タットヴァの写本(3)
図書館の庭の花壇には青い花が咲き並んでいた。
そしてその花々をよく見ることができる木のベンチにトワは一人座っていた。
飛び出してきたはいいものの、すぐ戻るのも気まずく、こうしてぼんやりと花を眺めていた。
「……ゼラニウムに似てるかな」
トワは誰にでもなくぽつりと呟いた。
涙はもう止まったが、まだ気持ちの整理が追いつかない。ふわふわして何も考えられない。イツカのこと、ナユタのこと、今は何も考えたくなかった。
ゼラニウムはノルウェーでもよく見た花だ。元々南アフリカ原産で、植物学者によってヨーロッパに持ち込まれて多様な品種が作られたという。この世界でも同じような歴史を持った花なのかもしれない。しかしこんなに鮮やかな青い色のものを見るのは初めてだった。
「この花は元々は白かったそうです。オルラトルの地で自生したものが自然と色づき、長い年月をかけて、今はこんなに青くなりました」
「えっ?」
いつの間にか隣に小さな少女が座っていた。
青い髪とローブ、そして魔女特有の――赤い瞳。
「タットヴァの写本が一人、雨天のアパスと申します。よろしくお願いします。サイサキトワ様」
「!」
アパスは立ち上がり、まるでドレスの裾を摘むようにローブを摘んで、軽く膝を折って仰々しくお辞儀した。
トワは突然の不意打ちに面食らい、立ち上がって身構える。手元に赤い本がないことに気付き、戦慄する。
「ああ――どうか落ち着いてください。お迎えに上がっただけです」
「……お迎え?」
トワは怪訝な表情を浮かべて聞き返す。
アパスと名乗った少女はテジャスと同じくらいの年齢、背丈に見えた。顔立ちもよく似ており、姉妹と言われても信じられそうなくらいだった。
「はい。我らが主人、星天のアヌビス様より、あなた達をお連れするよう言付かっております」
「っ!」
アヌビス――その名を聞いてトワは顔をしかめる。
やはりこの世界にも存在していた。しかもこの子は『サイサキトワ』と言った。つまり前世の記憶を持ったままでだ。
「『この世界を再び見ることになるとは思わなかったが、むしろ準備が進んでよかった』とのことです。あなたを元の世界に帰す方法を知っているのですぐ来てほしいと。私には何のことだかさっぱりわかりませんが」
「……」
トワは聞きながら思索する。
アヌビスの言うことはもう信用できない。彼女の魔法司書のための世界を作る。というのはきっと本心だったのだろう。この世界の魔女の歴史を経ればそう至ったのも頷けた。
だがそのやり方がトワにとっては受け入れ難かった。
「――ナユタはどうなるの?」
そしてトワにとって最も重要な点を問いかけた。
「聖典は回収させてもらいます」
アパスは淡々と、だが冷徹な声でそう答えた。その刹那――
「トワ! 下がれ!」
図書館二階の窓からナユタが、片手を振り上げて飛び降りてきた。その手には魔法の短剣が握られている。
「!」
トワとアパスの間に割って入ったナユタの振り下ろした短剣は、アパスが懐から取り出した青い本に遮られる。
「お久しぶりです。ナユタ様」
アパスは顔色ひとつ変えずに受け止める。
短剣と青い本は共に青いエーテルの膜を削り合い、火花を散らしながら拮抗していた。
「くそっ」
貫くのは無理だと判断したナユタは、トワを庇うように後ろ手に回しながら下がる。
「あっ」
トワはその手に赤い本があることに気付き、受け取る。
「――大人しく付いてくる気は、ないようですね」
「当然だ!」
ナユタの返事を合図に三人はお互い睨み合いながら、身構える。
その様子を離れた高い家屋の天井の上に座りながら、テジャスは見下ろしていた。
「さあて、どうなるかしらね」
そして一色触発の状態がどう転ぶのかわくわくしながら胸躍らせた。
アパスがこの町に来ているのには到着するよりも前に知っていた。タットヴァの写本の魔女達はみな、因果の糸と呼ばれる独自の共感能力を持っており、それぞれの状態を察知することができた。
特にテジャスとアパスは生まれが同時ということもあり、共感力も強かった。
トワが赤い本を手元に浮かべ、青い光を伴って頁が開かれていく。
「そう、それが見たかったのよ!」
テジャスは待ってましたとばかりに嬉々として手を叩く。
あの本が本当に聖典なのか、それを確認したかった。自分を負かしたのが聖典の力なのか、それともトワの力なのか。それが知りたかった。
アパスが雨天の写本を開き、次々と水球の魔法を放つ。
ナユタは手に持った短剣に魔力を込め、それを次々と切り裂いていく。
トワも聖典を片手で開きながら駆け、水球を避けていく。そしてその原理をすぐに見抜き、水球から熱を奪い凍結、ナユタがそれを切り裂き、砕けた破片をぶつけ合うことで電界を発生させ、稲妻に収束することでアパスの水の魔力を焼き尽くした。
戦いは驚くほどあっという間に勝敗がつこうとしていた。
「あははっ! 間違いない。あれは本物! 神の目録から森羅万象を手繰り寄せられる神器。そしてそれを使えるあの子は――」
テジャスは歓喜の声から一点、歯軋りをして悔しがる。
自分達が生まれてきた理由。写本が何故写本なのかその由縁。認め難かった。
「――やるわよ。アパス!」
テジャスは立ち上がると、自らの炎天の写本を取り出し、その頁を開く。
贋作が真作を倒す。これほど痛快な物語はないだろう。
「どうか引いてください。あなたに付いていく気はありません」
「――くっ」
トワが手を前方にかざしながらアパスに問いかける。
アパスは膝をつき、睨み返す。
辺りは大量の水蒸気に包まれ、焼け焦げた地面から煙が上がっている。
アパスの放った水球の魔法はことごとく凍結され、ナユタが切り払い、そして強烈な雷撃に変化してアパスを襲った。全身が痺れ、まともに動くこともできない。
トワは我ながら上手くいったと安堵して、隣のナユタをちらりと見た。
「……油断するな」
ナユタの方は憮然とした表情で短剣を構えながらアパスから目を離さない。バステトとの逃走中、彼女とは何度か戦った経験があったが、初めての勝利であった。
トワは戦っている最中、ナユタとの連携に懐かしさを感じていた。言わなくともこちらの意図を汲んで先立ち、そしてフォローまでしてくれる相棒。それが嬉しくて堪らなかった。
「とりあえず本を奪って縛り付けるか」
だがナユタの方はずっとどこか機嫌が悪そうだった。
「えっ? でも……」
それが何故なのかわからないトワは尻込みする。騒ぎを聞きつけ人が集まり始めている。できれば話し合いで穏便に済ませたかった。
「(これほどとは……テジャスが負けるわけです)」
アパスはじりじりと近づくナユタを睨みつけながら、心の中で悪態をついた。
テジャスとは生まれた時から競い合ってきた。魔法学校でも共に成績上位で、姉妹のようなヴァーユ達と一緒にアヌビスの塔士として任命されたのは名誉だった。
それがこんなどこの馬の骨とも知れない田舎の魔女に一蹴されるのは屈辱だった。
テジャスが負けたというのもお馬鹿な彼女の油断だと思っていた。油断していたのは自分の方だった。
もしこの魔女が先生の言う通り「本物」だというのなら、絶対に負けるわけにはいかなかった。聖典――そしてその唯一の所持者を負かすこと。それこそが我らがタットヴァの写本の悲願だからだ。
『(――やるわよ。アパス!)』
頭の中にテジャスの声が響く。
こうなるのがわかってて高みの見物を決め込んでいたとか、相変わらず意地の悪い奴だ。
だが珍しく意見が一致した。
先生は聖典を確保せよと命じた。すなわちこの魔女はどうなっても構わないということだ。ならば遠慮はいらない。
「――神の目録を解放します」
アパスはまだ雷で痺れる腕をどうにか振り上げて、雨天の写本を天に掲げる。
「!」
足を止め警戒するナユタ以上にトワは驚愕の表情で目を見開く。
「いけない!」
そしてその魔法の発動を止めるべく駆け出すが、既に手遅れだった。




