タットヴァの写本(4)
「上手く合わせなさいよ。テジャス!」
雨天の写本はアパスの手を離れて鳥の姿に形を変え、空に上昇していく。
その先にはテジャスの放った炎天の写本が形を変えた鳥が浮かんでいた。
二羽の鳥は絡み合い、まるで互いを燃やし、溶かすように砕け、一つの大きな青い渦となっていく。
渦の流れはどんどん激しくなり、やがて周囲から青いエーテルが浮かび上がっていく。
「これは!」
トワはその光景に見覚えがあった。
前世のオルラトルの時計塔でアカーシャがイツカを使い、神の目録を開こうとした時と同じだ。
「ああなったらもう止まんないね!」
そこへいつの間にか図書館の庭にまで降りてきていたテジャスが、笑いながら近づいてくる。
「残念ながら私達の写本では完全に開くことはできません。けど穴を開けることはできる」
それを見たアパスが苦々しく応える。
「でも! ここら一体のエーテル全部吸い込んで更地にするくらいならできる!」
テジャスは歓喜の様相で叫び続ける。
「お前達も無事じゃ済まないだろ!」
ナユタも声を上げて叫ぶ。逃げるには既に人がたくさん集まりすぎていた。
空に渦巻くエーテルの奔流に人々は怯え、狂乱の最中にあった。
「私達はそのために作られた魔女。写本が残れば死ぬことはありません」
アパスが空を見上げながら淡々と呟く。その目は恍惚に震えていた。
「お前だってそうだ! ナユタッ!」
そしてテジャスがナユタを睨みつけて指差す。
「――なんだと?」
ナユタはテジャスの言っていることが理解できなかった。しかし心の中でざわつく感覚があった。こいつの言っていることは正しいと。
「止めないと……」
トワは聖典を掲げ、ゆっくりと渦の下へと近づいていく。
正直やり方はわからなかった。あの時はイツカを閉じることで流れを止めることができた。だが今はもう扉は開かれてしまった。
しかしこの聖典を使えばきっと――
「おい! やめろ!」
ナユタがトワの肩を掴んで立ち止まらせ、振り返らせる。
「手伝って!」
トワは心配するナユタに向かって叫ぶ。
そうだ、ナユタもいればきっとできる。どんなことだって。
「――だめだ! 逃げるぞ!」
だがナユタは断った。トワの腕を強く引き、その場を離れようとする。
「どうして! だいじょうぶだよ! わたしたちなら!」
トワは足を踏み締め、立ち止まる。反対されたことに信じられないといった顔で応える。イツカくんならこんなことは言わない。
「それは――」
ナユタは口籠った。トワの瞳を見て、どうしても認め難かった。
トワは俺を見ていない。その先にいるイツカという奴のことしか見ていない。それが許し難かった。悔しかった。
「もういい!」
トワはナユタの手を振り払い、一人で前に踏み出す。が――
「――え?」
渦の中心が突如黒く変色し、吸い込んだエーテルをまるで吐き出すように逆流し出す。
そしてその吐き出されたエーテルの色はまるで血のように赤かった。
「反転しました。始まります」
勝ち誇ったようにアパスが言い放つ。
「赤い――エーテル? うっ!」
問いかけようとしたトワは突然胸に激痛を感じて、その場にうずくまる。
「どうした!」
ナユタが駆け寄りトワの肩を抱く。トワは全身から嫌な汗が噴き出すのを感じながら、ゆっくりと顔を上げる。
空には黒い月が浮かび、そこから赤い雪が降り続けている。
トワは強烈な既視感を覚え、胸の鼓動が急激に高まるのを感じる。
こんな光景は前世でも前々世でも見たことない。だが知っている。
「エーテルは本来、命を司る青いエーテルと死を司る赤いエーテルの二つで一つだったのです。世界が生まれる時、二つはぶつかり、対消滅し、そこで発生したエネルギーの残滓こそが普段私達が見ている青いエーテルなのです」
アパスは淡々と説明を続ける。
「それじゃあ、あの赤いエーテルは――」
ナユタは苦しそうに激しく呼吸するトワを抱きながら問いかける。
「この世には存在しないエーテル! 触れれば全ての因果を喰らい尽くす!」
テジャスが笑いながら絶叫する。
「神の目録に干渉できる私達だからこそできる神の御業。世界の終わりに降る赤い雪」
アパスも自嘲的な笑みを浮かべながら空を見上げる。
「何でそこまでして……」
ナユタは恍惚の表情で空に両手をかざす二人に恐怖を覚える。
一体何が彼女達をここまで駆り立てるのか理解できなかった。
赤いエーテルは雪のようにゆっくりと終わりなく舞い降りる。
手に落ちたそれはちくりと痛みを伴い、すぐに消える。一見何ともないように思えたが、何かが奪われていく感覚があった。これを浴び続けるのは危険だと本能が訴えかけていた。
「逃げるぞ!」
ナユタはトワの肩に手をかけ、立ち上がらせようとする。
集まってきていた人々も同様に危険を感じたのか、次々とその場から離れだしていた。
だが、トワはその手を振り払い、右手に聖典を開き、立ち上がる。
その瞳は燃えるように赤く煌めいていた。
「解本――」
そして左手を空の黒い渦に向かって掲げ、エーテライズを開始する。
正直あれが何なのか全くわからない。
だがこの世界の理から外れた、あってはならない何かなのは間違いない。
アパスは神の目録は開けないが穴を開けることはできると言った。
この町のエーテルを集め、神の目録への穴を開け、赤いエーテルに反転させる。その原理はわからないが、止める方法は思いついた。
あれが原初のエーテルの片割れだというのなら、対応する命のエーテルをぶつけて再び対消滅させればいい。それで無害な青いエーテルに戻すことができるはずだ。
「時間――」
トワは赤いエーテルが降り続けるこの空間自体のエーテライズを試みようとしていた。
「空間――くっ!」
膨大な記憶が頭の中に流れてきて、激しい頭痛を感じ、その場に膝をつく。
ただでさえ燃えるように胸に痛みを感じ、その中でこの作業をおこなうのは無理が過ぎた。
「無茶だ! やめろ!」
ナユタが再びトワの肩を掴み、振り向かせる。
トワが何をしようとしているのかわからなかったが、とても一人で手に負える作業ではないことはすぐに察せられた。
「でも……やらないと」
トワは弱々しく応える。
その間も全身に降り落ちる赤いエーテルから何かが奪われていく感覚が止まらない。間違いなく死に近づいていることだけはわかった。
「テジャス。あなたは引いてください」
苦しみもがく二人を見ながら、アパスは急激に心が冷えていくのを感じ、笑うのを止め、テジャスに冷たく言い放つ。
「はあ? これからがいいところじゃん!」
対してまだ笑いながら二人を嘲るテジャスが、声を張り上げる。だがその声とは裏腹に顔は真っ青だった。
「ここで私達二人とも落ちては事の顛末を報告できる者がいなくなります。あなたはここから離れて、終わったら私の聖典を回収してください」
「それこそアパスの仕事でしょ! 私はここでこいつらの――神滅の魔女が死ぬのを見届けなきゃいけない!」
アパスの提案をテジャスは断固として断った。そして憎しみで燃える瞳をトワに向けた。
「はあ、仕方ないですね。じゃあ最後まで一緒に見守りましょう」
アパスはため息をつくと、テジャスに向かってわずかに微笑み、そして同じくトワに冷徹な目を向けた。




