襲い来るもの
茂みの中から、オークが三匹飛び出してきた!
そして、そのまま脇目も振らず俺たちを無視して、彼方へ駆け抜けていった。
「……あれ?」
呆気に取られながら、オークが去っていった後を見る俺。
何しに来たの、あいつら?
だが、そんなのん気な感想を抱く俺とは裏腹に、デルムッドとアシュリーはまだ警戒を解いていなかった。
「何をボーッとしてるの、コタロー! 急いでここを離れるわよ!」
「ど、どうしたんだ、アシュリー? あいつらもう逃げてったぞ?」
「逃げていったからよ! 人を襲うオークが、興味も示さずに逃げていったのよ? それだけの何かが、あいつらを追いかけてたって証拠――」
アシュリーが言うより早く、森の中に獣の絶叫が響き渡った。
オークたちが飛び出してきた方からだ。
バキバキと、梢をなぎ倒しながら何かが迫ってくる音がする。
枝葉の隙間から、その巨体は俺たちの前に顔を見せた。
赤黒い肌の巨人。
オークが二メートルだとするなら、こいつは三メートルはある。毛皮はなく、全身が筋肉の鎧に覆われており、赤く輝く瞳は理性を感じず、その口元には凶悪な牙が並んでいる。額に生えた牛のような触角は、俺に日本の民話のある存在を思い出させた。
――『鬼』。
「オーガよ! 森の主が、なんでこんなところにいるの……?」
アシュリーが戦慄の滲んだ声を漏らし、矢を弓につがえた。
目の前のオーガは、俺たちより大きいオークの巨体を片手で掴んでいる。血に塗れたオークはすでに息絶えており、オーガの食糧と化したのだろう、食いちぎられた無残な肉の断面を、いくつか覗かせていた。
ぐちゃぐちゃとオーガの口元が動き、ごくりとのどが嚥下する。
食っている。魔物を食う捕食者。この大きさだと、もしかせずとも人間も――
「……逃げなさい、コタロー」
覚悟を決めた声で、アシュリーがつぶやいた。
「あたしが弓でしんがりを務めるわ。この方角にまっすぐ行けば街がある。コタローはあたしのギルドカードを持っていって、門番の衛兵に、オーガが近隣に出たことを伝えて。すぐにギルドと騎士団が動いてくれるから」
「ギルドカードを持ってくって……あ、アシュリーはどうするつもりなんだよ?」
「一般人を守るのは冒険者の義務よ。安心なさい、何としても、あんたには追いつかせないから」
「戦って、勝てないのか? 全員でかかれば――」
「無理よ。オーガと少数で戦えるのは上級騎士くらいよ」
オーガが自分たちに照準を合わせるように、こちらを見た。
アシュリーは追い立てるように俺の背中を叩き、そして弓に矢をつがえる。
そして、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……あたしの狩りにつき合わせたから、こんなのに遭う羽目になっちゃったわ。ごめんね、コタロー。どうか無事に逃げて」
それは違う、と思った。
狩りに付き合うのは俺だって同意した。街での資金が欲しかったから。
それに、こいつがこの辺りをうろうろしていたなら、狩りの遠回りなど関係なく、この道から森を抜け出ようとすれば必然的に遭遇していただろう。
アシュリーのせいじゃない。
お前が、そんな命を懸けた表情で思いつめる必要なんてないんだ。
「わんッ!」
デルムッドが吼え、俺を振り返る。
見ると、ゴブリンたちも同じ表情をしていた。
自分たちが盾になる、と。
召喚された、カードである自分たちならば、やられてもカードに戻るだけだと。
そう理解して、俺に訴えているようだった。
「すまん、デルムッド! ゴブリンズ! 戦闘態勢だ、俺たちの退路を確保するまで時間を稼いでくれ!」
デルムッドたちは、待ってましたと言わんばかりにアシュリーの前に出た。
武器である大鹿の角を構えて威嚇を始めるゴブリンズ。
一瞬、呆気に取られているアシュリーの手を引き、正気に返らせる。
「あいつらが足止めしてくれてる間に、逃げるぞ、アシュリー!」
「そんな、ゴブリンたちだけじゃ逃げ切れるわけが――」
「囮は用意する! 召喚、『スモールウォール』!」
こちらを目指して走り出すオーガの注意をそらすべく、距離のあるうちに『誘導』持ちのスモールウォールを召喚する。
一歩間違えれば自分たちに注意を向ける愚策だけど、オーガがこいつに気を取られてる間に横からデルムッドたちが一斉に攻撃すれば、勝機が見えるかもしれない。
「走れ! オーガはその壁に向かってくる!」
「わ、わかったわ!」
囮のストーンウォールをその場に残し、俺とアシュリーは森の中を駆け出した。
背後から、ゴブリンの悲鳴が聞こえた。
召喚枠が一枠空いたのを感覚で察知する。交戦したゴブリンがカードに戻された。
予想はしてたけど、ゴブリンは一撃でやられちまうのか。
一枠で済んでるのは、攻撃が当たらないようにがんばって回避してるんだろう。
回避能力と攻撃力の高いデルムッドに期待するしかないか。いや、あの筋肉だと、デルムッドでさえ当たれば一撃でやられる可能性が高いが。
その前に、奴を振り切れるところまで逃げなければいけない。
木々の枝や茂みをかき分け、とにかく走る。
また召喚枠が一枠空いた。万が一のことを考え、遠距離攻撃用にプチサラマンダーを召喚して肩に乗せて走る。ゴブリンを呼び出して足止め用に置いておくと、ゴブリンの気配がする方向に俺たちが逃げているとオーガにバレるからだ。
援軍は用意できない。
そのことを理解していてなお、デルムッドとゴブリンズは足止めのしんがりを買って出た。
俺とアシュリーが逃げ切れなければ、その想いが無駄になる。今は逃げるんだ。
息が上がる。身体が重く感じる。けれども、走るのを止めようとは思わない。
限界を超えて、身体が勝手に動いていく。これが死の恐怖か。
緊張からか、アシュリーも息を乱していたが、互いに懸命に走り続けていた。
召喚枠が二枠空いた。
最後の召喚枠が残ったままということは、壊されたのはスモールウォールか。
デルムッドがまだ、がんばってくれているらしい。
でも、それも時間の問題かもしれない。
肩に乗せたプチサラマンダーを残し、召喚枠がすべて空いた。
すまん、デルムッド。ゴブリンズ。後で絶対に召喚しなおすから。
「アシュリー! 出口はまだか!?」
「もう少しよ! がんばって!」
獣道を分け入るように、森の中を進んでいく。
やがて、木立の密度が薄くなりはじめた。明らかに道が広くなっている。
間伐――人が間引いて伐採しているのか。それなら、森の終わりは近い。
開けた林道を抜けた先に、待ち望んだ、木々の切れ間が見えた。
出口だ! 森を抜けた――
「――きゃあっ!」
「アシュリー!?」
アシュリーが悲鳴を上げ、その場に転倒した。
木の根につまずいたか? こんなときに?
違う。
うめき声を上げるアシュリーが押さえた足からは、血が流れていた。
そばの木の根に、大きな刃物が突き刺さっている。飛んできたこれに足を切られたらしい。
「これは……大鹿の、角?」
見覚えがある。
ゴブリンズが武器に使っていた大鹿の角だ。こびりついた血の跡も折れた断面の形も記憶にあるまま。
なぜ、この刃物がここにあるのか。
それはつまり、
「くそ――追いつかれた!」
背後の林道の奥で、血まみれのオーガがにたり、と笑っていた。




