タットヴァの写本(2)
三人が解散してから一時間ほど経った後、トワは二階の閲覧室の机の上に多数の本を広げながら悩んでいた。
「やっぱわかんないか……」
喜び勇んで様々な本を手に取ってみたが、そのほとんどは読むことができなかった。
この図書館には様々な国の本が集められているため、その言語も様々だ。前世ではいくつもの言語の読み書きができたトワも、北方大陸で一番使われている言語の習得が精々で、
他国の言語までは理解できなかった。
そして今目の前に開いている本はかろうじて意味のわかる言語で書かれた星座の本であった。
この世界の天体図が図表付きで描かれている。もちろんこの世界にも独自の星座が多数存在し、様々な神話や逸話が語り継がれている。
問題はその星の位置である。
この町に来るまでの旅の間、毎夜トワは星空を眺めていた。
トワの記憶の限りでは前世の地球と星の位置が同じように見えたのだ。北極星が日本から見るよりも高く、北欧のそれに近い位置だったため、ここも北半球に位置すると思われた。
つまりこの世界は異世界の別の惑星などではなく、太陽系惑星の地球と同じと考えられたが、前世の地球の歴史に連なる失われた世界なのか、並行する別の世界なのかはわかりかねた。
しかしこの世界にもオルラトルという国が存在するのは偶然とは考えにくかった。
「――星座か。そういえば毎晩空を見上げてたな」
世界の謎についてあれこれと悩むトワにナユタが声をかける。
「あっ!」
不意打ちだったため、トワは思わず素っ頓狂な声を上げて、椅子から転げ落ちてしまう。
「……静かにな」
ナユタは呆れながら周りを見回し、誰もいないことに安堵してから、トワに手を差し伸べた。
「……ごめんなさい」
トワはしどろもどろに謝りながら、恐る恐るその手を掴んで立ち上がる。
どうもナユタと一緒にいると調子が狂う。
最初は彼がイツカなのだと確信していたのだが、本人には全く心当たりがないという。自分がそうであったように前世の記憶を取り戻していないのかと思い、この一週間の旅の間、握手をしてみたり、一緒にエーテライズをしてみたりと、色々試したのだが成果はなかった。結果としてナユタとどう接すればいいのかわからなくなってしまった。
「……イツカって言ってたよな?」
「!」
そんなトワの思惑を見透かすかのようにナユタが声をひそめて尋ねる。
「そいつはお前の何なんだ?」
おそらく彼も旅の間のトワの様子がおかしいことに気が付いていたのだろう。
「…………家族、かな」
長い長い沈黙の末、トワはそう答えたが、口に出してからそれも何か違うなと少し後悔した。
前世、いや前々世では生まれてからずっと一緒に育ってきた。家族よりも近い関係と言ってもいいかもしれない。
「そうか。俺はそんなに似てるのか?」
「……どうだろ。見た目は違うかも」
答えてトワは少し笑った。そもそもイツカの外見が想像つかなかった。本の姿はもちろん、夢の中で見た子供姿はうろ覚え。神の目録で見た姿もトワを大人にした仮の姿と言っていた。姿どころか性別すら不詳ときた。
イツカの元となったという聖典が本当に神だと言うのなら、あるいはそれが正解なのかもしれないが、トワにとってはイツカはイツカでしかない。
「……実は俺も昔のこと――バステトと出会う前の記憶がないんだ」
「えっ?」
ナユタはトワの隣の席に座り、声を落として話し始めた。
「覚えているのは森の中でバステトに手を引かれて走っているところから。それ以前のことは何も覚えていない。彼女が言うには魔女の国の塔に捕まっていたところを助けてくれたらしいんだけど……」
「……」
トワはそれを聞いてやはりこの少年が聖典――イツカであると再度確信した。
だがどうやってその記憶を思い出させればいいのかわからなかった。転生する前は見つければ、会えばそれで終わりだと思っていたが、どうもそれだけでは足りないらしい。
「――この本に見覚えはない?」
そしてトワは机の上に置かれた赤い本を指差す。
「……いや。でも知っていたような気もするんだ。これに限らず新しい物を見ると、初めて見る感覚と知っていたものを思い出す感覚が同時に湧いてくる」
ナユタは赤い本を手に取ると、頁をぺらぺらとめくる。
トワはその様子を、固唾を飲んで見守った。もしかしたら何か思い出すきっかけになるかもしれない。
「うーん」
しかしそんな期待とは裏腹に、ナユタは何の反応も示さずに最後までめくり終わる。ケイの書いたメッセージにも無反応だった。
「はあ……もう一度お話ししたい……」
トワは深く息を吐くと、思わず本音をこぼしてしまう。
「ごめんな」
心の底から落胆するトワを見てナユタは居た堪れなくなって謝る。
「あっ! ううん、ナユタはわるくないよ! なにも……あっ……あれ?」
トワは慌てて申し訳なさそうにするナユタに謝るが、その瞳から涙がぽろぽろと溢れ出す。
「えっ……なん……で」
自分でも何故突然涙が出てきたのかわからなかった――いやすぐわかった。
思えば前世と今世合わせて、既に十八年もイツカと言葉を交わしていない。そのことに気付いた瞬間、寂しさを抑えることができなくなってしまったのだ。
「……」
ナユタは同情し、トワの肩に優しく手をかけようとするが――
「ごめんっ!」
トワはそれを振り払い、涙が止まらない顔を両手で覆いながら階下に走り去ってしまった。今はこのナユタの優しさが逆に辛かった。
「……ちぇっ、なんだよ……」
ナユタは追いかけられず、伸ばしたまま宙ぶらりんの手をだらりと下げて、悪態をついた。理不尽な気持ちと、心の傷を抉ってしまった罪悪感でやるせない気持ちになった。
机の上にはトワの赤い本が置いたままになっていた。
「……」
何も思い出せない振りをした。
本当はこの本のことを知っている。記憶はないが心は覚えている。ずっとここに縛り付けられていた。そんな気がした。
だが今は違う。
ナユタという名を受け、この世界に足を踏み締めて立っている自分は他の誰でもない自分だ。
トワこそがバステトが言っていた守るべき子なのは初めて会った時からわかっていた。やはり記憶はないが心は覚えていた。
それが自分の使命だと心に熱く激る何かがあった。バステトの期待に応えたいという気持ちももちろんあった。
しかしトワが見ているのはナユタではなかった。
イツカという誰か別の人間の面影を追っていた。それがもどかしかった。
この心のもやもやが何であるのか、それを知りたかった。
「はあ……どうしちまったんだ。俺は」
ナユタは深くため息をつくと、トワが降りていった階段を見つめ、自分の中に初めて芽生えた感情にただただ戸惑うばかりであった。




