抗う者達(1)
歌が聞こえる。
子供の鼻歌だ。この数年間、毎週この時間になると聞こえてくる。
子供の名はロカ。このマルーダ公国の公女だ。
鏡命の巫女として選ばれた彼女は、こうして毎週この礼拝堂の掃除を任されている。ここには選ばれた人間しか入ることができないからだ。
「昨日は初めて海を見たんですよ!」
ロカは草箒の手を止め、私に話しかける。
週に一度、彼女から聞く話は公務のことばかりだったが、いつも楽しげだった。
マルーダ公国は西方と東方を結ぶ行商の国として成り立っている。
大地の多くは砂に覆われていて、幼い彼女が海を見たことないのも当然だった。
「泳ぎたかったのに、お兄さ――ダァトがダメだっていうの! ひどいでしょ?」
しかし海に入れなかったことが不満だったようだ。
ダァトとは彼女の側使えで、生まれた時から見守っている。
血の繋がった実の兄なのだが、不義の子故に王族からは外されている。
「――ロカ。そろそろ」
礼拝堂の外からそのダァトが声をかける。
「ええっ? もうっ?」
ロカは慌てて掃除を仕上げると、箒を持ったまま礼拝堂の入口に向かう。
「じゃあ! またね! 神様!」
そして振り返ると、私に向かって声をかけ、そしてダァトと共に去っていった。
人間を哀れんだ神々は、自らの化身――「神器」を産み出しました。
神器は地上の人間の王達に授けられました。
――彼方から此方まで、その全ての世界を映す、全世の水鏡――
この神器『聖鏡』を授けられた国こそ、我らがマルーダ公国なのです。
オルラトル時計塔図書館、竜空の間。
人地の間よりも数百年、数千年は古い資料が並ぶその書庫は、魔術師ではない者でもわかるくらい、その空気は濃いエーテルで満たされていた。資料の劣化を抑えるための時を止める魔法が強く働いているからだ。
そんな重苦しい空間に立ち入ったトワ達一行は、その歴史の重みを実感する。
「すごい……本当にこんな保存方法があるんだ」
トワは立ち並ぶ本棚を見回しながら、そのどれもが埃ではなくエーテルを被って保護されているのだと理解した。これらが本の劣化を止める因子となっているのだ。
「……嫌な感じだ」
対してナユタはこの息苦しい空気に嫌悪感を示す。
もし本当に自分が聖典としてこんな場所に何千年も封印されていたのかと考えると、気が遠くなる思いだった。
「素晴らしい! ここはまさに人間の知と歴史の宝庫ですね!」
ロカも目を輝かせながら本棚の間を恐る恐る歩いて回り、その膨大な記憶の海に感激する。
「九年間この世界を生きてみてどうだった? トワさん」
「!」
アヌビスの言葉にトワは我に返る。その言葉は前世で神の目録に飛び込み、この世界に転生する直前に聞いた言葉だった。アヌビスもしっかり前世の記憶を持っていた。
「この人と竜が争い続ける世界が、私がかつて生きた世界。まさかまたやり直すことになるとはね」
「――デューイはどこですか?」
感慨に耽るアヌビスを無視してトワは問いかける。
「……相変わらずせっかちね。久しぶりの再会だというのに。世界も人生も股にかけた再会なんてなかなかできるものじゃないのよ」
「……」
トワは黙ってアヌビスを睨みつけた。この人の話に聞く耳を持ってはいけない。
そんなトワの様子を見て、ナユタは緊張を走らせる。一体どれだけの因縁がこの二人の間にあるのか、想像もつかなかった。
「あの猫なら上の星天の座にいるわ。九年間もあれの世話をするの大変だったのよ?」
「!」
トワはそれを聞くと階段に向けて歩を進める。が――
直後、上層から雷が落ちるような大きな音が響き、塔全体が小さく揺れる。
「学長!」
プリトヴィが声を上げる。
「まだネフティスが暴れてるわね。今はヴァーユに任せてる。大丈夫だとは思うけど――」
アヌビスは腕を組んで上層を見上げながら応える。
「――あなた達の仕業ってことでいいのかしら?」
そしてずっと二人の話を楽しげに見つめていたロカを、冷ややかな目で見下ろす。
「簡単なことでしたね。彼らが造反する世界などいくらでもありますから。ほんのちょっと記憶を置き換えるだけです」
ロカはゆっくりと顔を上げながら答えた。その目はやはり冷たかった。
「!」
両者の間に鋭い緊張感が走るのを見て、トワは歩を止め、息を呑む。
「トワ様、ナユタ様、あなた達は先に上に行ってください。私は学長先生と少しお話があります」
振り返り口を開いたロカは、一転して穏やかな表情でそう告げた。
「でも――」
「……いこう。トワ。上にいるんだろ?」
躊躇するトワに、ナユタは催促する。ここで一番の障害を足止めしてくれるのなら都合がいい。ロカの正体も気掛かりだったが、今は目的達成が最優先だ。
「……わかった」
トワは一瞬考えた後、頷いた。今は一刻も早くデューイを見つけるのが先だ。
「よりにもよってこれと手を組むとはね」
アヌビスは呆れた様子でロカを一瞥した後、階段を登り始める二人を見送る。
「あなた達!」
プリトヴィは慌てて声を上げると、アヌビスの顔を伺い、彼女が無言で首肯するのを確認してから、二人の後を追った。
「さて、それじゃあ親善大使様のお話を聞こうじゃないか」
アヌビスとロカ、そして後ろに控えるダァトの三人だけになった竜空の間。
アヌビスは広場の傍に並ぶ机の一つの上に、片膝を立てて座ると、ロカに問いかける。
「――では。この国の総意をお聞かせ願いたいです」
ロカはアヌビスの前に立つと、畏まり、尋ねた。
「総意?」
「この国では竜を飼い、戦いの道具としています。それは神への冒涜ではないのですか?」
ロカの問いにアヌビスは意外そうな顔を浮かべ、思案する。
「……ああ、なるほど。人間の敵たる竜と仲良くしているのが気に入らないと」
そして得心がいったように答える。
「……」
その不躾な返答にロカは黙り、不快そうな顔を浮かべる。
「竜とどう付き合っていくかは国次第。大国は徹底抗戦だけど、そんな力のない小国はどうにか折り合いをつけるしかないだろうさ」
実際竜と戦える国は数えるほどしかなく、大半の国は竜の顔色を窺って共存の道を探しているのがこの世界の現実だった。
「魔女王様がどう思ってるかは知らないけど、この国もそんな小国の一つさ。うちらは竜だけでなく人間も相手にしなきゃだし」
「……そうですね。失礼しました」
ロカは言いながら、だがまだ不服そうな顔を浮かべていた。
「……三年前の魔人族襲撃か」
「!」
そんなロカを見て何かを察したアヌビスがぽつりと呟く。
マルーダが魔人族の襲撃を受けたことは、アヌビスももちろん知っていた。
甚大な被害が出て、皇族の多くも殺されたと聞く。
その際、魔人族は大量の竜を使って国を襲った。オルラトルも同じことを画策しているのではと疑うのは当然のことではあった。
「疑われても無理はない、か。でもうちの国が他国を侵攻したことなんてないだろ? それでこんな騒ぎを起こされちゃ迷惑って話さ」
アヌビスは目を瞑ると、塔の外へ耳を傾ける。幸いまだ他の塔の竜が迫ってくる気配はなかった。魔警団もテジャスたちも手練れだ。この程度ではこの国は揺るがない。
「それともこれはマルーダの策謀ではなく、あなた個人の思惑なのかしら?」
そしてゆっくりと立ち上がると、冷たく言い放つ。
「――いいえ。これは世界の意志です」
対してロカはアヌビスを真っ直ぐ見据えて答える。その瞳は畏れを感じるほど青く澄んでいた。人の感情、熱はなく、ただそれが絶対の正義、そのものであるかのように。
「世界! そうか、これがケイの言っていた世界の意志というやつか! 人間を哀れんで遣わされた? 人間がちゃんと竜を狩っているか監視しにきただけじゃないか!」
アヌビスは声を荒らげると、両手を前にかざし、ぱんっと拍手する。すると彼女の後背頭上の空間が歪み、そこからエーテルで構成された巨大な青白い腕が飛び出してくる。
「!」
ロカは一瞬驚いた表情を浮かべるが、すぐに顔をしかめ、小さくため息をつく。
「せっかくあっちで作ったんだ。神様に通用するか試してみようか!」
現れた腕の上に乗ると、空間の歪みはさらに広がり、その全身が露わになる。前世でトワに見せたのは上半身までだった。だが今世で完成させたそれは、本物と寸分変わらない巨体を竜空の間に顕現させる。
アヌビスのエーテルキャット――ネフティス。
床が大きくひしゃげ、本棚の多くがその広げた翼の風に吹き飛ばされる。
「――愚かなことです」
ロカはその巨体を見上げると、呆れた様子で再びため息をつく。
人は何故己の使命を忘れ、愚行に身を堕とすのか。
そう、竜達もそうだった。神命を翻し、秩序への反抗を企てる。
一体何が彼らをそう駆り立てるのか。それがわからなかった。それが知りたかった。
魔女と聖女、二人の戦いが始まった。




