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神徒(8)

 六月十九日、梅雨の合間の晴れの日の夕刻。

 人影もまばらな真っ暗なフロア、壁一面ガラス張りの水槽の中では様々な魚が泳いでいる。

 床にも低い柵で囲まれた巨大な水槽が青い照明で照らされ、無数のクラゲがゆらゆらと漂っている。


「はー」

 ケイはガラス張りの手すりから、口をぽかんと開けて、それをぼんやりと眺めていた。

「そんな好き?」

 隣のクオンが呆れたような、だが楽しそうに笑いながら尋ねる。

「……悠久の時を感じる……」

「なにそれ」


 今日二人は都内にある水族館に来ていた。

 ケイが誘い、学校が終わった後、そのまま相馬家の車でセーフティハウスの一つに向かい、そこで私服に着替えてから向かった。

 今日はクオンの誕生日ということで、完全にお嬢様の接待モードである。


「でもどうして水族館?」

 クオンはずっとクラゲを眺めているケイに尋ねた。誘ってくれたのは嬉しかったが正直意外だった。

「結局一回も一緒に行けたことなかったから、今回は誘ってみようかなって」

 ケイはクラゲを見つめたまま淡々と答えた。

「今回?」

「実は水族館とか動物園てあんま好きじゃないんだよね」

「どうして?」

「だって可哀想じゃん。元々住んでたところから連れ出されて、人間の見せ物にされるためだけに檻の中で生かされてるんだから」

 赤みを帯びた非常に触手が長いクラゲがケイの前を通り過ぎる。

 パシフィックシーネットル――クラゲの中ではかなり大型の方で、その長い触手で小魚や甲殻類を麻痺させてから食べるという。


「うーん。でも今ここにいる子らはここで生まれて、ずっとここで生きてきたんでしょ? 外敵からも守られてるし、それはそれで幸せなことじゃない?」

「……まあ、そうかもね」

「ケイ、最近ちょっとおかしいよ?」

「そう?」

「何か急に大人びたというか――それは前からそうだったけど――この前の研修の後から特に」

「……」

「片桐さんも様子おかしいし、あの――七星さんともよく話してるみたいだし……」

「ああ、逃げてもよかったんだけど、今回は手伝ってみようかなって」

「?」

 困惑するクオンを見て、ケイはどうしたものかと自嘲気味に微笑む。


 あの日、大破したはずの大学図書館は、何事もなかったかのように元通りになっていた。ショーシャンクとレッドの権能が失われたことで全て『なかったこと』になったらしい。

 クオンにも研修の後ケイはアリスを探しに行ったという記憶しか残っていなかった。


 しかしケイ、アリス、アヌビスの三人の記憶はそのまま残っていた。

 そしてデューイを通して前世、正確にはトワとイツカの知っている三人の記憶を取り戻した。

 それは受け止めるには重く、まだ気持ちの整理が出来ていないのが現実だった。

 自分のこれからの選択が世界の命運を分けることになる。その事実を受け入れるには記憶だけでは心許なさが勝っていた。

 元々記憶を取り戻しやすい体質のアヌビスはすんなり受け入れて、魔法司書協会の設立にさらに意欲を燃やしているようだが、ケイはまだそこまで割り切れていなかった。

 アリスも結構ショックだったようで、ここ数日学校を休んでいる。


「……前に私の力の話をしたよね?」

 ケイは覚悟を決めたように振り向くと、クオンを真っ直ぐ見据える。今日は彼女に言わなければならないことがあった。

「えっと、過去と未来が見える的な――?」

 ケイの真剣な表情にクオンもそれが大事な話であることを悟る。

「そう。それで私達は前世の記憶を取り戻した」

「――え?」

「私達は前世、いや正確にはいくつもの並行世界?で時間を共にしてきている。変わったように見えたなら多分そのせい」


「……」

 突然聞かされた突拍子もない話に、クオンはどう返したらいいのかわからなかった。

「まっ、まあ、実は昔からの馴染みだったの思い出したくらいだと思ってもらえば」

 そんな様子を察したケイが慌ててフォローする。


「そこに――」

 自分も含まれているのか? クオンはその問いを口に出しかけて、だが飲み込んだ。

 それを聞いてはいけない。これ以上踏み込んではいけない。何故かそう感じた。

「っ……」

 もちろんそうよ。ケイはその答えを口に出しかけて、だが飲み込んだ。

 それを言ってはいけない。これ以上踏み込ませてはいけない。そう感じた。


 クオンの記憶は取り戻させない。

 それは三人とトワとイツカで話して決めていたことだった。

 彼女自身が将来トワ――神滅の魔女を産むことになるのを知るのは危険すぎた。未来が変わる可能性ももちろんあるが、何より彼女が自分にかかっている呪いを娘に継がせることに堪えられるとは思えなかった。

 これはトワの強い希望でもあった。母には何も知らずに過ごしてほしいと。


 そしてケイにもやらなければならないことがあった。前世の記憶を思い出したことで、それはより確信へと変わった。


「そうだ! クオンにプレゼント渡さないと!」

 お互い気まずい空気が流れ出したところで、ケイはわざとらしく声を上げて、鞄から一冊の赤い本を取り出す。

「それって……」

 クオンはその本に見覚えがあった。あの日からずっとケイが肌身離さず持っている本だ。デューイも妙にその本を気にしているようで、よく周りでそわそわしている。

『……』

「っと、こっちじゃなくて……」

 ケイは一瞬イツカの圧を感じてその本を片手に持ったまま、慌ててもう片方の手を鞄に入れて、さらに一冊の赤い本を取り出す。

「ほいっ! クオンのはこっち!」

 そしてそれをクオンに向けて差し出す。

「あっ、もう一冊あるんだ」

 クオンは受け取ると表紙を見つめる。赤字の厚い本で、ケイの持っているものと瓜二つだったが、こちらの方が新しいように見えた。


「初めて作ったからあんま上手くいかなかったかもだけど……」

 ケイは恥ずかしそうに顔を赤らめて、頭を掻いた。

「えっ? これを作ったの? すごい!」

 クオンは驚いて表紙を開いて頁をめくり始めるが――

「あれ? 真っ白だ」

 中の頁は全て白紙だった。真新しい紙の匂いが仄かに香る。

「日記帳でも何でも好きに使ってよ。いつかきっと役に立つから。たぶん」

「うん! ありがとう!」


 素直に喜ぶクオンにケイはこれで良かったと安心した。

 その本は前世では竜の世界の魔女ケイから依頼されて、ツイのために作るはずのものだった。

 この世界では魔女ケイの魂が入ったデューイは来ていないので、作る必要はないのだが、せっかくなので作ってみた。

 先日の講座の経験と、前世の記憶を頼りに手作業とエーテライズの混合作業による、ルリユール相馬ケイ、最初の一冊だ。

 この聖典の写本の未来は、ケイにもまだ見えない白紙のままだった。


「それと――」

 嬉しそうに頁をめくるクオンを見つめながら、ケイは言いにくそうに口をもごもごさせる。

「うん? なあに?」

 まだ何かあるのかと、期待に瞳を輝かせるクオン。

 それを見てケイは眉間にしわを寄せ、目を閉じ、腕を組んで、その場でぐるぐると周りだし、苦悶の表情を浮かべ、しばらく沈黙し、それでも言わねばと、やがて決意し、目を開いた。


「私、学校やめるわ」


 水槽の側ではしゃぐ子供が掲げた手から零れたペンギンのぬいぐるみが、水の中へとぽちゃりと落ちた。

第四部後編は今しばらくお待ちください。

遅くなってしまい申し訳ありません。

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