出会い(7)
凄まじい轟音が聞こえ、まるで雹が降ってきたかのように次々と何かが車のボンネットを打ちつける。
「……なに?」
ようやく胸の痛みが治まったクオンが顔を上げて見回すが、暗くて何もわからない。
『記憶を辿られては困る。あの人間達は消させてもらった』
「?」
不意にどこからか声が聞こえ、クオンは困惑する。
まさかと思い、振り返り、猫を見つめる。その青い瞳が暗い車内にぼんやりと煌めく。
『厄介な存在だ。我らが悲願への禍根の種と認定しただけのことはある』
「えっと……」
構わず聞こえてくる声が、目の前の猫からのものと認識するのにそれほど時間はかからなかった。
『だがこうして一時を稼ぐことには成功した』
「あのう……」
何事かぶつぶつと呟く猫にクオンは声をかけるが、まるで相手にされていないようだった。
『自害せよ』
突然猫はクオンを見つめ、命令を下した。
「!」
クオンはその青い瞳に射すくめられ、全身金縛りにあったかのように身動きが取れなくなった。
そして自分の意志とは関係なく両手が動き出し、自らの首元に迫っていく。
「あ……なん……なの……」
どうにか声を絞り出して問いかける。
両手は首をがっつりと締め付け始める。自分でも驚くほど強い力だった。
『悪く思うな娘よ。お前はやがて憎き魔女をその身に宿すことになる。奴は幾度となく世界を変転させ、我らが悲願を邪魔してきた』
自らの手で苦しみ座席の上から転げ落ちたクオンを見下ろして、猫は淡々と続ける。
『安心しろ。やがて終末を迎え、全ての人間は滅び、我らと共に宙へと還るのだ。少し早いか遅いかの違いでしかない』
「……あ……ぁ……」
だんだんと意識が遠くなっていく中、クオンは全く別のことを考えていた。
脳裏に浮かんでくる家族の顔、子供の頃の思い出、昨日食べた御飯のおかず。そのどれもが精彩に思い出される。これが走馬灯というやつか。
そして浮かんでくる一人の少女の姿。
どこか浮世離れした雰囲気に惹かれ、話してみると案外普通の子だった。
かと思えばとんでもない非日常を呼び込んできた。
そんな彼女に振り回される日々は楽しかった。まだまだ足りなかった。
やっと図書委員の仕事を覚え始めたところだ。教えることは山ほどある。
彼女の力やお仕事についても問い正さねば。知らないことだらけだ。
そのためにはこんなところで死んでやるつもりはない。
抗い続けろ!
「!」
意識が消える瞬間、火が着いたかのように胸の奥が熱く痛み出した。
いつもの発作か、別の何かなのか、そんなのわからないくらい全身が燃えるように熱かった。
『なに?』
猫は自らの首を絞めながらもはっきりと意識を保ったまま睨みつけるクオンを見て、恐怖を覚える。その瞳は赤く紅く燃え上がっていた。
『まさか――もう目覚めたというのか? 我らの干渉が時を早めたとでも? だが無駄だ。聖典のないお前など――』
「にゃー!」
狼狽える猫に『もう一匹の』猫がけしかけられた。
『お前は! やめ――』
現れた灰色の猫は、同じ姿形の白猫に爪を立て、牙を剥き、容赦なく襲いかかる。
まるで毛糸玉をじゃれてあっという間に解きほぐすかのように、襲われた白猫は青い粒子を撒き散らしながら、どんどん小さくなっていき、そしてそのまま消え去った。
「ん――」
身体が自由になったクオンは両手を首元から離し、まだ中空を漂う青い粒子を引っ掻き続けている灰色の猫に伸ばした。
全身の熱や痛みも消え、瞳も元の赤みを帯びた色に戻っていた。
「にゃあ」
猫は我に返ったように振り返ると、一瞬の逡巡の後、クオンの元へと飛び降りた。
その瞳はクオンと同じ赤みを帯びた色で、飛び散った青い粒子の中、小さく煌めいた。
「クオン!」
車のドアがケイによって勢いよく開かれる。
警察に捕まった田中を置いて、急いで駆けつけた。
胸騒ぎがした。クオンの身に何か危険が迫っているのではないかと。
「――あれ?」
だがそこには一匹の猫を両手で抱いて、静かな寝息を立てるクオンがいるだけだった。
その顔は安心しきっているように、穏やかだった。
『間に合った――のかな?』
暗闇の中、少女の声が小さく響く。
『さあな。だがこれで終わりではないだろう』
別の声がそれに応えるように聞こえてくる。
『あの猫は神鏡さんだったの?』
『違う。とは言い切れないが、あっちの世界の神話にもあったろ? 神様は元々一つだったんだ。神鏡があの時俺と母さんの出会いを見てしまったせいで、他の神々にもこの世界が知られたと見るべきだろう』
『じゃあお母さんとケイさんを守るのが、わたしたちの役目なのかな』
『今はそうするしかない。また別の神がちょっかいを出してこないとも限らないし』
『ケイさんに協力してもらうのは? 魔女の方のケイさんはそうしたんでしょ?』
『それは最終手段だ。この世界にどんな影響が出るかわかったもんじゃない。今はまだ見守ろう』
『……でも、まさか学生のころのお母さんたちに会うことになるとはなあ』
『二人を出会わせたところまではよかったが、まさか偽物が現れるとは油断してた』
『うんうん。ナユ――イツカくんがケイさんと出会うのはもっと後なんだよね?』
『ああ。高校卒業後だ。でもそれは多分もう起こらない』
『どういうこと?』
『それは魔女ケイがデューイとしてこの世界に来て、こっちの母さんに助言した結果起こった未来。あっちでナユタを助けた俺達が来たことによってナユタがこの世界に飛ばされることはなくなるはず。あっちの世界でずっとツイとよろしくやってるだろうさ』
『そっか。じゃあこの世界はアヌビスさんが聖典を見つける世界になると――』
『そう。俺達はそこで聖典を取り戻す』
『……ふあぁ。眠くなってきたにゃ』
『くっ。問題は意識を保っていられる時間が限られていることにゃ。くそ。精神が猫の本能に引っ張られる。トワ! 寝るにゃ! 寝ちゃだめにゃ!』
『にゃあ』
暗闇の中、夢と現の狭間で、世界を彷徨う一匹の猫は全てを放り投げたかのように、呑気に鳴き声を上げた。
「にゃあ」
「ふふっ。幸せそうに眠ってる」
「そう? なんか苦しそうに見えたけど」
畳の上で猫を抱きかかえたクオンが嬉しそうに微笑み、それを覗き込むケイが複雑な表情で首を傾げる。
相馬家の屋敷の一室。学校帰りの二人はこうしてくつろいでいた。
あの日、結局あの後は何事もなく、無事家に帰ることができた。
田中が銃を発砲、手榴弾を使用した件は、彼は元々銃火器の携帯及び使用が超法規的に許可されているので死傷者が出なかったこともあり、不問となった。
ケイ達を追っていた二人は忽然と消えていたが、彼らが乗っていた乗用車は残っていて、車内から大量の銃火器が見つかり、そこから芋づる式に一組織の検挙、逮捕に繋がったのが大きい。
とはいえ何台かの乗用車、駐車場に被害が出たため、田中は当分の間は警察の事情聴取に捕まったままである。
「田中さん、だいじょうぶかな?」
「へーき、へーき。いざとなったら揉み消せるし」
全く心配してない様子のケイを見て、クオンは呆れるのと同時に、相馬家の力に慄いた。聞けば昔からこの国を裏から守る仕事をしているという。まさかケイがそんなことまでしていたとは、あまりにも予想外だった。
予想外と言えばこの相馬家もとんでもない豪邸で、ケイが筋金入りのお嬢様だったことだ。歴史を感じさせる日本家屋で、何人もの着物姿のお手伝いさんがケイの世話をしている。しかもこれは本邸ではないケイ専用の別邸だという。
「……そんなことより、本当に身体はだいじょうぶ?」
ケイは猫を抱いて優しく見つめているクオンに心配そうに尋ねる。
「だいじょうぶだって。いつもの発作が起こっただけ」
あの後、車内で目を覚ましたクオンは、二人が出ていった後、発作を起こしてそのまま眠ってしまい、目を覚ましたら胸の中にこの猫がいたと言っていた。
だがケイは車内に残っていた因子から、何が起こっていたのか読み取っていた。
この猫によく似た猫がクオンを襲い、殺しかけた。それをこの猫が助けた。
にわかには信じ難い話だが、事実だった。いや事実のはずだった。
というのもケイ達を追ってきた二人のイタリア人について、結局誰も見た者はなく、逮捕した組織からも全く情報が出てこなかったのが不審だった。
まるでこの世界から存在が抹消されたかのように。
「……」
「えっと……ケイ?」
ケイはクオンに思いっきり顔を近づけて、その瞳を見つめていた。
自分が見た記憶の中のクオンの瞳は燃えるように赤く煌めいていた。だが今はわずかに赤みを帯びているだけで、普通の日本人のそれに見えた。
「本当はうちで飼いたいんだけど、ペット禁止だから――」
そんなケイの心配も露知らず、クオンは猫の頭を撫でながら呑気につぶやく。
「だめよ。そいつはうちで飼うんだから」
ケイは断固として言い張り、猫をジト目で睨みつける。
いくらクオンを助けたとはいえ、まともな猫とは思えない。彼女の側に置いておくなど言語道断だ。
「ははっ、そんなに気に入ったんだ」
クオンはそんな必死な様子のケイを笑う。
「あんたいったい、なんなのよ――」
ケイは呆れながらまだ眠る猫の頭にゆっくりと手を伸ばす。記憶を読み取れれば何かがわかるかもしれない。
「にゃ! にゃああああ!」
だが、寸でのところで猫は瞳をぎょろりと開けて目を覚まし、クオンの肩を蹴って、部屋に飾られている鎧甲冑の兜の上に飛び乗った。
「しゃあああああ!」
そして全身の毛を逆立てながら、猛烈な威嚇の形相を浮かべる。
「……すんごい嫌われてるけどっ」
クオンは腹を抱えて笑いを堪えていた。
「はあ……」
ケイは諦めた様子でがっくりと肩を落とす。ずっとこうで一度たりとも触れていない。
「……名前」
「えっ?」
そしてケイは顔を伏せたままぽつりとつぶやく。
「名前どうすんの?」
「あっ、うん。もう決めてるんだ。デューイ!」
「デューイ?」
「うん。メルヴィル・デューイ。十進分類表を作った人だよ。この前委員会で説明したでしょ?」
「そうだっけ?」
ケイは小首を傾げながら、まだ兜の上で威嚇を続けている猫――デューイを見上げる。
「……デューイか。うん、そうだった気がする」
そして妙にしっくりくる感触を覚えながら、その名を噛み締めた。
「よろしくね! デューイ!」
クオンが両手を広げながら呼びかけると、デューイは迷うことなくその胸の中に飛び込んだ。
「にゃあ」
そして喜ぶクオンと、呆れるケイを笑うかのように、小さく鳴いた。




