タットヴァの写本(9)
翌朝、まだ霧の立ち込める町の中、空は曇天で今にも雪が降ってきそうな寒さだった。
宿の前には旅支度を揃えた一行が集まっていた。
「それじゃあ、行きましょうか」
先頭に立つバステトが振り返り、みなに声をかける。
「はいっ」
荷物を持ったトワが応え、隣に並ぶナユタは後ろを見て怪訝な表情を浮かべる。
「あいつらも一緒かよ……」
少し離れたところにはテジャスとアパスが眠そうな顔で立っていた。
「大人しくオルラトルに行くというのなら、私達は何も手は出しません」
「もちろん逃げようとしたらその限りじゃないけどねー」
二人はそう言うと、一行の後に続いた。
トワの――神滅の魔女の命を狙うのを諦めたわけではなかった。ただ現状では力押しでは勝ち目がないのがわかったので、監視をすることに決めた。自らオルラトルの本陣にまで来てくれるというのなら止める理由もなかった。姉達と合流すればどうとでもなる。という算段もあった。
「……あの時、あいつの記憶が見えた気がする」
テジャスは隣を歩くアパスにだけ聞こえる声で呟いた。
「ええ。あの人も相当波瀾の人生を送っているようですね」
二人は先日トワに握手された時に、記憶を読み取られるだけでなく、逆にトワの記憶を垣間見ていた。いや見せられていた。
「あんな世界があるなんて。先生は一体何をするつもりなのかしら」
「はい。しかし気になりますね。竜のいない世界なんて」
その記憶は二人には信じ難いものに満ちていた。
「ねえ! オララトルの話聞かせてよ!」
そこへ前を歩いていたトワが加わってくる。
「はあ? なんでよ」
「良いところですよ。魔女の国なんて言われてますが、そうでない人だってたくさんいます」
「へえ。そうなんだ」
「ちょっとアパス!」
「いいじゃないですか。減るもんじゃないし」
「もうっ!」
言い合いを始めた二人をトワはにこにこ笑いながら見ていた。
そして二人はトワの記憶を見て嫌でも思い知っていた。
あの時トワが『友達になってください』と言った言葉が嘘偽りなく本心であることを。
「あんたみたいな田舎者なんて、すぐに竜の餌になっておしまいよ!」
「オルラトルの九つの塔にはそれぞれ守護竜が飼われていて、時計塔のネフティスはその中でも特に強力です」
「知ってる。わたしも戦ったことある」
「はあ? どこでよ!」
「魔女を守る塔士はみなその竜と戦い生き残ることが条件になっています」
「なるほどなるほど」
「――仲良くなれそうじゃない?」
前を歩くバステトはそれぞれの力量を競い合う三人を振り返りながら、隣を歩くナユタに笑いかける。
既に町を出て北へ続く街道を進んでいる。ここから山道に入り、いくつもの山脈の間を抜け、オルラトルを目指す。一週間はかかる見込みだった。
「どうだか」
ナユタは昨日殺し合った者同士が他愛のない張り合いをしているのを見て、呆れるのと同時にちょっと安心もしていた。
「それで……オルラトルに着いたらどうするんだ? すぐ捕まって処刑なんてのは勘弁だぜ」
「向こうもまずは情報を集めたいはず。あの子達の監視がある限り、すぐに手を出してくることもないでしょう。その間に会いたい人がいる」
バステトは前方彼方に立ち並ぶ雪に覆われた山脈を仰ぎ見ながら、白い息を吐く。大分寒くなってきた。みな厚手のコートを羽織っている。
「会いたい人?」
「ええ。私達があの町から逃げ出すのを手伝ってくれた人でもある。あなたはまだ目覚めたばかりで覚えてないかもだけど」
ナユタは言われて確かに覚えがなかった。あの時は目の前のもの全てが初めてで、その区別などつく状態ではなかった。
「そして時計塔への侵入方法を探す。ケイが捕まっているとすればそこしかない。九年前私達が逃げ出してからどうなったかわからないから」
「そうか……」
ナユタは相槌を打ちながら、予感めいた記憶が頭の中を駆け抜けた。自分は必ずそこに再び戻るだろう。そして成すべきことを成すと。
「あーあ、戻ったらまた学校行かなきゃならないのかー」
「学校?」
テジャスが両手を頭の後ろに回してぼやき、トワが尋ねる。
「私達タットヴァはアヌビス様の塔士と言えど、普段は魔法学校に通っています。毎日遊んでるわけにもいきませんからね」
「魔法学校!」
アパスの魔法学校という言葉にトワは目を輝かせる。
この世界には優れた魔術師のみが通うことを許された魔法学校があるというのは、本で読んで知っていたが、本物を見ることができる日が来るとは夢にも思っていなかった。
「あんたみたいな田舎者じゃ入れないわよ」
「む!」
「入学試験がありますからね。ちなみに私は主席で入学しています。どこかのぎりぎりだった人と違って」
「ああん? なんか言ったか?」
「ぜったい受かってみせます!」
かしまし三人娘、凍った川の上の橋を渡り、雪積もる森へと続く道を歩きながら、乱痴気の花を咲かせ、前を歩く二人はそれを見て、呆れ、苦笑するのだった。
ポレンヘイムの北に広がる山脈は、北の大陸の北部を三分割するようにYの字型に大きく広がっている。
分断されたそれそれの版図に三つの大国があり、これらに属さないその国はYの字の山脈の北東最先端に位置している。
その歴史は古く、数千年、数万年前から、三国が興るよりも前から存在していたと言われている。
首都の中央には魔女王の座す巨大な塔があり、それを取り囲むように八つの塔が立ち並ぶ。そしてその各地の塔を中心に工業区、商業区、居住区と統一された煉瓦造りの家々が広がっている。
各家の煙突からは白い煙がもうもうと上がり、雪に覆われた高い山々に囲まれた町を霧がかったようにぼんやりと映し出している。
「あれが……」
山の中に続く深い森を抜けた先の崖の上から町を見下ろしながら、トワが感嘆の声を上げる。
「ああ――」
隣に並ぶナユタは、忘れもしない七番目の塔を睨みつけながら応える。
ポレンヘイムを立った一行は、北の山脈を進み一週間、ようやくそこへ到着した。
既に日は暮れ、宵闇の中、町は塔が照らす光と、家々が灯す明かりで、朧げな蜃気楼のように浮かび上がっている。
「早くしなさいよ!」
「仔細報告義務」
勝手知ったるテジャスとアパスは既に崖を下る道を進みながら、町を見下ろして感慨に耽る二人を急き立てる。
「わかってるよ! ――あっ」
慌てて追いかけようとするトワは、空から何かが降ってくるのに気が付いて足を止める。
手を差し出すと、掌の上に小さな青い粒がゆっくりと舞い落ちた。
「雪? いや、これはエーテル?」
「国中でみんな魔法を使ってるからね、そのエーテルが空に流されて、雪に混じって降ってくるのよ。青い雪が降る町、なんて言われることもあるわね」
追いついてきたバステトが答える。
「そうなんだ」
トワは空を見上げる。その青い雪は月明かりに照らされてきらきらと輝いている。
その光景に前世で見た夜の町並みが思い出される。
「Bonne arrivée!(ボンヌ アリべ!) 帰ってきたよ。ケイさん。今度こそ必ず助けてみせるから」
そして小さな声で呟くと、二人を追って走り出した。
そこは魔女の国オルラトル。
そこには世界の全ての叡智と歴史が眠っている。
幾億の星々の輝きすらその昏き深淵の帷に覆われて霞んで消えてしまう。
その底に辿り着いた者はなく、只々その闇を深めていくばかり。
一つだけ確かなことは、その始まりはたった一人の少女の願いだったという。
それは神への叛逆であると――




