プロローグⅢ
転世編 あらすじ
森の教会でシスターと二人で暮らす少女ツイ。彼女には秘密があった。
森で竜に追われる彼女は不思議な少年ナユタに助けられる。
二人の出会いが神話の時代から続く運命の歯車を動かし始める。
※この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。
遥か大昔、まだこの世界に空と海と大地ができるよりも前、世界は「宙」と呼ばれるものに満たされていました。
宙にはただ一つの存在――私達が「神」と呼ぶものだけがありました。
神はただ宙の均衡を願い、ただそこに在り続けるだけのものでした。
永い時の中、いつしか神の心には「寂しさ」が産まれていきました。
神は自分によく似たもう一人の神を産み出し、対話を始めました。
やがて二人の神は「愛」を知り、次々と神を産み出しました。
宙はやがて様々な神々によって満たされていきました。
永い時の中、いつしか神々の心には「憎しみ」が産まれていきました。
神々は争いを始めました。
しかし神は神を殺すことができないため、神を殺すことができる神――「竜」を産み出しました。
竜達を従えた神々の戦いは宙を分かち、私達の住む地上が産まれました。
永い時の中、いつしか竜達の心には「怒り」が産まれていきました。
竜達は神々に反旗を翻しました。
永い戦いの後、神々は全ての竜を地上へと堕とし、竜を殺すことができる神――「人間」を産み出しました。
そして人間達が竜達を滅ぼすことを願い、宙の彼方へと立ち去り、眠りに就きました。
永い時が過ぎ、神々が目を覚ますと、地上ではまだ竜達と人間達が争いを続けていました。
人間を哀れんだ神々は、自らの化身――「神器」を産み出しました。
神器は地上の人間の王達に授けられました。
――過去と現在と未来、その全ての因果を見定めし、全知の目録――
この神器『聖典』を授けられた国こそ、我らが魔女の国オルラトルなのです。
雲一つない青い空の下、白い鳥の群れが北の空から南に向かって飛んでいる。
彼らは渡り鳥で、秋から冬にかけて南に渡り、春になると再び北に向かって帰っていく。
これはより寒さの激しくなる北の地から、少しでも暖かい南の地へと移り住む避寒のためと言われている。
しかしその真相は違う。
この冬を前にしたこの季節は彼らにとって天敵となる生物が活動を始めるからである。
その生物は冬の間は巣ごもりをして寒さを凌ぐため、その前に食糧を集める必要がある。結果鳥達は格好の獲物となるため、こうして南の地へと逃げてきている。
森の中を教会の鐘の音が響く。
「やっと終わったー」
「早く行こうぜ!」
「悪い、俺、畑手伝わないと」
「帰りにお菓子屋さん行きましょ」
「えー! 今日はお人形屋さんって言ったでしょ!」
子供達の喧騒がたちまち始まり、一斉に教会の中から飛び出してくる。
「やれやれ、お前ら! ちゃんと宿題やるんだよ!」
教会の中から初老のシスターが怒鳴り声を上げる。
「はーい!」
子供達は揃って元気よく返事をすると、あっという間に教会の敷地を抜け、町に向かう林道の坂道を下り始めた。
「まったく。返事だけはいいんだから」
彼女の名はイスラ。この教会の唯一のシスターであり、先生である。シスターと言っても修道服を着るのは礼拝の時のみで、今は安い羊毛のショールを腰のベルトで締めただけの町の人々と変わらないものだった。白髪混じりの黒髪も後ろで雑に結んでいるだけだ。
この教会は丘の下のある町の人々の献金で運営されているが、幼い子供達が通う学習塾としての役割も担っている。それは彼女が孤児で先代のシスターに拾われ、ここで共に生活をしながら勉強を教わっている中で、だんだん町の子供達も見るようになったのが始まりで、跡を継いだイスラも続けている。
「あの……」
イスラが散らかった授業用の机と椅子を片付けていると、礼拝堂の奥の扉から、一人の少女が恐る恐る顔を半分覗かせる。
「ああ、終わったよ。おいで、ツイ」
ツイと呼ばれた少女はその手に赤い厚手の本を大事そうに抱きかかえながら、小走りに入ってくる。
彼女の名はツイ。イスラと二人でこの教会で生活している子供で、年齢は九歳。孤児で赤ん坊の頃にイスラが預かり、今日まで共に暮らしている。
長い黒髪をおさげの三つ編みに結び、古めかしい眼鏡越しの瞳の色は黒。イスラが子供の頃着ていた修道服をいつも着ている。
「お前もいい加減あの子らに声かけてみたらどうさね」
イスラはてきぱきと壁際に並ぶ本棚を片付けているツイに声をかける。昔は一つだけだった本棚は、ツイが来てからは二つ、三つと増え続けている。一人でいることが多い彼女は文字を覚えてからはずっと本ばかり読んでいる。
「でも……」
ツイは振り返り、眼鏡を両手で抑えながら躊躇いがちに応える。
「……まあ、そうだね。でもいつまでもそうはいかないだろうさ」
イスラは鼻で息を吐きながらツイの頭をわしゃわしゃと撫でた。ツイは目を瞑り嬉しそうにそれを受け入れた。困るといつもやってくれるからだ。
「今日は町内会議で遅くなるから、先にご飯食べて寝てな」
午後になり、教会の入口でイスラがツイに告げる。彼女は週に数回町に下りて買い出しをしているが、今日は月一の町内会議がある。町の大人が集まり、起こったことの報告や今後の町の指針を決める。教会への献金や勉強会の報告等も行われる。
「わかった。いってらっしゃい」
ツイは林道を下るイスラに手を振る。一人で教会に残ることにはもう慣れていた。
「さて、と!」
そして教会の奥の台所で、小さな肩掛け鞄の中に羊皮紙で包まれた夜ご飯とお菓子を大量に詰め込むと、本棚の前に立ち、今日はどの本を読むかうきうきしながら選ぶ。
それが決まると教会を出て、町への道とは反対方向の森に向かって歩き出す。
いつもこうして森の中を散歩しながら本を読むのが好きだった。特にイスラの帰りが遅い日はこうしてこっそり遠征して、今まで行ったことないところまで行くのが密かな楽しみとなっていた。
森の奥の湖のほとりでいつもならここで夕方まで本を読んでいるが、今日は晩ご飯を早めに済ませ、湖から伸びる川沿いを歩き、森のさらに奥へと進む。この川の上流にある滝を前から見てみたかったのだ。イスラは危ないから近づくなと言っていたが。
川沿いを歩きながら大きく伸びをする。今日は天気もいいし暖かい。もうすぐ冬になると雪が降ってこうやって散歩もできなくなる。今年はこれが最後かもしれない。
時折川の水を飲みにきているリスや鹿などの動物とすれ違う。ツイの姿を見てもさほど驚く様子もなく飲み続けている。彼らも冬を越すための準備をしているのだ。
そして数十分歩いた後、滝の麓まで到着する。
岸壁に激しく落ちる水が大量の水飛沫を生み出し、辺り一面を真っ白にしていた。
「見えないや」
跳ねる水飛沫と水蒸気が眼鏡をあっという間に曇らせるので、ツイは眼鏡を外して鞄の中に慎重にしまう。
そして滝を見上げたその瞳の色は黒から赤へと薄らと変わっていく。
ツイは魔女である。
この世界の万物はエーテルと呼ばれる粒子で構成されており、それを操る術、「魔法」に長けた者を魔術師と呼ぶ。エーテルを見る、触る程度ならば誰でも可能だが、それを分解、再構成、加工までおこなえる者は稀で、それ故に魔術師は畏敬の念で見られる。
そんな魔術師の中で特に異端と呼ばれる者が魔女である。
長命で強大な魔力を持つ種族であるが、魔法の研究で禁忌を犯した、悪魔と契約したなど、様々な噂があり、人々からは嫌悪の対象となっていた。
故に迫害された魔女達は北の地へ集まり、魔女の国を作ったという。
そして幾多の国が魔女狩りと称して魔女の弾圧、戦争をしかけた歴史がある。
しかしそれも数千年前の話で、今では魔女の国は他国と和平を結び、戦争が起こることはなくなった。どこの国も魔女達の振るう魔法に太刀打ちできなかったからである。結果、戦争で略奪を謀るよりも、国交で技術共有を図る方に益があった。
魔女の国も自ら侵攻をすることはなく、他国の戦争へも介入することはない絶対的な中立国となった。
そんな魔女達の大きな特徴がその瞳の色で、深い赤色をしている。
今でも魔女に奇異の目、恐怖を抱く者は少なくないため、魔女の血を引くツイはこうして目の色が変わる魔法のかかった眼鏡を常用しているのである。
「だって、みんな怖がるんだもん」
川辺の岩の上に座り、滝をぼんやりと見つめながらツイは呟く。
幼い頃は眼鏡をしていなかった。しかし物心がつき始めた頃から、周りの大人や子供が自分のことを避けていることに気付いた。その原因が瞳の色だということも。
ツイには母の記憶はなかったが、イスラによれば母は魔女で赤子のツイを教会に預けて去ったという。理由を聞いてもいつもはぐらかされている。
「お母さん……」
そして鞄の中から赤い本を取り出す。この本は母がツイと共に残したものだが、書かれている文字がずっと読めないでいた。誰に聞いても知らない文字で書かれているため、もしかしたら魔女特有の文字なのかもしれない。
「魔法だって使えないし」
両手を滝に向かってかざして必死に念じる。しかし何も起きない。
以前、町のお祭りで魔術師が来た時に、水や火を操る芸を見たことがある。魔女の自分にもそんな才能があるのだと胸躍らせたものだったが、その後いくら練習しても一向に使える気配はなかった。
「はーあ」
両手を投げやりに振り上げ、そのまま仰向けにばたんと横たわり、空を見上げる。水飛沫が頬の上を跳ねてくすぐったい。空はゆっくりと暮れ始めていた。
ツイには母を探しに行きたいという願いがあった。
どうして自分を置いて去って行ったのか聞きたいし、純粋に会いたかった。
もちろんイスラのことが嫌いなわけじゃない。でも魔女の自分のために町の人達といつも喧嘩しているのを知っていた。それが申し訳なかった。
町の人達のことは好きではないが嫌いでもなかった。実際魔女の噂は良いものばかりではないので不安になるのは痛いほどわかった。
だから何時かはこの町を去らなければならないと思っていた。イスラに話したらきっと鼻で笑われて、お前はそんなこと気にしなくていいと言うだろうけど。
「!」
突然どしんという大きな音が響く。森の中から鳥の群れが一斉に飛び立ち、木々が騒めく。
ツイは起き上がり、辺りを見回すが、何もいない。
不気味なほど静かだった。鳥や虫、動物の鳴き声ひとつ聞こえてこなかった。
みな、逃げたのだ。その捕食者を恐れて――
「えっ?」
急に空が暗くなる。ツイの周りだけ夜になったように。
そして凄まじい水飛沫を起こしながら、それは滝の麓へ降り立った。
この世界において最も凶悪な生物――竜である。




