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タットヴァの写本(8)

 すっかり夜はふけ、町の家々に明かりが灯り始める。冷たい風が吹き、宿の戸をがたがたと揺らす。


 屋根裏部屋の窓から外に出た屋根の上に座り、ナユタは一人、真っ暗な夜空を見上げていた。

 バステトの話の後、一旦解散となった。

 みなこれからどうするか考える時間が必要だった。

 テジャスとアパスは一行をオルラトルに連行する意思は変わらず、今日のところは別の部屋を借りて一夜を明かすことになった。

 トワとバステトは部屋に残り、積もる話をしていることだろう。

 そしてナユタは、今は独りになりたい気分だった。


「はあ……」

 深くついたため息は白く、かじかむ手を温める。見上げた空は雲一つなく澄んでいて、星がよく見えた。

 あの星々の前では人間一人の命など本当にちっぽけなものに感じられる。


 思えば不思議な話ではなかった。

 九年前、バステトと共に魔女の国から逃げ出したあの日以前の記憶がなかったこと。ずっとバステトに聞こうと思っていた。だが怖くてそれができなかった。

 その後各地を旅しながら、言葉を学び、常識を学び、生きていく術を学んだ。それはさほど難しいことではなかった。きっと知っていたことを思い出しただけだから。

 そして三年前、アパスらに追われ、この町でバステトと別れた。バステトはずっと遠方で身を隠していたという。そして今日この町に戻った。

 それらは全て魔女ケイが計画したことで、こうして再会できたのも偶然ではないらしい。


「ケイか……」

 名前だけは知っていた。旅の間バステトから何度も話に聞いていたからだ。

 オルラトルにいた頃からの学友で、バステトがある塔士との間に出来た子、トワが神滅の魔女の転生者であることを知り、まだ生まれて間もないトワを抱いて二人で国を出たという。

 そして再び国に戻った二人は時計塔図書館にあった聖典を奪取、ケイは聖典を作り変えるために身を捧げ、バステトは抜け殻になった聖典を持って自分と逃亡した。


 正直自分の身体が誰かのものだったなど言われても全く実感が湧かなかった。

 そうまでして自分に、トワに一体何をさせようというのか。



「あっ、ここにいた」

 窓からひょっこりと顔を出したトワがナユタを見つけて声をかける。

 そして身を乗り出すと、ふらふらと危なげに屋根の上を歩き、ナユタの隣に座る。


「もういいのか?」

「えっ? ああ、お母さんとはいっぱい話したからだいじょうぶ。すごいねむいって言ってもう寝ちゃった」

「そうか……」

 トワはバステトと話したことを思い出す。

 大半はイスラとのことだ。今日までどう過ごしてきたのか。その日々を。

 そして今は母のつけた名であるツイではなく、トワと名乗っていることも。転生のことも話そうとしたが、母は既に知っていた。ケイから神滅の魔女は前世の記憶を持って生まれると聞かされ、半信半疑ではあったが。


「……ナユタの方こそ、だいじょうぶ?」

 しばらく二人黙っていた後、トワが心配そうにナユタの顔を窺う。バステトの話を聞いてからずっと様子がおかしいのが気になっていた。

「……別に自分が何者であろうと、今が変わるわけじゃないさ」

 ナユタは自分に言い聞かせるようにその言葉を噛み締めた。

「そうだね……」

 トワはその達観した受け答えに懐かしさを感じつつも、ナユタはナユタとしてこの世界を生きているのだと実感した。


「あのね。あの時話したことなんだけど……」

「あの時?」

 トワは恥ずかしそうに切り出すが、ナユタの方はいつのことかわからなかった。

「ほらっ! 図書館で! わたしも本当はこの世界の人間じゃないって!」

「ん? ああ、そんなこと言ってたな」

 トワは顔を真っ赤にしてもう一度言い直すが、ナユタはぴんとこない様子で生返事をする。

「もうっ! まじめにきいて!」

「わかった、わかった、言ってみ?」

 トワとしては一大決心をしての告白だったが、ナユタの方は呆れて笑いながら応えた。


 そしてトワは話した。イスラにも話したように自分の転生の全てを。

 その間、ナユタは黙って聞いていた。決して冗談と笑うことなく真剣に。


「……あんまり驚かないんだね」

 一通り話し終えたトワはナユタの顔を見て、不満そうに頬を膨らませる。

「そりゃあ自分の壮絶な生い立ちを知った後だからな。今更驚かないよ。神滅の魔女様なんだろ? 色々あるだろうさ」

 とは言え、イツカが元人間の本だったという事実には内心驚かされた。逆とは言え自分とあまりに境遇が似ていると。

「この世界に来る前に神の目録で会った聖典は、いろいろな人格を持つ可能性がある。みたいなことを言ってた」

「俺もその一人だと? 知らないね。俺は俺だよ」

 ナユタは一笑に付した。別の世界の可能性などと言われてもぴんと来なかった。

「うん。そうだよね」

 トワもそれは理解していた。自ら何度も転生して生き直したことで、結局人は持ちうる記憶でその世界を生きていくしかないことを。


「……」

「……なんだよ?」

 トワはナユタの顔を無言でじっと見つめていた。ナユタはちょっと恥ずかしそうに何事かと尋ねる。

「いや、イツカくんが男の子だったら、こんななのかなーって」

「は? 俺の方が格好いいし」

 トワも恥ずかしそうに答え、相変わらずイツカイツカとうるさいことに、嫉妬を覚えずにはいられないナユタは顔をそっぽに向ける。


 そして二人は笑いながら屋根の上に寝そべり、夜空を見上げた。


「――それで、これから、どうするつもりだ?」

 二人共しばらく黙っていた後、ナユタが先に口火を切った。

「行くよ。オルラトルに」

 トワは即答した。


 バステトの話の最後にケイの安否についてあった。


『ケイは身体を失い死んだわけではなく、魂だけ別の器に移したのよ。私が飼っていた猫デューイにね。私とナユタがオルラトルを出る時にはぐれてしまい、捕らえられている可能性が高い。だから助けにいきたい』


 猫は一つの身体に複数の魂を持つことができる不思議な生き物と言われており、魔女がお供にすることも珍しくないという。


「わたしもその猫に会わないといけない」

 トワは記憶を取り戻してからもデューイを呼び出せないことをずっと疑問に思っていた。捕われているのなら納得がいった。

 デューイを取り戻すことがおそらく聖典の力、イツカを取り戻すことにも繋がると信じられた。

「そうか……」

 ナユタは応えながら横目でトワを見た。トワは星空を見上げたままその瞳を月明かりで赤く煌めかせた。


「――あの横に大きく広がる星を繋ぐとヴェイルヌーン座」

 ナユタも空を見上げ、星々を指差し、ゆっくりとなぞっていく。

「なにそれ?」

 それは前世の地球の星座で言うところのうみへび座だった。十以上の星を繋ぐ巨大星座だ。

「南の海にいるという竜の星座だよ。船乗り達はあれを見て航路を決めていたらしい」

「へえ」

 トワは今朝図書館で天体図を見ていたが、星座は世界が変わってもあまり変わらないのかもしれない。

「で、そのちょっと下にあるのが猫座」

「えっ?」

 猫座は前世の地球にもかつて存在したが、今は使われておらず、八八星座にも含まれていない。さすがにトワもそこまでは知らなかった。


「猫は魂を運ぶ神聖な生き物と言われている。ケイが魂を移したというのもあながち出鱈目な話ではないのかもしれない」

「魂を――運ぶ、か」

 思えば前世ではみなデューイのことをあたかもケイであるかのように接することが多かった。

 もちろん半分冗談ではあるが、もしかしたらもしかするのかもしれない。

 トワからすればデューイはデューイであり、気まぐれで賢い猫としか思っていなかった。


「でもナユタはいいの? オルラトルに行くことになっても」

 トワとしてはもちろん一緒にいてくれるのは心強いが、彼のバステトを探すという目的は果たされた。わざわざ逃げてきた地に戻るのは危険でしかなかった。

 実際バステトもナユタの同行は渋っていた。

「俺だってケイに聞きたいことは山ほどあるさ。それに――」

 ナユタは上半身だけ起き上がると、トワを見下ろしながら答え、そしてその目が合うと言葉を詰まらせた。

「それに――?」

 トワも起き上がり、ナユタの目を見据えて聞き返す。

「俺は――」

 ナユタはその赤く煌めく真っ直ぐな瞳に射抜かれたように硬直する。


『俺はお前を守るために生まれてきた』


 などとは恥ずかしくてとてもじゃないが言えなかった。

 この世界に生まれ落ちてからずっと、自分には何か成さねばならないことがあるという思いがあった。そのことを思うといつも胸が熱くなった。

 バステトから守って欲しい子がいると聞かされ、きっとそれだと思った。

 そしてあの森の中、竜から逃げるトワを見て、それは確信に変わった。


 この思いだけは誰にも譲らない。たとえ自分がイツカという他の誰かの代わりに生まれたのだとしても。


「えっと――ナユタ?」

 ずっと黙って真剣な顔で見つめてくるナユタに、トワもちょっと恥ずかしくなって顔を赤らめる。

 思えば同年代の男の子とこんなに長く一緒にいることなど初めてだった。

 いや同年代なのかは疑わしい。九年前に自分が生まれた時には既にナユタは今の姿だったという。いや自分だって前世、前々世の記憶を含めれば二十七年分の人生経験があると言える。つまり自分の方が遥かに年上のお姉さんなのではないか。


 などと思考で頭がぐるぐると混乱するトワは、一刻も早くこの場から逃げ出したい思いに駆られ、立ち上がるが――


「あっ!」

 慣れない足場にふらついて倒れかかり、ナユタは咄嗟に立ち上がって抱き止める。

「――ごめん……」

 トワはナユタの胸に顔を埋めて、消え入りそうな声で謝る。自分でも熱がわかるくらい頬が紅潮してて、それを見られるのが恥ずかしくて顔を上げるに上げられない。


「今度こそは上手くやってやるさ――」


 ナユタはトワの肩を両手で抱き止めたまま独り言のようにぼそりと呟いた。

「えっ?」

 ほとんど聞き取れなかったその声に、トワはわずかに顔を上げる。

「ん? 俺今何か言ったか?」

 ナユタは自分でも無意識に出たその言葉に驚いた。

 そして強烈な既視感に苛まれた。もう何度も繰り返してきたことのように。


「ほら、そろそろあそこに流れ星が落ちるぜ」

 ナユタはトワの肩を掴んでくるりと方向転換させると、北西の空を指差した。

「えっ!」

 ほどなく一閃の光と共に一粒の星が天から落ち、山々の中へ吸い込まれていった。

「すごい! どうしてわかったの?」

 あんな強烈な光を放つ流星など見たことがなかったトワは、興奮してナユタを振り返る。


「――そんな気がしただけさ」

 はしゃぐトワを見てナユタは苦笑した。まだまだ子供だった。

 既視感ついでにちょっと未来まで見えた気がした。きっとあの星はこの瞬間、あの場所に落ちるべくして落ちたのだ。


 続いて流れる星を探してきょろきょろ空を見回すトワを見て、ナユタは願わずにはいられなかった。


 この瞬間がずっと続けばいいのにと――

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