タットヴァの写本(1)
これは夢――
森の中を駆けていた。
足にちくちくと小枝が刺さり痛い。裸足だった。それどころか全裸に不思議な紋様の描かれたケープを羽織っただけだった。
前を走る花柄のあしらわれた奇妙な黒いローブを着た女性が、手を引っ張ってくる。
こっちはまだ歩くのもおぼつかない足だというのに。
「ごめんなさい! でもこの森はまだ結界の影響があるから、抜けるまではがんばって!」
何故こんな状況なのか思い出せない。
走りながら振り返ると、遠くに高い塔の影が見える。
あそこから逃げ出してきた。それだけはうっすらと記憶がある。だがそれ以前のことが何も思い出せない。
「……あ、うぅ……」
声を上げようとするが喉が焼けるように痛くて出ない。
「まだ無理しないで。その身体が適応するのに時間がかかるから」
振り返らず答える魔女――そう彼女は魔女だ――は構わず手を引きながら走る。
その手は温かく、どこか懐かしさを覚えた。
その後、数刻ほど走り続け、ようやく森を抜け、街道沿いにあった廃村の木造家屋の中で休んでいた。
目に入るもの何もかも初めて見るものばかりなのに、それが何であるのか知っていたかのように理解できた。そしてその認識が自分の頭の中に新たな記憶として刻まれていくのを感じる。
「――ここまで、はぁ。くれば――はぁ。もう、だいじょ……うぶだから――」
魔女は息も絶え絶えに埃まみれの床に座り込む。
崩れた天井から差し込む陽の光が、巻き上がる埃をきらきらと照らす。
「ええと、どこから説明しようかな。あなたはあの塔に閉じ込められてた。そこから私が連れ出した。それは覚えてる?」
「……」
声が出せないので黙って頷いた。
「あなたに助けて欲しい子がいるの」
「!」
彼女の言う『あの子』が誰なのかはわからない。だが胸の奥で何かが灯るのを感じる。それは熱となり、全身に活力となって漲っていく。
「……わたしは、まだ会えないんだけど……」
そして彼女は独り言のようにぼそりと呟く。その顔は寂しそうに見えた。
「そうだ! まず自己紹介だね。私はバステト。あなたの名は、えーと、どうしよっか?」
彼女は思い出したかのようにぱちんと手を叩くと、自分の名前を名乗り、そして尋ねてくる。
「……」
名前という概念にぴんとこなかった。物や人につけられる呼称なのはわかるが、自分に固有の名前があったという記憶は最初からないように感じられた。
「ナユタ! ってのは、どうかな……?」
バステトは声を上げて提案すると、すぐに自信なさそうに声を落とす。
「ナ……ユ……タ……?」
「そう、とてもとても大きな数字を表す言葉なんですって。全知であったあなたにぴったりだと思う」
ゼンチという言葉にわずかに懐かしさを感じた。確かにそれが相応しいのかもしれない。
「……う、ん」
「よかった!」
わずかに声を漏らしながらゆっくりと頷くと、バステトは嬉しそうに抱きしめてくる。
「これからいっぱい世界を見て、人を見て、知っていって欲しい。ここが神に捨てられた地獄なんかじゃないってこと」
バステトは立ち上がると手を差し伸べながら言った。
「そして――あの子と一緒に運命に抗って欲しい」
その手の温もりと『あの子』という言葉が、この空っぽの身体に言い知れぬ勇気を奮い立たせた。
「うんうん! いい顔だ! じゃあ行こっか! ナユタ!」
これが魔女バステトと、俺ナユタの出会いと、旅立ちの記憶だ。
その後六年に渡り世界中を巡り、やがてまた魔女の国のあるこの大陸に戻ってくることになる。
「あっ、その前に服どうにかしないと!」
バステトは真っ裸の俺の身体を見て、わずかに顔を赤らめ、申し訳なさそうに謝った。
その時の顔が今でも脳裏に焼き付いて離れない。
北方大陸には三つの大国があり、古くから争っていた。魔女の国オルラトルはその三国の争いには不干渉で、今も中立を保っている。
オルラトルは高い山々に囲まれた地で、そこに向かう際に必ず通ることになるのがポレンヘイムだ。元々はオルラトルへの亡命を求めた魔女達や、貿易商によって自然にできた集落で、当然三国からの侵略、衝突も絶えなかった。
しかし結果的にはどこの国にも屈さず、三国とオルラトルを繋ぐ町、オルラトルへの玄関口として大きく発展した。それほどまでに魔女達の魔法技術が強大であったのである。
今では魔女だけでなく三国からの移民も多く、様々な人種、多国籍文化のるつぼの町として人々に愛されている。
そんなポレンヘイムの旧市街の川沿いの一角、大きな古い建物の前に三人の少年少女が立っていた。
「ここが!」
今にも駆け出しそうな様子のトワが興奮を隠しきれずに叫ぶ。
「ああ、ポレンヘイムで一番古い図書館だな」
そんなトワを見て呆れた様子のナユタが説明する。
「なんかあるの?」
同様に呆れた顔でつまらなさそうにテジャスが尋ねる。
「ずっと行ってみたかったの! ここには昔から様々な国の本が集まってきてて、三国が戦時中に失った本も多数あるらしいの! それだけでなくオルラトルの魔法書もたくさんあって、今でも現存しているのは独自のエーテライズ技術を発展させたためで、それは魔法だけでなく科学の技術も取り入れられたからで、ここの司書になるにはそれらの資格と試験を突破する必要があって――」
ものすごい早口でまくしたてるトワを真顔で見つめながら、二人は顔を見合わせた。
「で?」
「三年前までバステトとこの町にしばらく滞在していた。彼女はよくここに来て何かを調べているようだった」
まだまだ続けているトワを無視して二人は確認した。
今日ここに来たのはトワの観光欲を満たすためではなく、バステトの手がかりを探すためであった。
教会を出て一週間、大きな問題もなく、どうにか一行はポレンヘイムに辿り着いた。
まず三年前までナユタがバステトと共に滞在していた宿に向かった。ナユタは顔馴染みの女店主と再会し、バステトが戻っていないかを確認したが、一度も戻っていないとのことだった。
バステトは拠点としていつでも帰ってこられるように相当な金額を前払いしていたらしく、二人が暮らしていた部屋をそのまま三人で使うことになった。
宿で一晩旅の疲れを癒した後、今朝、この図書館に来訪したというわけだ。
図書館に入ると、そこは城の踊り場のように広場とそれを取り囲むように大きな階段が続いていた。正面中央には受付カウンターがある。壁には一面本棚が敷き詰められている。
古くは町を興した豪商の屋敷を改修したもので、住人達が本を集めていった結果、図書館として町の自治会で認められた歴史を持つ。今では誰でも利用できる公共図書館として町の住人だけでなく、貴重書の閲覧を求めて様々な国から利用者が訪れる。
まだ朝の開館直後ということもあり、利用者はまばらで、職員達が慌ただしく返本作業に追われていた。
「ああ! この本の匂い! 何年ぶりの図書館か!」
トワは大きく両腕を広げ、存分に館内の空気を吸い込んだ。
思えば今世でまともな図書館を訪れるのは初めてだ。住んでいた町には図書館はなかったし、教会で集められる本にも限りがあった。
ずっと満たされない思いはこれだったのだと、前世の記憶を思い出した今ならわかる。
「……じゃあ、昼前にここに集合な。テジャスもいいな?」
本棚に詰まっている本を端から順番に見ながら、ふらふらと階段を登っていくトワを見ながらナユタは呆れて言った。
「ふん。呑気なもんね」
テジャスは鼻を鳴らすと、さっさと外へ出て行ってしまった。
「さてと――まずは聞き込みか」
ナユタは深く息を吐くと、職員達にバステトについて尋ねて回り始めた。彼女はこの図書館をよく使い、馴染みの職員も多かった。何か行方の手がかりを持っている者がいてもおかしくはない。




