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トワとイツカの魔法司書  作者: 玖月 泪
神保町編
56/106

選択(6)

「……うっ……」

 澄んだ鈴の音のような音が耳に鳴り続き、トワはゆっくりと瞼を開く。


 まるで宇宙のような真っ暗な空間の下を、無数の青白いエーテルの波が一直線に走っていた。以前に見た記憶が蘇る。

「――神の目録」

 床の見えない空間の上に寝転んでいたトワは、上半身だけ起き上がると辺りを見回す。

 オルラトルで見た景色と同じだった。ただ無限に続く本棚は一つもなかった。


「にゃあ」

 すぐ近くにいたデューイがトワの胸元に飛び込み、いつまで寝てるのよと呆れた鳴き声を上げる。

「……もう、むちゃばっかするんだから」

 トワも呆れながらも安心してデューイをぎゅっと抱きしめる。


 トワはデューイを両手で抱きながら立ち上がると、当て所もなく歩き出す。

 オルラトルの時と違い、何もないので方向感覚も距離感もすぐおかしくなった。

 空には星のように無数のエーテルが瞬き、幾つもの川のような波が流れていた。それらを見上げて、その一つ一つに役割があるのだろうかなどと、アヌビスの話を思い出しながら歩き続けていた。


「……だれもいないのかな……」

 数十分、いや数時間、いや何日も歩いたか、もはや時間の感覚も失われ、その場にへたり込んだトワは弱音を吐く。元の世界に戻る方法など皆目見当もつかなかった。

「にゃ、にゃ」

 すると、はぐれないようにずっと抱きかかえていたデューイがトワの腰の辺りをぺしぺしと叩き始める。

「ちょっと、デューイ? あっ!」

 暴れるデューイを嗜めようとしたトワは、すぐにその意図に気が付いた。

 デューイが叩くその場所は、前世ではずっと大事なものを収めていた場所だ。九年もご無沙汰で忘れかけてしまっていた。


「えいっ!」

 トワはデューイを離すと、今世の方法で自分のエーテルキャットである赤い本をぽんっと呼び出す。

 この本は相馬イツカと見た目は同じだが、全くの別物だ。前世のこと、イツカのことを忘れていた今世の自分が、それでもこの形を再現出来ていたことに、トワは我ながら誇りに思うのだった。


『やっと繋がったか――』

 不意に声がした。

 トワはきょろきょろと辺りを見回すが、相変わらず何もない暗闇の空間だけだった。

『ここだ、ここ』

 声は手元の赤い本からだった。

「イツカくん!」

 トワは驚きと共に無我夢中で赤い本を抱きしめた。その瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちる。

『――イツカ? ああ、そういう名もあったな』

「えっ?」

 予想外の反応にトワは凍りつく。よく聞けばその声音はイツカのものとは違い、まるで老人のそれのようだった。


「――あなたは、だれ?」

 喜びから一転して、トワは涙を拭い、疑惑の目を手元の赤い本に向ける。

『名は意味を成さないが、我は――そうだな、聖典などと呼ばれることが多かったか』

「聖典……」

 トワはその言葉を聞いてあからさまに落胆する。アヌビスが真に求めたのはこれなのだろうか。

「イツカくん、では、ない、ってこと?」

 そして恐る恐るその認めたくない問いを発する。

『そうだとも言えるし、そうではないとも言える』

「?」

 トワは困惑して小首を傾げる。


『相馬イツカは我の可能性の一つ。お前達人間の住む地上に我が降り立つには我の内包する知はあまりに膨大故、幾度となく終末を早めた。それを反省して大半を切り離すことにした。結果それは個としての人格にも影響を及ぼし、世に現れる度にその姿形、精神は安定せず変転する』

「? ?」

 聖典の説明にトワは全く理解を示さなかったが、以前イツカも似たようなことを言っていたことを朧げに思い出す。

『お前が前世で七星アヌビスに負け、我の変異体の一つである相馬イツカは因果断絶結界に囚われ、神の目録への帰順をもってその固有性を失った』

「! じゃあイツカくんはもう――」

 トワは聖典の言葉に愕然とする。イツカが元の聖典の姿に戻ったことでその個性を失ったとすれば、もうイツカに戻ることはできないということだ。


『――まあ、待て。そう急くな』

 今にも泣き出しそうな顔をしているトワを聖典は嗜める。

『お前は誰だ?』

「? 彩咲トワ――です」

 トワは質問の意図がわからず、戸惑いながらも自分の名を告げる。

『そう。彩咲トワ。お前の魂は世界で唯一、我と繋がることができた魂だ』

「たましい?」

『本来死して生まれるはずがなかったお前が、相馬イツカによって命を繋ぐことができたのは決して偶然ではない。深く深く刻まれた因果故だ』

「……」

『お前の中にその因果――絆があればこそ、我をイツカに導くこともできよう』

「! ほんとに?」

 トワは一転して顔をほころばせる。そのころころ変わる表情に聖典は苦笑した。


『ただし、それは海の中から砂粒ひとつを探し当てるがごとく。しかもその海はあらゆる可能性の世界だ』

「でも目星はついてるんでしょ?」

 聖典の言葉にトワは戸惑うことなく応える。

『ははっ。まあな。我に知らぬことなどない。イツカが生まれ落ちた世界。そこからだ』

 そんなトワに聖典は笑って応える。そうだこの因果を見るまでもなく欲しい言葉を投げかけてくれるこの少女の魂にこそ、我は惹かれたのだと。


「……でも、世界を渡るということは、わたしの世界はどうなっちゃうの?」

 トワにとっての前世はアヌビスが聖典を手にしたことによって失われた。もしここでイツカのいる世界に渡ってしまえば、また世界が書き直されてしまうのではないか。

『ここは未だにお前にとっての今世の因果断絶結界の中にある。既に決壊を始めてはいるが、逆に言えばここがまだ維持されている間は、どの世界にも干渉しないし、されないということでもある』

「それじゃあ――」

『だから我は共には行けぬ。ここを維持せねばらなぬ。行けば世界はそれで確定してしまうからだ』

 聖典の言葉にトワはまた絶望的な顔をする。


『そんな顔をするな。ちゃんと飛ぶべき世界は示してやる。それにお前は一人ではない』

 聖典はそう言うとトワの足元で退屈そうに欠伸をしているデューイを見る。

「にゃあ」

 デューイは聖典を一瞬見やると、あんたなんか知らないとばかりにぷいと顔を背けた。

『……元はと言えばお前が結界を――いや、今のお前に言っても仕方ないか』

「わかった。行くよ」

『お前にとってかなり厳しい世界になるかもしれない。それでも行くか?』


「行くよ」

 トワは決意した。まだこの世界を残したままイツカを取り戻す方法があるのなら、何だってする。もう二度と前世を失う悲しみを背負わないために。

 前世のハルやウララ、九重、キクヲ、両親、オルラトルの人達と、今世の彼らはきっと同じ魂で繋がった存在なのだろう。しかし世界が変わればその関係性も、共に過ごした時間も変わってしまう。

 前世の彼らと過ごすはずだった時間をもう得ることができないのは、トワにとって何よりも悲しかった。

 そしてイツカと見た共に生きていく未来を掴むには逃げることは許されなかった。

 オルラトルの神の目録でケイは言った。イツカを失い一人になった世界でも生きていけると。きっとその自分はもっともっと強くなるのだろう。大人になるのだろう。

 だが今はまだ可能性に足掻く子供でいたかった。


『孤独や痛みを知る人間は強く、優しくなれるかもしれない。しかしそれは諦めて選んだ末に得られるものではない。最善を願い、走り続けたからこそ見える景色だ。何故だかはわかるな?』

「くやしいから!」

『そうだ。抗い続けろ人間。彩咲トワ!』


 トワは走り出した。聖典が指し示すエーテルの光の彼方へ。


 昏き闇の中に指す光の標の先の未来は、全知を持ってしても未だたゆたう水面のようにただただ夢の輝きの残響を映すだけだった。

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