第七話 隣国の王
「ディスピアの王、グローシア・ヴェル・スピアータ……か」
シューカはユリに言われたことを思い出す。
ディスピア王国を統べる若き王。グローシア。シューカは顔を見たことがないが、ユリは一度対面したことがあるらしい。
戦士のように筋肉質で、豪快な風貌の男であり、よく笑うとか。しかしその性格は残忍そのものであり、戦争では情け容赦など見せることなく敵勢力を惨殺し、配下の処罰にも一切躊躇いを持たない。
そんな男が頭に据えられているからなのか、ディスピアという国にはどこか冷たい印象を受ける。
例えば、ディスピアでは家族という概念が希薄である。
これには人間は全て等しく神の子だと教える宗教的事情もあるが、産まれた子供はすぐにほぼ全員親元から引き離されて、国家が運営する教育施設に預けられるという法が存在していることも大きい。
場合によっては、その後死ぬまで一度も親の顔を見ないことすらあるらしい。ディスピア人にとって誰が親で誰が子かということは大した問題ではなく、気にすることもあまりないのだとか。
この制度から逃れることができるのは、血統に特別な価値のある一部貴族や職人のみである。
その教育機関でディスピアに命を懸けて尽くす忠実な国民たちを育て上げる。貧しくても文句ひとつ言わず、死ぬまで国家のために尽力する口無き民。それが大勢できあがり、やがて強力な労働者や兵士に成長する。
これがディスピアに住む人々にとっての当たり前であり、常識なのである。家族という概念がないわけではないが、それを重要視することはなく、国家のために働くことを至上の喜びとする国民たち。
そんな人々に支えられ、ディスピアは今日も発展を続けている。そんな彼らの頂点に君臨しているのがグローシアだ。
これは一種、強き国の在り方として、強き王の在り方として、間違ってはいないのだろう。どれだけ受け入れがたくとも、国が繁栄しているのであれば一つの正解だと認めざるを得ない。しかしユリやシューカの理想からはかけ離れている。
国のために民があるのか、民のために国があるのか、決して相容れない壁がそこにはそびえたっている。
それでも隣国である以上上手く付き合っていくしかない。ユリは取り引きをより盛んにして、争いを避ける方向で対応を進めようとしている。
女王がその道を選ぶなら、シューカもまたその道を共に行くのみだ。
「何も起きなければいいが…………」
シューカは自室のベッドの上で願望を込めて呟く。
剣を抜くことなど、一度もないのならその方が良い。十七歳の少女が王になることなど世界的にも珍しい話ではない。
しかしかの暴虐の王が、ユリを対等な王として見るだろうか。答えは恐らく否だろう。
あらゆる手を使ってユリの動揺を誘い、少しでもいい条件で取り引きを成立させようとするはずだ。
何も起きない────ということは恐らく有り得ない。絶対に何かが起こる。
この直感はシューカが十年近い冒険者歴の中で培った経験の賜物である。外れることもあるが、当たることもある。無視できない程度には確率の高い直感。
もう日はとうに沈んでいる。夜間もネモが使役するモンスターたちが警備を行っているので、何かあればすぐにシューカに連絡がくるはずである。
最も気を張らねばならないのは少なくとも今日ではない。
何か起こる日が来るとして、その日を万全の状態で迎えなくては、前日までに精神を擦り減らしすぎて持ちませんでしたでは話にならない。
それまでは充分に休むのが自分の仕事だ。そう思い、シューカはいつもより早めにベッドに入ったのだった。