エピローグ
白い雪と黒い地肌がまだら模様になっている高い山々の間を縫って、雲ひとつない濃い青空の中を一羽の鷹が翼を大きく広げ、ゆっくりと飛んでいく。
北欧スウェーデンとノルウェーの国境付近の山脈の中、一台の荷馬車が野道を進んでいた。
「だいぶ風が冷たくなってきたね」
その荷馬車の荷台の上で、トワが遠くの山々の麓に広がるフィヨルドの湖を見下ろしながら誰ともなく呟く。
『もう夏も終わりだからな、これからどんどん寒くなる』
トワの呟きに応えるかのようにイツカの声が聞こえてくる。
オルラトルでの三ヶ月の研修期間を終え、トワとイツカは来た時と同じように荷馬車の荷台の上で揺られていた。
「はあ……」
トワは白い息を吐きながらマフラーに顔を埋め、胸元の赤い本を強く抱きしめる。
イツカはあの日、神の目録が閉じた後、また本の姿に戻っていた。
それがイツカの望んだことなのか、ケイが身体を持っていったのか、あるいは世界が干渉した結果なのかは定かではないが、ただこうして元の二人に戻ることができたのは確かだった。
その後アリスは図書館に戻り、エメリックは警察に出頭、アカーシャはしばらく時計塔にいたが、やがて姿を消した。だが最後に会ったガルロによれば会いに行く人がいると言葉を残していた。
「にゃー」
いつの間にか傍にいたデューイが、私も忘れないでよとばかりにトワの胸の中に飛び込む。
「わっ。ちょっとデューイ」
『……もしかして最初から全部お前が――いやまさかな?』
「にゃ?」
イツカは表紙をガリガリと爪で撫でられながらぼやく。
「神の目録につながって全部見たんじゃないの?」
『わすれた。人間の身体に戻った時に切り捨てたんだよ。そうしないと容量オーバーで脳みそパンクしちまう』
イツカはエメリックがそれを知って卒倒したことを思い出して笑う。
「そういえば聞くの忘れてたんだけど」
『うん?』
「イツカくんって、女の子だったの?」
『は?』
トワはあの日からずっと聞くのを忘れていた問いを発した。
「だってだってあの時、人間になったイツカくんは女の子だったじゃない」
『……あれは、その、今の十八歳になった自分の姿が思い描けなかったから、お前の姿を借りただけだよ』
イツカはちょっと恥ずかしそうに答えた。
「じゃあ、本当は男の子だったの?」
トワは尋ねた。実際イツカの性別はこれまで一度たりとも誰からも不思議とはっきりとは明言されたことがなかった。トワ自身、特に気にするでもなくイツカはイツカとして応対していた。
『……それ、だいじなことか?』
「うんっ」
トワは興味津々といった顔で目を輝かせる。
『…………わすれた。別にどっちでもいいだろ』
イツカは長い熟考の末、そう答えた。
「えー! うそだー!」
トワはあからさまに不服な声を上げると、イツカをまさぐって問い正そうとする。
馬を引く老人が何事かと振り返り、一人はしゃぐ少女を見て首を傾げる。
『そういうトワだって、何だよその格好』
「えっ? これ?」
トワはいつもの黒い振袖姿ではなく、黒字に白襟のワンピース姿で、髪も三つ編みになっていた。
「リサさんとクーが選んでくれたんだけど、変、かな?」
トワは着慣れない洋服にもぞもぞと身体を動かす。
『……いや、よく似合ってるよ』
イツカはその姿に新鮮さと同時に幾ばくかの寂寥感を覚え、声を落とす。
そう、ようやく彼女は相馬家の呪縛から解き放たれたのだ。これからはその身体で自由に生きればいいのである。
「イツカくんもね」
『!』
そんなイツカの気持ちを知ってか知らずかトワはイツカをぎゅっと抱きしめる。
「……ケイさんまた会えるかな?」
『さあな、あんな別れ方しといてちゃっかり俺の身体でどこかで生きてんじゃないかって気もする』
「はは、それなら大成功だね」
二人は笑った。あのいたずら好きの魔法司書がこのまま終わるはずがない。
「もちろん諦めてなんかいないんだから」
『……そうだな』
結局神の目録ではイツカの身体を取り戻すことはできなかった。
だが二人は見たのだ。二人手を繋ぎ並び立つ未来を。
「このままだと魔法司書としてだけでなく、ファッションセンスもわたしとの差が開いていっちゃうかなあ」
『は? 言ってろ……』
そして二人はいつもの他愛のない張り合いを始める。
「にゃー」
デューイがそんな二人を笑うかのように、暢気な声で鳴いた。
こうして三ヶ月間、この北欧の町オルラトルの図書館で若き魔法司書、彩咲トワの研修が終わったのである――
彼女らの帰還を祝うかのように鷹の鳴き声が山々に響いた。
第二部神保町編は2023年秋頃公開を目標に執筆中です。
誰も見てないだろうから踊ります。ソイヤ!ソイヤ!ソイヤ!