしたくせにこれからは独りで生きていけだなんて、なんて残酷でずるいことを言うのだろう。


「……そうだね、私たちは酷い親だ」


 一人でなんてどうやって生きて行ったらいいのか。生まれ故郷も、大好きな家族もなくしてたった一人で生きろだなんて。あんまりだ。

泣きじゃくるウィズの涙をそっと指でぬぐうと、父はウィズにそっと首飾りをかけた。


 「ごめんね、ウィズ……これは、本当は結婚式の時にアリシアと二人でプレゼントしようって話してたんだけど……今、渡すよ」


 しゃらり、と銀の鎖が鳴る。小さなダイヤモンドにサファイアが星のように静かに瞬いた。


「ウィズが幸せになれるように、ってアリシアが守りの魔法をかけてくれてる」


 その言葉に、ウィズはまた涙を零した。ああ、確かに感じる。これは母の魔力だ……こんなに温かいのに、もう二度と会えない。その事実がウィズの心を打ちのめす。


「幸せになるんだよ、ウィズ。君は私とアリシアの自慢の娘なんだから」


 何処に行っても、君なら大丈夫だ。そう呟いて最後にもう一度ウィズを抱き締めると、父は振り返らずに部屋を出て行った。慌てて追い縋るウィズの瞳に映ったのは燃え盛る故郷の森。父は、もう何処にもいなかった。


◆◆◆◆◆


 ウィズの父が降伏勧告の書面に血を流した指で触れると、周囲の景色が一瞬で入れ替わる。魔族の使う転移魔法だ。

 此処は何処だろうと見回す。異様な静けさだが、見覚えがある場所だった。


「ユージーン・ヴォウ・ロレーヌ……ロレーヌ伯爵だね」


 遅いお着きだ、と少年のような声が豪奢な回廊に響く。ウィズの父……ユージーンが振り返ると、そこには金髪に紅い瞳の華奢な少年が佇んでいた。白く滑らかな肌に長い睫毛、整った顔立ち。明らかに高貴な生まれの子供だった。


「坊や……此処は危ないから逃げなさい」


 ユージーンが穏やかに声を掛けると、少年は甘く柔らかな声で可笑しくて堪らない、と言うように笑い出した。


「わからないの?僕が君の領地を焼いた張本人……魔王軍幹部、アシュレインだよ?」


 やっとお招きに応じてくれて嬉しいよ、と微笑むアシュレインに、ユージーンは目を見開いた。努めて冷静にと呼吸を整えると、ユージーンはアシュレインに向き直る。


「これは失礼致しました、アシュレイン閣下。お察しの通り、私がユージーン・ヴォウ・ロレーヌでございます」


 子供の姿と侮ることなく礼を尽くすユージーンに、アシュレインは鷹揚に頷いた。


「赦す。それで、此処に来てくれたってことはようやく降伏してくれる気になったのかな?」


 そう言いながらアシュレイン自ら、慣れた様子で屋敷の扉を開ける。その部屋を目の当たりにして、ユージーンは嘆息した。ああ、やはり。

 血の痕が残る豪奢な部屋は、隣の領主ウィンザー家のものだった。


「汚い場所で申し訳ないけど、座ってくれる?降伏の条件について早速書面に纏めないと」


 アシュレインは綺麗な声で上機嫌に告げると、ユージーンに椅子を勧めた。微笑みながらアシュレインは言う。


「僕はこう見えて慈悲深い魔族なんだ。ギルディアみたいな脳筋と違ってね」


 だから降伏勧告もちゃんと出しただろう?紅い瞳を細めて、アシュレインはユージーンを見据えた。


「ねぇ、どうしてもっと早く降伏してくれなかったの?」


 そうしたら森を焼く必要なんかなかったのにと残念そうにアシュレインが嘯く。領民も殺さずに有効活用してあげたのに、と彼はにこにこと言った。

 ぱちん、とアシュレインが指を鳴らすとおぞましい姿の生き物が紅茶を運んできた。


「まだ躾け中だから、粗相をしても許してあげてね」


 ぞわりと背筋を戦慄が走るのを堪え、ユージーンはありがとう、と紅茶を受け取った。


「ふふ、本当に惜しいなぁ。ウィンザー伯爵の領地なんかより、あの森と君の奥さんの方が何倍も有用だったのに。そこの所、ウィンザー伯爵はおりこうさんだったよ?可愛い我が身と引き換えに、すぐに領民ごと僕に差し出してくれてね」


 アシュレインは語りながら、さらさらと流暢な字体で約定にサインを入れる。震えそうになるのを必死で抑えて、ユージーンはアシュレインの話に耳を傾けた。


「さてと、こんな所かな?まったく、君の奥さんと来たら手塩に掛けて作った僕の可愛い部下をあんなに殺すんだもの。あんまり苛立ったから、目の前で娘を殺してやろうと思ったのにそれも全部防がれるし。この手で引き裂いてやりたかったのに、最期は娘を逃して勝手に死んだときたもんだ。この僕の苛立ちはどこに向かえばいいのさ?」


 思わずアシュレインを鋭く見遣ったユージーンの反応に、魔族の少年は愉しげに笑った。


「あはは、やっとこちらをちゃんと見てくれたね?」


 紅い瞳に、強く闇い魔力が揺らめく。ユージーンは縫い付けられたように動けない。


「君の望みは、領地と君の命を差し出す代わりに、領民の無事を保証することだったね」


 今すぐ殺して首を曝してもいいんだけど、とアシュレインは何でもないことのように言って微笑う。


「君たちには大分手こずらされたし、もっと違う形で僕に貢献してもらおうかな」


 約束が違う、と叫ぼうとしたが声が出ない。愉快そうにアシュレインは声を上げて可愛らしく笑った。


「領地に戻って来ない限り、領民の無事は保証してあげる。言ったでしょう?僕は約束は守るし、こう見えて慈悲深いんだ」


 ギルディアなんかはすぐ人間を殺しちゃうけどさぁ、命の無駄遣いは良くないよね?そう嘯くと、アシュレインはユージーンの顎に手を掛けた。


「僕は君を気に入った。だから、君の命をちょうだい」


これからも、いっぱいいっぱい遊んであげる。そう微笑む美しい少年の姿を最後に、ユージーンの意識は途切れた。

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