重なる世界(9)
「しかし、これこのままにしていいんですか?」
いまだにエーテルの渦が立ち上ってきては、窓や壁の隙間から漏れ出ている中、エメリックが尋ねる。
「たぶん……だよね?」
『ああ、ほっとけばそのうち元の流れに戻っていくだろうさ』
不安そうに答えるトワに、その胸に両手で抱いたイツカが答える。
『この町のエーテルの流れに乗せられて大体わかったよ。神の目録はどこにも存在しないが、どこにでも存在する場所』
「……どういうことです?」
イツカの言葉にエメリックは目を光らせて食いつく。
『次元、とでもいうか。この世界には幾つもの層のようなものが折り重なっていて、神の目録はそこにある』
「どこにでもあって、だが知覚できない次元。それじゃあ――」
『そうだ。エーテルはその次元を流れている物質で、俺達魔法司書にはそれを見ることができる。そしてその流れを辿れば神の目録を引きずり出せるってわけだ』
「そうか! やはりケイの仮説は間違っていなかった。そしてその流れを辿るために膨大な記憶が必要になると」
『そうだ。あっちの次元とこっちの次元を繋ぐものがエーテル、時を繋ぐ因果であり、言わば縁のようなものだ』
「えっと……」
盛り上がる二人にトワはちんぷんかんぷんといった顔で口を挟む。
「ああ、すいません。つい。しかし、エーテルを集めただけでは神の目録の扉は開かないでしょう?」
『そのために俺を使おうとした』
「!」
エメリックの問いにイツカは淡々と答えた。トワはそのことの意味に気付いた。
『トワ。このまま続ければ神の目録を開くことができる。母さんに会うことができるかもしれない。――どうする?』
イツカは静かに問いかけた。
「……」
トワは胸元のイツカに視線を落としながら黙って考え込んだ。
きっとイツカは神の目録の扉を開くための最後の鍵なのだ。だがそれを使うことがどういう意味なのか、そのことを思うと不安がこみ上げてくる。
「……イツカ、くんは……どう、なるの……?」
トワはその不安をどうにか言葉にして絞り出す。
『……わからん。もしかしたら……いや、母さんが何も考えていないはずがない、だが――』
イツカもそれを察して慎重に答える。しかし不安、いや予感めいたものを感じていた。
おそらく一度開けば、自分はもうこっちの世界へ戻ってくることはできないだろう――と。
「じゃあ、やめる!」
立ち込める沈黙を吹き飛ばすかのようにトワが元気よく声を上げる。
『……』
イツカはその答えに一瞬驚き、だが、何も言わずに頷いた。
「待ってください! それでは――」
対してエメリックはトワの即決に戸惑い、思わず口を開く。
正直なところ、神の目録は見てみたいし、ケイに会えるなら会ってみたい。それが彼の偽らざる感情であった。
「だってイツカくんを人間に戻す方法をさがしてるんだから、これはダメだと思う」
トワはそんな思いを知ってか知らずか、ばっさりと切り捨てる。
『諦めな。俺だってどうなるかこの目で見てみたくもあるが、これだけはトワが決めることだからな』
イツカは不服そうなエメリックをたしなめる。
『それに神の目録の開き方はわかったんだ、ここで俺を使わなくてもまた別の方法が――』
そして言いかけてはっとする。
「イツカくん?」
訝しむトワだったが、突然時計塔の中のエーテルの流れが変わったことに気付いて辺りを見回す。
まるで地震が起こっているかのように時計塔が揺れ出し、立ち上るエーテルの波が一斉に壁に向かって流れ、触れた床も壁も時計の歯車もまたエーテルに分解されて崩れていく。
「フーッ!」
「なるほど、そういうことかい」
時計塔広場、声を荒らげて身体を震わせるデューイと、今目の前で起こっている光景に全ての合点がいったという顔で呆れるアリス。
デューイと共にラジエルを後一歩のところまで追い詰めたところで、それは突然一冊の本に姿を変えた。
大きな黒い装丁の厚い本に。
「そいつがその子の本来の姿ってわけだ」
「……」
そしてその本はアカーシャの手の中で中空に浮かび、時計塔から流れ出るエーテルだけでなく、時計塔そのものを分解し、脈々と吸い込んでいく。
「最初からそっちを使えばよかったじゃない。そのケイが作った『写本』でね」
アリスはラジエルをエーテライズで直接触れて、それがケイの作ったものだとすぐ気付いた。そしてそれがイツカと極めて近い存在であることも。
「……これは、姉さんとの約束――」
「まだ言うかっ……くっ」
エーテルの波はさらに広がり、やがて広場全体にエーテルの粒子が充満し、それらは全て黒い本の中に吸い込まれていく。
やがて辺り一面は青白い光に全て包まれる。
そして、時計塔広場の時間と空間はこの世界から切り離された――
「……うっ……」
澄んだ鈴の音のような音が耳に鳴り続き、トワはゆっくりと瞼を開く。
『……起きたか』
胸元に両手で強く抱きしめていたイツカが小さく声を上げる。
「イツカ、くん?」
トワはイツカを抱いたまま横になっていたことに気付き、上体を起こそうとするが、地面を見てぎょっとする。
まるで宇宙のような真っ暗な空間の下を、無数の青白いエーテルの波が一直線に走っていた。
「ここは――」
そして視線を上げると、エーテルの流れと同じ方向に巨大な本棚が両脇に壁のように並んでいるのが見えた。
本棚は永劫に続くかのように立ち並んでいて、空を貫いている。天井も見えず、空も宇宙のように真っ暗であった。エーテルの波が流星のように流れている。
「神の目録――」
対面の本棚に背を預けて座り込んでいるエメリックがぽつりと答える。
「ここが……」
トワは立ち上がると足元を戦々恐々として見下ろす。まるで見えない足場の上に立っているようだった。
「でも、どうして? 止まったんじゃなかったの?」
トワは本棚にびっしりと収まっている本を見た。どれもエーテルと同じ青白い背で、何も文字は書かれていない。
「わるい、止められなかった」
「……」
声のする方を振り返ると、そこには腕を組んでばつが悪そうにしているアリスと、呆然と空を見上げているアカーシャがいた。
「! アリスさん?」
『やはりあいつは……』
「……お前を使わなかったから、ラジエルを使った」
イツカの問いかけにアカーシャは面倒臭そうに答える。
「ケイがあらかじめ用意しといたんだろうね」
「! そんな、それじゃラジエルは……」
アリスのぶっきらぼうな言葉にトワが悲痛の声を上げる。
「……」
アカーシャは一瞬眉をひそめる。その手元にラジエルの姿はなかった。
「神の目録を開くためには多くのエーテルの流れの接続が必要。そしてこの場をこの世界に現出させる、いや僕らをここに繋ぎ止めるのに膨大な情報とそれを受け止める器が必要だったということか。しかし、イツカくんの代わりが既に用意されていた――だと?」
エメリックが今起こっていることを整理する。落ち着いているようでその声からは興奮の色を隠せない。
「トワちゃんがイツカを使わない可能性もあったからね。保険をかけておいたのよ」
「!」
エメリックの疑問に答えるかのように突然声がする。ここにいる誰のものでもない女性の声だ。そしてここにいる誰もが知っている声だった。
長い黒髪に赤い瞳、黒地の振袖姿。
草履をぺたぺたと鳴らしながら一行に近づいてくる。
その一歩一歩が暗闇の地面に青い波紋を作り出していく。
そして一行を見回しながら笑顔で口を開いた。
「みんな久しぶり、元気にしてた?」
この神の目録を生み出した張本人、稀代の魔法司書であり、一行の旧友、そしてイツカの母親であるその人――相馬ケイが、九年前のあの日と変わらない姿のままそこにあった。




