神徒(4)
「うっ……」
瞼を開けると目の前にはまだ真新しいカーペットが映る。
床の上で寝ていたようだった。
「ここは……」
身体を起こして辺りを見回す。
小さな液晶モニターとパソコンが設置された座席が、仕切りを挟んで大量に並んでいる。
図書館の視聴覚室。そうだ見学に来ていたんだった。
壁際にはCDやDVD、BDディスクが大量に詰まった書棚が並んでいる。
アリスはその座席の間の通路で倒れていた。
「起きたあ?」
不意に声が聞こえてくる。
振り返ると、部屋の最前の巨大モニターの前に一人の少女が立っていた。
自分と同じ紫苑女子高等部の制服を着ている。
わずかに青味を帯びた長い黒髪に高身長、露骨に短くしたスカートから覗くモデルのような長い足、年齢不相応の大人に見えた。
真っ白な肌に浮かぶ目鼻も美しく、特にその青く煌めく瞳が印象的だった。
そして、何より奇抜を超えて怪異めいているのが、その頭の上に浮かんでいる青い輪っかだった。
「本当はあ、あなたの身体に降りるつもりだったんだけどお、なんか無理っぽかったからあ、自分で作っちゃった。こういう身体が理想なんだあ?」
少女はその妖艶な見た目とは不釣り合いな舌っ足らずな喋りで、言葉の端々の発音やイントネーションがおかしく、外国人の辿々しい日本語発音を聞いているようだった。
「……なんなのあんた?」
アリスはその頭の上に浮かぶ刺々しい複雑な紋様の天輪を見ながら尋ねる。
そして視界の端でガラス張りの部屋の外の廊下をちらりと見る。まだオープン前の図書館で誰もいなかった。こんなことならサボらずに講座に出ておくべきだった。
「神様どえーす!」
少女は両手でピースサインを頭の横に並べて、舌を出して白目を剥く。
「……」
アリスは絶句する。
その品位もくそもないふざけたポーズに不本意にも慄いた、神々しさすら感じてしまった。
「ふざけてん――えっ――?」
沸き起こる感情に逆らい声を上げようとした直後、両目から涙が溢れてきた。
全身から力が抜け、その場に両膝をついて崩れ落ちる。自分の身に何が起こっているのか全く理解できなかった。
「おっ! 感動しちゃってるう? 人間ん!」
少女は嬉しそうに手を叩いて笑う。
「無理もない無理もない。アタシも本当はあ、こんなとこ降りて来たくなかったんだけどお、面倒になる前に潰せって、みんなが五月蝿いからあ」
そして自分の顔の機能を試すかのように表情をころころ変えながら、要領を得ない言葉を続ける。
「――名前……は?」
アリスはぐちゃぐちゃになる感情を押し殺して、どうにか声を絞り出す。
信じたくはないが目の前にいる少女は、この世ならざる存在。そう本能が囁いている。ならばせめて神の名とやらを知ることができれば、その正体を知る手がかりになるかもしれない。
「うーん。そういうのアタシらないからなあ。ん? そうだ!」
少女は何か気付いたかのように壁際の書棚に向かうと、そこから一本のDVDソフトを取り出す。中身は空だった。
「アタシの名はショーシャンク! どう? どう? かっこいいっしょ!」
そして得意げにその名を叫ぶと、嬉しそうにアリスに迫っていく。
「くっ……」
アリスはその度に強烈な圧を感じて、その身を床に折り曲げていく。頭がおかしくなりそうだった。
『いつまで遊んでいる』
そこへ突然別の声が聞こえてくる。中性的な不思議な声だった。
部屋の天井が光り、一匹の白い猫が現れてゆっくりと降りてくる。
「!」
アリスはその猫に見覚えがあった。ケイとクオンがいつも連れている猫――いや、よく似ているが毛並みの色が違う。
「殺られた奴がなんか言ってるー! 負け猫の遠吠えー!」
少女――ショーシャンクはわざとらしく叫びながら、その猫を指差す。
『黙れ。全く、これだから人間は嫌なのだ』
猫はそうため息をついて言い捨てると、首を振って辺りを見回す。
『――それで、我らが徒はどこに捕らえられている?』
「下かなあ。4500万秒後くらいに勝手に出てくると思うけどお」
『時間などどうでもいい。今すぐ取り戻すぞ』
猫が視線を落とすと、突然床がぐにゃりとひしゃげ、そして破裂した。
図書館全体が大きく揺れ、床に大穴が開く。それは三階から地下大ホールまで続いていた。
『行くぞ』
猫はその大穴の上に浮かび、下に降りようとする。
「ちょいまちっ!」
しかしショーシャンクは手を上げてそれに待ったをかける。
『――なんだ?』
「名前を決めておこう」
そして深刻そうな顔をして提案する。
『は?』
「いや名前なんてって思ってたけど、いざ決めるとこれが何故かしっくりくるんだあ! だからアンタの名前も決めようぜえ!」
『……好きにしろ』
猫は心底くだらないと言いたげな表情を浮かべると、大きく欠伸を一つした。
「じゃあレッド! 赤くないけどレッド! 記憶のない海 (ジワタネホ)を目指そうぜえ」
『意味がわからん』
そしてショーシャンクは猫――レッドの首根っこを摘むと、大穴に飛び込もうと一歩踏み出すが、すぐに静止する。
『今度は何だ?』
「きたよ」
ショーシャンクはぽつりと呟き、振り返ると、部屋の入口に一人の少女が立っていた。
「――どうやら、かなり最悪な状況のようね……」
相馬ケイは呆れたような声で、ひとりごちた。
七星アヌビスは三階視聴覚室に向かった相馬ケイを追って、階段に向かっていた。
睦月クオンは彩咲エイゴウに任せた。今は運命的にもそれが最善と思われたからだ。
「さて、どうしたものかしらね」
追いかけてはみたものの、その後どうすべきかは決めかねた。
残念ながら今の自分には襲来する『敵』に対抗する術はない。ただの女子高生だ。
ちょっと他の人よりも記憶が得意なだけの。
子供の頃からそうだった。
前世の記憶ともいうべきものを、時折思い出す。始めはデジャブの類だと思っていたが、一度思い出すと、芋づる式にその先の未来までも見えた。
睦月クオンと彩咲エイゴウが将来恋仲になることも知っていた。そのために相馬ケイが奔走することも。
しかし未来が必ずしも一つとは限らないことも知った。世界は絶え間ないループをしている。或いは無数の並行世界が存在すると考えるようになった。
そして自分がそんな体質になった原因が、一冊の本であることを突き止めた。
その本――『聖典』が一年後、この紫苑女子大の図書館に現れる。
未来の自分から託されたこの記憶で、やらなければならないことがある。
それは――
「うん?」
『にゃ?』
階段を降り、三階の廊下に出ようとしたところで、同じく階下から階段を登ってきた一匹の猫と鉢合わせた。
『(やばっ!)』
『(えっ? あれアヌビス――さん?)』
「んんー? この猫、どこかで――?」
アヌビスはデューイをしかめっ面で見つめながら、脳内の膨大な記憶を辿る。
今まで見てきた異世界の記憶の中で、つどつど『邪魔をしてくる』猫の存在があった。
毛並みの色こそ違えど同じ猫に見えた。
『……わたしがわかりますか? アヌビスさん』
『(トワっ?)』
何事もなかったかのように、極自然に語りかけるトワに、イツカは驚愕する。
「っ!……しゃべる猫……記憶にあった通り……か」
目を見開き一瞬驚きの表情を浮かべるアヌビスだったが、動揺を押し殺すように、声を震わせながら自問自答する。
『(慎重にって言ったろ!)』
『(だってだって! たぶん今度はわたしたちだけじゃどうにもならないよ!)』
『(くっ……それは……)』
「……デューイ。で合ってるのかしら? 一体私に何の用?」
アヌビスは警戒心を剥き出しにデューイから距離を取って、慎重に尋ねた。
『(どうやらこの頃から全てお見通しってわけじゃなさそうだな。しかし説明している時間は――)』
『にゃ!』
「いたっ!」
わずかに身を屈めたアヌビスに向かって突然飛びかかったデューイは、彼女の頬に鮮烈な猫パンチをクリーンヒットさせた。
『トワっ?』
突然の行動に思わず素っ頓狂な声を上げてしまうイツカ。
『ためしてみた』
「……」
アヌビスは殴られた頬もそのままに、呆然と立ち尽くしていた。爪は出ていないので怪我はしていない。
「これ……は……?」
殴られた瞬間、何かが頭の中に弾けたような感覚があった。
直後、これまで堰き止められていた水が溢れ出すかのように、一斉に脳内を記憶が満たしていく。
この猫――デューイの中にいる彩咲トワと相馬イツカが辿ってきた記憶。幾つもの世界を渡り、そこで出会ったアヌビスとの記憶。その全てが――
「……なる、ほど……そういう、こと、か」
アヌビスはふらふらとその場に膝をついて、両手で頭を抱える。一気に膨大な記憶が繋がり、その整理に眩暈を覚える。
『うまくいったみたい』
『あぶねーな』
『あっちのケイさんもそれでいけるって言ってたでしょ?』
デューイを通して記憶を取り戻させる。これは竜の世界から旅立つ前に魔女ケイからやり方を教わっていた。
『これは母さんにだけ使う最終手段だろっ!』
『だってだって!』
トワとイツカは代わる代わるデューイを通して言い合う。
アヌビスはその様を苦悶の表情を浮かべながら眺めていた。
「はぁ……それで? あっちの世界まで行ってイツカさんの魂を取り戻したあなた達は、今度は私が聖典を手にするのを邪魔しにきたと?」
そしてようやく顔を上げると、一つ一つ確認するように、ゆっくりと尋ねた。その目つきはかつて会ってきた大人のアヌビスと同じものだった。
『お母さん達があぶない!』
『どうやらよくわからん奴らもこの世界にちょっかいを出し始めてるようだ。俺達はまずそれを阻止したい』
二人の返答に、アヌビスは再び頭を抱えて深くため息をつく。
「わかったわ。でも今の私に大したことはできないわよ? まだ聖典は現れてないんだから、エーテライズだってできない」
そして自らの学生姿を見せびらかすかのように肩をすくめる。
『だがやり方は思い出したはずだ』
「……」
イツカの言葉にアヌビスは自らの掌を見つめる。この手で数限りなく行ってきた経験の記憶に思いを巡らせる。そして――
直後、三階の廊下から凄まじい破裂音が響く。
アヌビス達が振り返ると、視聴覚室の壁が吹き飛び、その粉塵の中からケイが飛び出し、その背を吹き抜けの鉄柵に強く打ちつけられて、苦悶の声を上げる。
『イツカくん! いくよ!』
『そっちは任せるぞ!』
二人はそう言うと、ケイの元へと走り出した。
「……まったく。あれだけの仕打ちを受けて、まだ私を信用するとは本当に――」
アヌビスは廊下を駆けるデューイを見送りながら、呆れ声で苦笑した。
そして今の自分に出来ることを成すために、階段を駆け下り始めた。