第二話 剣士の帰還
穏やかな光が顔を刺し、少年は目を細める。
馬車から降り、馭者を一言労った後、少年は天に向けて両手を突き上げて全身のコリをほぐす。
彼はどこにでもありそうな布製の衣類の上から、急所を守ることのみに特化した軽い防具を当て、ボサボサの白髪を自由に遊ばせている。腰には使い込まれた二本の剣が据えられ、鈍い光を放つ。
少年はその剣の柄を軽く撫でた後、目の前の城に向けて一歩踏み出した。
石で造られたそれは、三階建てで敷地は民家十軒分ほど。城と呼ぶにはやや小さめであることは否めないが、その頑強な佇まいは紛れもなく城と呼ぶに相応しい。
「……変わってないな」
少年が正門の前に立つと、ゆっくりと大きな音を立てながらそれは開く。完全に開き切るのを待つこともなく、少年は敷地内へと入った。
周囲には城下町もなく、正面には大きな通りがあるわけでもない。ただ高い城壁でグルリと一周囲まれていて、その内側に小さな庭が広がっている。
そこでは花が育てられていたり、野菜が育てられていたりするが、それもかなり小規模だ。家庭菜園レベルである。
城の庭と言えば、石畳の道が伸び、その脇に綺麗に剪定された木が等間隔で並び、花もギッシリと咲き誇っているというイメージだが、この城においてそれはない。
彫刻もなく、城壁には装飾の一つもない。ただ無骨に石が積んであるだけだ。これではもはや城と言うより要塞である。
ただ一点、城の入り口前に立つ一人のメイドのみが、ここが確かに王城であるということを主張しているようであった。
黒い長髪を垂らし、純白のカチューシャでそれを留めている。意志の籠った力強い切れ長の目で来訪者を出迎え、一切文句のつけようのない丁寧なお辞儀を披露する。その姿にはまさに麗しいという一言が相応しい。
「お帰りなさいませ。シューカ様」
「久しぶりだな。トレア。一年ぶり……か?」
「正確には十か月前にお会いして以来でございます」
「そうか。こっちの方で仕事があった時に寄ったんだったな。それで、父上の容体はどうなんだ?」
トレアは目を伏せ、これからする報告が朗報でないことを示す。
「芳しくありません。日に日に病状は悪化しており、三日前よりお声を発されることすら叶わなくなってしまいました。バーベの治療もあまり効果がなく……」
「治癒魔法は外傷しか治せないだろ。……いや、バーベは医者の卵だったか。その様子だと、どうやら本当に深刻らしいな」
「はい、もういつその時が来てもおかしくないとのことです。シューカ様のお顔を見たがっておられましたので、旅の疲れもあるとは思いますが、可能ならば今すぐにでも……」
「ああ、すぐに行こう。俺も挨拶はしておきたい」
「ではこちらへ」
トレアは扉を押し、城の中へシューカを招く。
床に敷き詰められた絨毯。天井からつるされた照明。壁にかけられた数点の絵画など。城の内装はさほど高級でもないそれらによって何とかその体裁を保っているという感じであり、この城の財力が余裕のあるものではないことを示している。
「お忘れではないとは思いますが、ウラク様の寝室は三階の北端にございます」
「わかってる」
トレアに促されるまま、シューカは階段を上り、廊下を進み、その部屋の前まで辿り着いた。
扉の脇には二人のメイドが控えている。この城に仕えているメイドは三人。その内の二人がこの部屋に張り付いているとなると、状況は相当緊迫しているようだとわかる。
「お帰りなさいませ。シューカ様」
二人はシューカの顔を見るなり、声を揃えて言う。
「プリーアもネモも、久しぶりだな」
「お元気そうで何よりですわ。また一段とたくましくなられましたね」
扉の左側に立つ長身のメイドが、口元を手で隠しながら頬を綻ばせる。その洗練された佇まいは、使用人と言うより貴族のようだ。
「また大きくなったんですか? ネモは全然変わらないのに……」
今度は扉の右側に立つ小柄なメイドが、自身の頭をポンポンと抑えながら、がっかりした表情を見せる。
二人ともあまりトレアとは似ていないが、彼女らは三姉妹でこの城に仕えているメイドたちだ。幼少の頃から仕事に励んでおり、シューカとは年代が近いこともあり親しくしている。
「ネモは、今年十三だよな? なんか五年位前から何にも成長していないような気がするんだが」
「そんなことないです! しっかり伸びてます! 年に一センチずつぐらい!」
「やっぱりあんま変わってないじゃないか。それに比べてプリーアは何から何まで巨大化していると言うか……」
シューカは自分とほとんど目線の変わらないプリーアを見て唸る。
男児としては女性に、しかも使用人に背丈を抜かれかかっているというのは思うところがある。
「今年で二十一になるのですが、未だに成長しているようで、定期的に衣類のサイズを仕立て直さなくてはならず、大変ですわ」
「姉妹で対極な悩みだな。間を取れたらよかったのに」
「トレア姉さまがそんな感じかも。身長も間ぐらいだし」
「そうですわね。私の背もあれぐらいで止まってくれたらよかったのに」
軽く雑談を交わしたところでシューカが唇を引き結ぶと、メイド二人はその空気の変化を瞬時に察知し、姿勢を正した。
「父上は中に?」
「はい、現在はユリ様とお話をしておられますわ。と申しましても、ほとんど会話ができる状態ではございませんが……」
「そうか。俺が入っても?」
「ウラク様から、シューカ様が見えたら通すようにと言われています。どうぞ」
二人のメイドは軽く頭を下げつつ、扉の前を開けた。
シューカはそこにできた道を通り、ノックをした後に室内へと入る。
室内には大きなベッドが一つ。そこには白髪の老人が横たわっており、その脇にシューカと目元のよく似た少女が座っている。
「あ、お兄様。帰っていらしたんですね」
「ついさっきな。どうだ、父上の様子は」
「昨日までは何とかお食事も取られていたのですが……今日はまだ朝から何も」
シューカはチラリと老人の顔を見る。
シューカの記憶にある父の姿とは、まるで別人であった。生気がゴッソリと抜け落ち、首や肩は骨が飛び出てしまっていて、普段の食事量が相当減っているのだということがわかる。
力強い王であったかつての威厳はそこにはない。眼前に迫った死を、ただ待つだけの男の姿がそこにはあった。
「本当に……もう長くはなさそうだな」
「…………はい。お父様は遺言としてこれを」
少女は近くの棚に置いてあった一枚の紙をシューカに手渡す。
「『私が死んだ後、フロティアの統治はユリ・フロティアに任せるものとする。シューカ・フロティアはその支えとなること』か」
簡潔に今後の方針が書かれたその紙の内容にシューカは納得し、時間をかけて咀嚼した後、首を縦に振る。
「以前言っていた内容と変わらないな。俺はこれで構わない」
「…………申し訳ありません。お兄様。本来であれば、長男であるお兄様こそが次の王位につくべきところを…………」
「仕方ないさ。生まれ持ったセンスの問題だ。俺は戦闘に特化したセンスで、お前は国王として相応しいセンスだった。お前ならこの小国を、五大国にも負けない超大国にすることだってできるはずだ」
「それはいくら何でも買いかぶりすぎです!」
「それぐらいの気概がいるってことだ。俺もサポートするから、安心しろ。ユリ」
「は……はい……」
少女はシュンと縮こまり、小さく頷く。その頭を軽く撫でてやり、シューカは改めて妹を支援する意志を固めた。
「……………………シ…………カ」
その様子を見ていたのか、ベッドの上からか細い声がこぼれてくる。
「────父上?」
「………………戻った………………か」
枯れ切った唇を震わせ、その隙間から何とか音を漏らしている。
「はい、たった今帰ったところです」
「こ…………から………………二人で………………フ…………夢を…………」
何を言っているのかは聞き取れない。しかし何を言わんとしているのかは、シューカには理解できた。
「お任せください。必ず、二人でこの国を守ってみせます」
「……………………」
シューカの力強い宣言を聞いて満足したのか、老人はその細い腕を二人の子供に向けて伸ばしつつ、瞳を閉じた。