タットヴァの写本(7)
昼過ぎの宿の一室。図書館から戻った一行は、まだ眠り続けているトワをベッドに寝かせ、部屋で昼食をとっていた。
「一体三年間どこにいたんだ!」
食事もそぞろにまずはナユタが開口一番、机に着いて呑気に鶏肉のシチューをスプーンで啜っているバステトに尋ねる。
「ああー。やっぱここの食事は違うわー」
そして矢継ぎ早にパンを千切り、シチューに浸してぱくぱくと口に放り込みながら感慨深げに味わっている。
「……本当にあれが?」
「……間違いありません。三年前に見た時と全く同じ姿です」
部屋の隅、少し離れたところからテジャスとアパスが、ハムサンドを食べながらひそひそと確認し合う。
「話はこの子が起きてから。で、お願いします」
バステトはトワを振り返りながら静かに応えた。
「……」
三人は何も言わなかった。いや言えなかった。
彼女の表情が、瞳が、あまりに優しく慈愛に満ちていたからだ。
「……ん……」
一行がトワを見つめた時、まさに目覚めようとしていた。
「うーん……お母さんおはよう……ああ……学校いく準備しなきゃ……」
トワは寝ぼけ眼で半身を起き上がらせて、両手を上げて伸びをする。
「……あれ? お母さん? なんでそんな格好……えっ? ナユタと――」
そして自分を見つめる一行を見回しながら小首を傾げる。
「おい――」
ナユタが声をかけようとするよりも早く、バステトがトワにがばりと抱きついた。
「えっ?」
「はい! 私があなたのお母さん、バステトです!」
バステトは困惑するトワを強く抱きしめる。その瞳の端からは涙が零れていた。
「よかった! やっと会えた!」
「あ……」
泣きじゃくるバステトの背に手を回しながら、トワはようやく理解が追いついた。
もちろんこの世界の母親と会うのは初めてだ。
しかしその顔は、雰囲気は紛れもなく前世の彩咲クオンのそれと全く同じだと本能でわかった。そこに不思議な安心感を得て、トワの胸中に言い知れぬ感情が堰を切ったように溢れてきた。
「……もう、お母さんったら」
そして気付けばトワの瞳からも涙が溢れ、ついには二人してわんわんと大声を上げて泣きじゃくるのであった。
「やれやれ」
「なんなのよ……」
「そういうことですか」
その様子を他の三人は呆れながら、だが今だけはせめて親子の再会を優しく見守った。
「イスラは元気?」
ひとしきり泣き終えてから、バステトは自分とトワの顔を拭きながら笑って尋ねた。
「うん。でもイスラはお母さんのこと何も言ってなかったけど」
「そうね。九年前あなたが生まれてすぐ彼女に預けた。あなたが特別な魔女であることを隠すためには仕方がなかった。イスラにもそのことは話せなかった」
バステトは苦悶の表情を浮かべて告白する。
「神滅の魔女――」
テジャスが無表情で冷たく言い放つ。
「……そう。あなたがその魔女の呪いを持って生まれてくることはわかっていた。だからその呪いに抗うために聖典を手に入れる必要があった」
バステトはテジャスとアパスを見つめて一瞬眉をひそめた後、続けた。
「待ってくれ。バステト。そいつと聖典、そして俺には一体何の関係があるんだ?」
黙って聞いていたナユタが口を挟む。
ずっと気になっていたことだ。九年前バステトが助けてほしい「あの子」と言ったのがトワのことで間違いないのか。
「……ナユタ。あなたにも話さなければならないことがある。覚悟して聞いてほしい」
ナユタの問いにバステトは目を瞑り、しばらく考えた後、覚悟を問うた。
「九年前、あなたが生まれてすぐイスラの元に預けた後、私達は時計塔から聖典を盗み出すために動き出した」
「私、達――?」
バステトが話し始めたのをアパスが遮り、鋭い声で問いかける。
「ええ。私の……親友。ケイと共に」
「!」
バステトの口から出たその名にトワは激しく反応する。
やはりこの世界にもケイはいた。そして聖典にあの言葉を残したのだ。
「しかし、あの時が止まった塔の、しかも因果を断絶された結界の中から聖典をそのまま持ち出すことは不可能だった。だから作り変える必要があった」
「作り……変える?」
ナユタが問う。その声はわずかに震えていた。
「そう……あなた、ナユタは聖典から作り出された人間なのよ――」
バステトは苦悶の表情を浮かべ、そして断腸の思いでそれを告げた。
「――は? 俺が……作られた……人間――?」
ナユタは何言ってんだといった顔でよろよろと後ずさり、テーブルにぶつかり、その場に尻餅をつく。
「そんなことできるはずありません。魔女王ですら人体の生成は不可能だった」
「そうよ! そんなことできるならあたし達は!」
アパスとテジャスが激しく反論する。
人体の生成は魔女の間でも禁忌の魔法だった。それどころか誰にも不可能だった。精巧な肉体を作ることはできてもそこに魂が宿らないのだ。
「……そうね。あなた達タットヴァの魔女の候補達はそのために集められたものね。聖典と適合できる人間を一から作り出そうとした研究の末路」
「!」
「こいつ!」
二人は今にも殴りかからんという形相でバステトを睨む。
「――ケイさんは、どう――なったんですか?」
尻餅をついたまま呆然としているナユタ、怒りに打ち震えるアパスとテジャスを差し置いて、トワが尋ねる。その声は恐怖で震えていた。
「…………」
バステトは今度こそ絶望に打ちひしがれたような表情を浮かべ、視線を落とした。
長い長い沈黙が場を支配し、そして遂にバステトはぽつぽつと語り始めた。
「……タットヴァの写本は全てケイが作った。それを使うあなた達なら写本が何から出来ているのか知っているでしょ?」
「それは……」
「……竜の身体――」
バステトの問いに二人はごくりと唾を飲み込み答えた。
「そう。神の依代たる聖典に近いものを作るには、同じく神に最も近い存在である竜を使う必要があった」
バステトは二人が持つ写本を見ながら淡々と続ける。
「閉ざされたあの塔から聖典を持ち出すには、逆に神を人間に降ろす必要があった」
「ちょっとまって!」
そこへトワが割って入り、腰にある聖典を取り出す。
「これは聖典ではないの?」
「ええ……正真正銘、本物の聖典――その抜け殻よ。九年前、時計塔から持ち出し、イスラに届けた」
「どういうことよ?」
「聖典から作り出されたというナユタ。抜け殻になった聖典。そして魔女ケイ。一体どういう関係があるというのです?」
テジャスとアパスが困惑の表情で問いかける。
「あっ……」
しかしトワだけがその答えに心当たりがあった。
だがそれは認めてしまえば、今まで自分達がやってきたことを根底から揺るがすことでもあった。
「――ケイは自分の身体を使ってナユタを作り出したのよ」
しかしバステトは構わずその答えを告げた。もはや絶望を通り越し自嘲の笑みさえ浮かべて。




